部長、参加厳禁
レダニス救貧院、地下2階の一角。
最深部に続く、封鎖された階段が、薄明かりの中に遠く見える。
物陰に隠れて廊下の様子をうかがっていたわたしの背に、ずっしりと重みのあるものが乗った。
「……ぜんっぜん、動きがないじゃないのぉ」
「デュルレさん……胸が……」
「あら、ランったら、ウブなんだから」
──この人は……(怒)
デュルレ・ファナーシ──妓楼<黒薔薇>の主人にして、陸軍予備役中尉。
今夜の装いも黒衣だったが、以前にお店で見たような、光沢のある豪華なドレスではない。
修道女が着る衣装のように、幅の広い襟。
一見、落ち着いた服のようなのに、よく見ると胸元や二の腕のあたりはメッシュになって、肌着らしい黒いレースの模様が浮き上がっている。
「……静かにしていろ。気どられるぞ」
暗闇の奥から、冷たい声がする。
<黒薔薇>の用心棒、スピアだ。
ここにいるのは、5人。
わたしとネルーさん、デュルレとスピア、そして修道女のアステルさん。
今夜ばかりは、部長もニッケも、参加厳禁だ。
ネルーさんのところで<女子会>をするんだと、苦しい言い訳をしてどうにかごまかしたのだった。
時刻は、真夜中を過ぎていた。
ほぼ完全な、闇。
感じられるのは、冷たく、少し湿った石の感覚。
みんながすぐそばにいると知らなければ、逃げ出したくなってしまうだろう。
「……来るわよ」
ネルーさんがつぶやく。
息を殺して、階段のほうを見つめる。
コツリ、コツリ。
小さな足音。
階上から、弱々しい光がさしてきた。
人影。
深くフードをかぶっていて、顔は見えないが、たしかに女性だ。
金属のこすれるカチャリという音がして、光が一気に小さくなる。
扉を通ったのだ。
足音を忍ばせて、扉の前に急ぐ。
錠前が開いたままになっている。
スピアを先頭に、ネルーさん、わたし、アステルさんと続き、最後にデュルレが階段を降りた。
地下3階。
物理的にも魔術的にも封鎖されてきた空間。
空気がいっそう澱んでいる。
「……なんてこと」
ネルーさんが<感知>した痛みをこらえるように、こめかみをおさえた。
──わたしにも、うっすらと見える。
廊下の中央部に、アステルさんが言った通り、壁から光が漏れている場所がある。
その壁から、ヌメヌメとしたツタのような<何か>が這い出して、壁や天井を覆っている。
それは、ドクンドクンと、血管のように脈打ってさえ見えた。
──物理的な存在ではない。
アステルさんやスピアには、まるで見えていないようだ。
だが、わたしには見覚えがあった。
子供たちの<意識>に、根を生やしていた、あの毒々しい<何か>。
光が漏れる壁の前に立つ。
ひそひそと、ささやくような声、声、声……。
壁の中から、笑い声にも悲鳴にも聞こえる<何か>の声が、漏れてくる。
スピアが石壁に手を当て、力を込めると、隠し扉が音もなく開いた。
なんの抵抗もなく……。
それだけ、この部屋を封印していた魔法の効力が、薄れているということなのか──。
<地獄の部屋>。
室内は、想像以上に広い。
床面がさらに掘り下げられている。実際には地下4階の深さがあるのだろう。
そんな空間に、6列、黒い書架が据えつけられ、重厚な書物が並んでいる。
入り口から続く石段を、慎重に降りていく。
書架に並んだ本は、大きさも形状もさまざまだ。
なかには、刻印の入った鎖で厳重に縛られているものまである。
そして──
扉の正面。中央の通路を数メートルほど進んだ先に、開けた場所があった。
立ったまま本を閲覧するのだろう、書見台が並んだ、閲覧用の大きな長机。
その机の前に、フードをかぶった人物が立っていた。
その人物は、いままさに、書見台に置かれた本を開こうとしている。
毒々しい、深紅の皮表紙の、書物──。
「シスター・ターニア!」
ネルーさんが声をあげる。
女性が、あわてたように振り返る。
かぶっていたフードがはずれて、顔が見えた。
──なんて、きれいな人だろう。
そう、思った。
青みがかった銀髪。
スッと通った鼻。
切れ長の瞳の上に、毛先の巻いた長いまつげが並んでいるのが、遠目にもわかる。
当惑、そして、恥じらいの表情──。
だが、その瞬間、彼女の姿が視界から消えた。
禁書から濁流のように溢れ出したツタのような<何か>が彼女に巻き付いていく。
美しい目は覆われ、耳は塞がれた。
ツタはとめどなく本から流れ出て、あたりを埋め尽くす。
そして、泥のようなツタに押し上げられて、シスター・ターニアの身体が宙に浮かんだ。
下半身に巻きついたツタは幹のように太くなり、彼女の身体と一体化している。
まるで、邪神の像か何かのように、まがまがしい姿──。
「ああ……っ」
アステルさんが叫ぶ。
──ん? ちょっと待って?
アステルさんにも、これが見えている──?
「こいつ……具現化しやがったっ」
スピアが苦々しい顔で言うと、ヌルヌルと伸びてくるツルを剣で切り払う。
シスター・ターニアの喉をかりた<何か>が、甘い声を出した。
<ああ……アステル……ようやく……ようやく、ここまで来てくれた……>
ドス黒くぬめったツタが、アステルさんに向かって飛びかかる。
──ひっ
わたしが身を縮めると、デュルレがパチリ、と指を鳴らした。
触手のように伸びてきたツタは、いっせいに白い炎をあげ、灰となって崩れ落ちる。
「……もうちょっと、艶っぽい相手を期待したんだけど」
デュルレが、さもつまらないという顔で言う。
異形と化したシスター・ターニアは、そんなスピアやデュルレの反撃には構う様子もない。
ただ、ひたすらアステルさんに呼びかけつづける。
<わたしは……ずっと……求めていたのだ……>
<アステル……そなたを……>
<なぜだ……なぜ、逃げる……>
<さあ……わたしのもとへ……っ!>
ドウッ
不意に、黒いツタが大波のように、アステルさんに覆い被さってきた。
わたしは、とっさにアステルさんを突き飛ばす。
「ラン──!」
ネルーさんの叫びが聞こえた。
黒い波に、飲み込まれる。
ヌメヌメと、生臭く、湿ったツタの感触。
だが、その感覚は次第に麻痺していく。
強烈なビジョンが、頭に送り込まれてくる。
目をかたく閉じているはずなのに、周囲が明るい。
そして次の瞬間──
目の前に、アステルさんが見えた。
天使のような笑顔。
甘い髪の香り。
肌に触れる温もりを感じる。
やわらかな、くちびるに触れる……。
これは、アステルさ……ん……じゃない……。
でも……触れ……て……いたい……。
……ダメだ、ダメだ、ダメだ。
ゾクゾクと突き上げる欲望で、意識が融けてしまいそうになる。
これは、わたしの感覚じゃない。
きっとこれが、シスター・ターニアの心の奥底にあった願望なんだ──。
耳元で響くアステルさんの吐息に、理性が消し飛んでしまいそうになる。
わたしは、崩れそうな<自意識>の中で、叫んだ。
──<禁止挿語>!
ドサッ
自分の身体が、床に叩きつけられるのがわかった。
わたしに巻きついていたツタが、腐ったようにしおれていく。
「ラン、大丈夫かっ!?」
アステルさんを守りながら、スピアが叫ぶ。
「……あの本の中に、すごく生々しい、アステルさんがいる……」
「わ、わたくしが?」
アステルさんは、困惑した表情を浮かべた。
「なるほど……<生命傀儡>ね」
デュルレが、低い声を出した。
「<生命傀儡>?」
「人間の生命を使って動かす<生き人形>。精霊魔法を応用した、外道魔法よ。
強力な術者なら、この世には存在しない怪物を実体化させることだってできる。
それが、あの本の場合──読む人を誘惑し、幻想の虜にする<魅惑の存在>を生み出すんでしょうね」
「……なんで、そんなことを……?」
わたしが聞くと、禁書をにらみつけていたネルーさんが、吐き捨てるように言った。
「……あいつ自身が、楽しむためよ」
──あいつって……?
ネルーさんは、デュルレに言った。
「中尉、術者の<意識>とシスター・ターニアを切り離します……わたしが<照準>した場所を<射て>ください」
「いいわねぇ、なつかしいじゃない」
ネルーさんが目を閉じると、デュルレは豊かな黒髪をかきあげた。
デュルレのうなじに手を当てたネルーさんが、呟くように唱えた。
「<我が眼は汝が眼……我が見しものを汝も見よ>」
にやりと笑ったデュルレの虹彩が、空色の光を放つ。
「……そんなお題目なくたって、<同期>してるでしょ、わたしたちはッ──
<焦点焼灼>!」
デュルレの周囲の空間が、歪んで見えた。
その刹那──
無数の細い閃光が、曲がることのない針のように直線の軌跡を描く。
その光が、精密な手術のようにツタの急所を貫き、串刺しにした。
ギョオウェェェェェェェェェッ
絶対に、人間のものではない叫び声。
シスター・ターニアにへばりついていたドス黒いツタがボロボロと剥がれて、彼女の身体が床に投げ出される。
ツタは、苦しみに震える芋虫のように蠕動する。
それはウネウネとうごめいて塊となり、人間の顔のようなものが出てきた。
「ボ、ボ、ボクハァ……ユメヲォ、カナエテ、ヤルンダァァ……シアワセナ、ユメヲォォォォ」
「こいつが術者の<残りかす>かっ……正体、現しやがったなっ……!」
スピアが剣を構えて、巨大な顔に駆け寄り、地面を蹴って斬りつける。
ズバッ
叩き割られた顔は、苦しみに歪んだように見えた。
だが古い顔はすぐに溶けて流れ去り、傷口から、また別の顔がニュルニュルと生えてくる。
「ボボボボ、ボクガァァァァ、ミンナァァ、キモチ、ヨクゥ、シテ、ヤルゥゥ、グフフフフフフフ……」
スピアは身をよじり、食らいついてきた顔をギリギリで避けて、後退した。
「……<宿主>を奪われても動き回るなんて……スピア、本体は<魔導書>よ、そっちを叩いて!」
ネルーさんが言うと、スピアはオオオオオオオと雄叫びをあげ、黒い塊に向かっていく。
繰り出されるツタを高速でかわしながら間合いを詰めたスピアは、ドンッと音を立てて踏み切り、高く跳躍した。
<魔導書>の怪物の真上から、剣に全身の力を込めて、落下する。
怪物は、待ち受けるように大きく口を開く。
巨大化した人間の歯が並んでいる。黄ばんで、汚らしい歯──。
バクウッッ
怪物は、飛び込んできたスピアを、丸呑みにした。
「スピアッ!」
わたしは悲鳴のような叫び声をあげる。
<魔導書>は、スピアを丸呑みにした姿勢のまま、ブルブルッ、と身を震わせた。
ブルブルッ、ブルブルッ……
そして、4回めに震えが来たとき、怪物の黒い身体は力なく、しおれはじめた。
まるで、泥の人形が、融けて、流れていくように。
そのネバネバとした粘液が融け落ちたあとに、人の形が現れた。
スピアだ。
長机に膝をめり込ませ、剣を突き立てた姿勢のまま、力を抜いていない。
その刃は、<魔導書>を貫き、書見台を割って、長机にまで刺さっていた。
さっきまで、腐った花のような香りの瘴気に満ちていた部屋の空気は、カビ臭い湿った地下室の臭いに変わっていた。
<魔導書>から流れ出た、黒くドロドロしたものは実体を失い、霧のように消えてしまった。
戦闘で破壊された書架や、あたり一面に散らばる禁書の山だけが、さっきの戦いが幻ではなかったことを物語っている。
「……終わった、か……」
スピアが剣を引き抜く。
すると赤い皮表紙の<魔導書>は、乾物のように縮んでよじれ、色褪せた塊に変わった。
「シスター・ターニア……!」
アステルさんが、床に放り出されたシスター・ターニアに駆け寄る。
シスター・ターニアの衣服は、獣に食いちぎられたようにボロボロだ。
アステルさんが、自分の外套をかけて肌を隠し、抱きおこすと、シスター・ターニアが薄く目を開いた。
「──アステル……」
「……何もおっしゃらないでください」
「後生だ……このまま、わたしに死を……」
「そんなことっ……」
アステルさんが、ギュッとシスター・ターニアを抱きしめた。
「そんなこと、わたくしが許しません……!」
シスター・ターニアは、彫像のように端正な目を、再び閉じた。
その目尻から、すっと、光る涙がこぼれた──。