部長、計画倒れ
馬車がレダニス救貧院の車寄せに到着すると、すぐさま扉が開いた。
ネルーさんが、あら、と意外そうな声を上げる。
御者のおじさんが扉を開けてくれるには、早すぎるタイミングだったからだ。
「……おい、ラン。これはいったい、どういうことだ」
そこにいたのは、赤髪のニッケだ。
手には、クシャクシャになった今朝の瓦版が握られている。
密命を受けた探偵が怪事件の調査をはじめている──わたしをおとりにして犯人を刺激しようと部長が仕込んだ記事だ。
「いやー、それは部長が……」
「ああもう、勝手なことしやがって!」
「いったい、なんの騒ぎ?」
ネルーさんがニッケの手から取った瓦版に目を通すと、深く溜め息をついた。
「……ただでさえ複雑な立場なのに、この上、まだ面倒に飛び込むつもり?」
「だって、知ってしまった以上、気になるじゃないですか」
「仕方ないわね……ニッケ、中に入って扉を閉めて。少し作戦会議をしましょう──」
一時間後。
わたしは、子供たちの表情をみながら、ネルーさんが新作絵本を読み聞かせるのを観察していた。
書物が一般に普及していないにもかかわらず、ネルーさんの読み聞かせは驚くほど上手だった。
ページをめくる前に、本文にない合いの手を、絶妙な形で入れる。
「……さあ、次に来るのは誰でしょう?」
「ウサギさん!」「クマさん!」
「『やってきたのは、ウサギさんでした』」
歓声が上がる。子供たちは大はしゃぎだ。
「……お姉ちゃん」
小さな手が、わたしの袖を引いた。
子リスのような耳をしたミリちゃんだ。
「ミリのお話しした、ウサギさんのお話、ご本にしてくれてありがとう」
目がキラキラしている……かっ、かわいい……。
「こちらこそ、お話ししてくれて、ありがとう」
「ねえねえ、お姉ちゃん……」
ミリちゃんは小さな声で隠れるように言う。
「あのお兄ちゃんは、<悪い男の人>なの?」
「わっ、悪い男って」
「アステル先生、いやがってる」
それは赤髪のニッケだ。
ニッケは、修道女のアステルさんの隣に座って、あれこれと施設についての質問をしていた。
……アステルさんは──たしかに、少し迷惑そう。
「ええ」とか「はあ」とか、適当な返事を繰り返している。
これがネルーさんとニッケが即席で立てた作戦だった。
<おとりの入れ替え>だ。
ニッケがわたしたちに同行し、事件を詮索するような質問を繰り返す。
もし犯人が、瓦版に書かれた<探偵>の妨害をしようと動くなら、狙われるのはわたしではなくニッケになるはずだ。
「まったく……俺の任務は、お前の監視と警護なんだぜ。
ちゃんと、守らせてくれよな」
馬車の中でサラッとニッケに言われた言葉が、妙に耳に残っていた。
そもそも、ネルーさんから<奇病>の話を聞いたニッケは、状況を上司に報告し、内務省の別のチームがこの事件の内偵を進めていたという。
そこに、いきなりあんな瓦版が出たので、ニッケにも知らせが届いたのだ。
「……へえ、じゃあ、この施設はもともと、修道院だったんですか?」
「ええ……創建は、王都でも最も古い部類に入るとか……」
「それなら、今は使われていない、秘密の部屋なんかも、あるんでしょうね」
「さあ……」
ニッケの質問攻めに答えていたアステルさんが、少し口籠もった。
「し、施設の考古学的な価値にご興味がおありでしたら、シスター・ターニアにご質問なさってください」
「シスター・ターニア、ですか」
「はい……教皇庁から派遣されてきた方で、子供たちに読み書きを教えるかたわら、施設の歴史についても研究されているのです」
「へえ、教皇庁から。シスター・ターニアは、いつ頃、こちらに赴任されたんですか?」
「も、もう3年近く前になりますわ。あの方は、あんな<奇病>とは、なんの関係も……」
「おや? 面白いことをおっしゃいますね。<奇病>とは、世間を騒がせている、あの病気のことですか?」
「そ、それは……」
アステルさんが、真っ赤になっている。
悪事をたくらむ犯人が<ボロを出した>というよりも、<恥じらっている>ような──?
読み聞かせの会は、子供たちの歓声とともに終わった。
「バイバイ、お姉ちゃん!」と無邪気に手を振るミリちゃんたちに手を振りかえして、廊下に出る。
「あー……俺は、もうちょっとこの施設の話を聞きたいんで、残ります。じゃ!」
ニッケはそう言い放つと、アステルさんが「あの、困ります……」というのを無視して、去ってしまった。
ネルーさんが、何も知らないような顔をして、前を歩くアステルさんに声をかける。
「それにしても、あの眠り続けている女の子──ユーナちゃん、でしたわね。
あの子たちは、まだ回復されないんですって? ご心配ですわね」
「はい……ありがとうございます……」
「いかがですの、ユーナちゃんの体調は」
アステルさんの足が、止まった。
細い肩が、少し震えている。
「リース先生のお見立てでは、もう何日ももつまいと……」
「そんな……」
「あの……!」
アステルさんが、意を決したように振り返った。
目が真っ赤になって、潤んでいる。
「お二人は、あの探偵さんのお仲間なのですよね!?」
「あー……ええ、まあ」
わたしが苦笑いすると、アステルさんは両手でわたしの手を取って、懇願するように言った。
「どうか……どうか、お二人のお力を、お貸しいただけませんか。
このことは……どうしても、殿方にはお話しできないのです」
──へっ? どういうこと?
ネルーさんとわたしは、顔を見合わせるしかなかった。