部長、刺される
悲鳴の主は、宴席に食器を運ぼうとカートを押してきた、メイドのようだった。
ホールに続く渡り廊下が、中庭に面したあたり。
床には、皿やフォーク、ナイフといったカトラリーが散乱している。
わたしたちが駆けつけると、すでに衛兵が何人か集まり、声をあげていた。
「医者だ、宮廷医を呼べ!」
「くそっ、賊はどっちへ行った!」
そして、兵士たちが取り囲む中庭の噴水に、ぐったりともたれた人影──。
「部長!」
「セイジさん!」
押し止めようとする兵士に、ルブルグさんが何か説明している。
でも、そんなの待っていられない。
わたしは、脇をすり抜けて、部長のそばに駆け寄った。
血の気が引いて、青白い顔。
腹部には──パーティー会場で使われているのと同じ、肉切りナイフ。
「……ぅうっ、ミズハか……ヘマ、しちまった……」
「何言ってるんですかっ! 早くナイフを──」
ナイフに手を伸ばしかけたとき、
「やめろ、ラン!」
と、わたしの腕を誰かが握った。
「ニッケ──」
「いま、ナイフを抜けば出血がひどくなる。宮廷医が来るまで待つんだ」
「そんな……せめて、<初級回復魔法>を……」
「落ち着けって。宮廷医は医師であるだけでなく、回復術の達人ばかりなんだ。
こんな傷、すぐに治すさ」
こんな、傷──?
「……なに、言ってるの」
「いや、だから大丈夫だって──」
「大丈夫……? これの、どこが大丈夫なの? こんなに……こんなに血が出てるんだよ?」
「ラン──」
「わからない……治せるのに、治してくれないなんて」
「……いいか、ラン。セイジは絶対、大丈夫だ。だから、落ち着いてくれ……」
わたしたちの会話が聞こえたのか、ルブルグさんが近づいてきて、静かに言った。
「……城内とはいえ、人目のある場所で、いきなり魔法を使うわけにはいかないのです……。
兵士はともかく、召使いや客の多くは、目の前で魔法を見たことなどないのですから……」
「そんなの……知らない──」
この国の、<不都合な事情>なんて、わたしには関係ない。
治してくれないなら、わたしが──
部長の手を握る。
冷たい。
回復魔法の基本は、相手の身体を<イメージする>こと──。
手から、血液の流れをたどって……。
腕へ。
胸へ。
心臓へ。
心臓の拍動が、震えるように早く、でも確実に弱くなっている──。
太い血管から、腹部へ。
よかった、ナイフは、大きな血管は傷つけていない。
でも、内臓──肝臓に、傷。
肝臓自体、少し白っぽく、不健康──脂肪肝?
まったく、いつも飲み過ぎなんですよ、部長……。
そこまで<感知>したところで、部長の手の力が、ふっと抜けた。
意識を失ったみたい……。
わたしよりひと回り大きな部長の手が、重い。
意識のない者に、<初級回復魔法>は使えない──。
<初級>でも使えない、いまのわたしに、部長を治せるはずがない。
どうして……。
どうして、こんなことになってるの。
どうして、部長が刺されなきゃいけないの。
どうして、誰もすぐに助けてくれないの。
どうして、どうして、どうして……!
わたしの中に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
どうして、こんなところに来ようなんて、あなたは言ったのか。
どうして、あのとき、わたしを連れていくなんて社長に言ったのか。
いつも勝手に決めて、勝手に進めて、勝手に振り回して。
──こんなところで、勝手に死にかけて。
いったい、なんなの。どういうつもりなの。そんなの、絶対許さない。
そう、こんなところで刺されているなんて──<認めない>から!
こんなところに、ナイフが<感知>できるなんて、<認めない>!
こんなところの、血管が、神経が、断裂しているのなんか、<認めない>!
こんなふうに、肝臓が、割れているのも、硬化しているのも、<認めない>!
「……! ラン! ダメよ!」
ネルーさんの声が、遠くに聞こえる。
でも──
わたしは、こんなの<絶対に認めない>!
<意識>の中で、イメージが爆ける。
存在を<拒絶>されたナイフは、部長の身体を素通りして、地面に落ちる。
裂けた肉や内臓は、分離したことを<拒絶>されて、閉じていく。
わたしは──
そのあとの記憶は、ない。
気がついたときは、ベッドの上に寝かされていた。
病室?
天蓋から吊り下げられた、白いカーテン。
薄明かりに目が慣れてくると、その向こうに、別のベッドが見える。
部長──。
ぼんやりと、魂の抜けたような顔をして、部長が身を起こしている。
窓の外には、双子の月。
「……部長……」
「おう……目が覚めたか」
「傷は……もう……」
「傷? そんなもんねえよ。お前さんが、すっかり消しちまった」
でも、部長は、なんだかぼんやりして、覇気がない。
「気分、悪いですか?」
「血はずいぶん、持ってかれたが……ま、<賢者タイム>ってとこだな」
「賢者……って、なんで下ネタっ!?」
「ちょうど、そんな感じなんだよ、この感覚。なんかぼーっとして、考える気がおきねぇ」
コホン、と咳払いが聞こえた。
カーテンを開けて、白い長衣をまとった、丸メガネをかけた細面の男性が現れる。
「……<離断感>。わたしたちは、そう呼んでいます。
身体の状態を、強制的に<否定>されたことで、自意識と身体の間に生じるラグのようなものです」
「あなたは……」
「申し遅れました、わたしは宮廷医ラミング。
それにしても、やってくれましたね。素直に、我々の到着を待ってくださればよかったものを──」
「だって……」
「だって、じゃ、ありません」
あ、結構、怒ってる……?
「でも……誰も、回復魔法をかけてくれないから、わたしが──」
「いや、いやいやいや」
ラミング医師は、金髪をかきあげながら、呆れたように言った。
「回復魔法? あなたがやったのは、回復魔法などではないでしょうに」
「だって、傷が──」
「ですから、だって、は、おやめなさい」
「は、はい……」
「いいですか……あなたが使ったのは、<禁則魔法>です。
神聖なる生命を回復させるならいざしらず、他人の身体の状態を<否認>することで復旧するなど、医者にとっては認めがたい外道の術……」
「げ、外道……」
外道魔法。なんか、それはすごい響き……。
「あのー、それは、使ったら追放されるとか、そういう……?」
「何を言ってるんですか、あなたは。私は、医者の立場からは認められないと言っているんです。
現に、こうして後遺症も出ている……当然です、外傷には通常、適用外の術ですからね。
高位の禁則魔法が使えるなら、なぜ安全な回復魔法を選択しなかったのかと、そう言いたいわけです」
「あはは……それが、わたし、回復魔法は、まだ使えなくて……」
なんですって!? と、ラミング医師が絶句したとき、何人かの足音が廊下のほうから聞こえてきた。
「ラン! よかった、目が覚めたのね」
「ネルーさん……」
ルブルグさんとネルーさん夫妻、そして赤髪のニッケだ。
「セイジも、問題なさそうだな」
ニッケが言うと、部長は力なく笑った。
ルブルグさんが、硬い声音を出した。
「……セイジさんを襲った賊は、まだ見つかっていません。
おそらく、もう城内にはいないかと……」
「近衛の警備兵も、俺たち内務省の警備班も、やつらの足取りを追えていない。
帝国の城に比べれば、うちの警備は手薄かもしれないが、手際がよすぎるぜ……」
ニッケが苦々しい表情で吐き捨てると、ルブルグさんがラミング医師に声をかけた。
「先生……すみませんが、少しはずしていただけると」
「なるほど、わかりました」
ラミング医師は何かを察したのか、丸メガネを中指でスッと直すと、病室から出ていった。
「さて……」
ルブルグさんは、溜め息をついてから語り始める。
「目が覚めたばかりで、気が重い話になって申し訳ないのですが、わたしたちの考えをお伝えしておきます。
セイジさんを襲った犯人ですが……おそらく、セイジさんの暗殺が目的ではなかった」
「え……」
「殺害が目的なら、場所も方法も悪すぎます。
犯人は、セイジさんが小用に立つのを待って、襲ったわけですが──」
「しょうよう?」
わたしが呟くと、部長がおまえなあ、と呆れ声を出す。
「トイレだ、トイレ。編集者のくせに教養のない」
「くっ……一瞬、ピンとこなかっただけですー」
ルブルグさんは困ったような顔をして笑った。
「ともかくですね……犯人は、わざわざ、メイドが運んできたワゴンからナイフを奪い、セイジさんを刺した。
当然、彼女はすぐに人を呼ぶ。ここは王宮です。宮廷医が駆けつけることは、想像にかたくない。
しかも、犯人は急所を狙っていない。痕跡を残さないプロが、ヘマをしたとは考えにくいでしょう」
「じゃあ、なんで……」
ベッドの横に置かれた丸椅子に腰をおろしたネルーさんが、わたしの疑問にこたえて言った。
「警告。あるいは、脅迫」
「警告……」
「商人とはいえ、外国の賓客が城内で刺された──そんなことは、公国の名誉を傷つけるわ。
だから、この件は、おおやけにはならない。
あなたがたにも、きっと王宮からお詫びと、口外しないようにというお願いが来るでしょうね……。
つまり、これは内部への、つまり大公殿下や大臣、貴族たち、そして異世界から来たあなたたちへのメッセージと見るべきよ」
向かいの、空いているベッドに腰を下ろしたニッケが、あとを続けた。
「……そうなると、黒幕はバレバレだ。たぶん、本人たちも隠す気さえないんだろう。
ま、証拠が残っていない以上、追求もできないしな」
「それって……?」
「大聖道教会さ。やつらがバックにいるなら、刺客たちがこの城を抜け出すのも簡単だ」