部長、しかける
「どうだい、ランちゃん。こんな感じかね……」
「お! おおおおお! すごいです、おじさん! これです、これ!」
支社の向かいにあるパン屋さんのカウンターの中。
わたしは釜から出てきた、艶やかな丸いパンに感動していた。
「あれ、なんだ、ミズハお前、そっちに転職か?」
道から気の抜けた声がする。
部長だ。
昨夜も、繁華街の店で、飲み明かしてきたらしい。
「ガハハ、いいのかセイジさん。うちはいつでもランちゃんを引き抜くぜ」
パン屋のおじさんが、屈託なく笑う。
部長はカウンターをのぞきこんで、まだ湯気の出ているパンを指さした。
「なんだぁ、そりゃあ」
「へへん。聞いて驚け。あんぱんですっ」
「あんぱんだぁ?」
そう、これはあんぱんなのだ。
今日の午後、わたしは絵本の取材をした救貧院を訪れる予定だった。
瓦版屋の紹介で、部長が探してきた挿絵画家のイラストを添えた、絵本『みんなでどっこいしょ』の原稿を、いよいよ子供たちに見てもらうことになっている。
その手土産に、何か変わったお菓子をプレゼントしたいと思ったのだった。
「部長も試食してみてくださいよー」
「……お前、料理なんかできたのか?」
「失礼な。文句があるなら、食べてから言ってください」
あんぱんをトングで取って、部長の手に渡す。
「あちちっ、バカ、ちょっとは考えろ……」
焼き芋でも冷ますように、両手でぽんぽんとあんぱんを転がした部長は、がぶりと遠慮なくかぶりつく。
「お……いけるな」
「でしょー?」
パン屋のおじさんが、ほくほく顔で言う。
「でも、いいのかいランちゃん。こんなレシピを、うちでもらっちゃって」
「いいのいいの、使ってください。いつもお世話になってるんだからー」
「そうかい。じゃ、遠慮なく……<甘い豆のパン>とでも名付けようか」
いやー、やっぱりいけると思ったのよねー。
<こっち>の世界では、ジッタ豆を甘く煮るっていう発想はなかったみたい。
あずきの代わりに使えるなら、和菓子も作れるかも……。
「それはともかくな、ミズハ……」
「なんですか?」
「救貧院に行く前に、話しておきたいことがある──」
支社に戻ったわたしは、部長がこれまでに何をしていたか、初めて聞かされた。
子供たちに広がる<奇病>──。
わたしが伝えた、その話を部長は忘れていなかったのだ。
「俺はまず、いくつかの仮説を立てて、取材をしてみた。
第一の仮説。<奇病>がはじまってから、医療棟をこしらえたというパトロン、ルドボロン伯爵。
こいつが、何かからんでいるという仮説だ」
そのために、部長は伯爵が足しげく通っていると噂の妓楼、<黒薔薇>の常連になった──。
「……ほんとですかぁ? お酒とか、デュルレさんがお目当てだったんじゃ……」
「中尉か。ありゃあ、お前、本物のいい女だな」
やっぱり……。
とにもかくにも、伯爵に接近し、飲み仲間になった部長だったが、心象は「白」。
「伯爵は酒好きだが、下品なところもない。頭も切れる。地位も名声もあって、おまけにカミさんともうまくいってる。
邸にもお招きにあずかったが、奥方はえらいベッピンさんで、性格もいいときてる。
息子がひとり。これも好青年だ。
ルブルグに聞いたが、貴族の間じゃ、将来は大臣クラス確実と言われている期待の星さ。
領地の森林地帯が、王都に木材を供給している関係で、羽振りも悪くない。
使用人たちにも探りを入れてみた。スキャンダルってのは、たいてい、そういうところから出るからな。
だが、からっきしだ。みんな、ご一族を慕っている。まるで問題なし」
それで、<伯爵(か、その一族)のゆがんだ欲望>説は、棚上げになった。
「第二の仮説。医者を追ってみた。伯爵が送り込んだ、リース医師だ」
ところが、これも行き止まりだった。
「リースってのは、数々の功績から王立医学アカデミーの理事におされたのを、自分はいち臨床医だからと蹴って、小児医療にチカラを注いでいる、人格者だそうだ。
いまさら、救貧院の子供たちを苦しめて何かをたくらんでいるとは、到底思えない」
そして、第三の仮説。
「救貧院の中に、犯人がいる。たとえば、お前が会った修道女のアステル。
俺が教会にマークされているからか、もともとやつらが閉鎖的なのか知らないが、教会関係の情報は、あまり入ってこないんだ。
ただ、瓦版の版元で聞いた話じゃ、あの救貧院は近くの下町の貧民街で長年、炊き出しをやったりして、評判は悪くない。
活動費を出しているパトロンの伯爵にも、あれこれ聞いてみたが、黒い噂が出てくることはなかった」
「うーん……そしたら結局、第四の説を考えざるを得ないですよね。
つまり、わたしたちがまだ知らない関係者がいる。一見、施設とはまったく関係ない犯人がいる、とか」
「第五の説もある。実は、この<奇病>は何かの超自然的な現象で、少なくとも人間が犯人ではない」
「人間じゃないって、じゃあ、なんですか?」
「知らん。地下に巣喰う魔物、とかな」
「魔物って……」
「他に入所している子供に悪霊がついているとか、あるいは他の子供の特殊能力の影響だが、誰も気がついていないとか、そういう話もなくはない」
「結局、真相はわかりませんね……」
そこでだ、と部長は髪の毛をくしゃくしゃとかきながら言った。
「喰いつくかはわからんが、とりあえず餌をまいておいた」
「餌、ですか?」
「これだ。今朝の瓦版──」
「『怪奇! 子供たちを襲う<夢魔の奇病>』……すごいタイトルですね。
なになに……『名医リース医師の治療もむなしく、いまだ犠牲者の回復は見通せず』……『業界筋が明かしたところによれば、伯爵は密かに探偵を雇いて、事の次第を暴かんと調査させつつありと』……探偵って?」
「お前だよ」
「はい?」
「仮に、施設の周辺に犯人がいるとして、そいつをあぶり出すには、相手を動かして尻尾を掴むしかない。
子供たちのところに、最近通い始めた人間。それも、ルブルグ男爵夫人のネルーさんとは違って、素性のわからない人間といえば、お前しかいない。つまり、身分を隠した探偵がいるなら、お前が一番あやしいってことだ」
「……それ、わたし完全に、おとりですよね?」
「このネタ、持ってきたのはお前なんだ。今日行って、何か妙な動きがないか、しっかり観察してこいよ」
久しぶりの部長の大暴走で、不安しかない。
それでも、わたしはあんぱんを詰めたカゴを馬車に積んで、救貧院に向かったのだった──。