第001話 忌み子
男爵家に1人の男の子が生まれた。父の名はプラタ・フォン・アガリエ、母の名はシェリー。待望の第一子。跡取り息子である。
通例であれば、祝いの品を手にした有力者や商人たちで屋敷前には行列ができる。生き馬の目を抜きあうような苛烈な競争下に身を置く者たちが、慶事という気兼ねなく貢ぎ物ができる好機を逃すはずはない。
しかし、男爵家はいつもの静寂を保っていた。
死産だったのだろう。領民たちは噂した。
黒髪の忌み子。赤子を受けた産婆の呟きは、元気な泣き声にかき消され誰の耳にも届かなかった。
産婆からの連絡で慌てて駆けつけたプラタ・フォン・アガリエ男爵は、妻のシェリーにいたわりの言葉を掛ける僅かな時間さえ惜しむように、真新しい布に包まれて気持ちよさそうに眠る赤子を、彼女の腕から奪い取った。
「何を」
「死を呼び込む子だ。忌み子をこの屋敷には置いておけん」
貴族には迷信を信じる者が多い。信仰心の厚いプラタもそうだった。それは何も特別ではない。死してなお彷徨うアンデットがいるこの世界では、死後の魂の安らぎを求めて宗教に傾倒するのはごく当たり前のことだった。
プラタにとって、教会が忌避する忌み子を処分するのは当然選択だった。忌み子が男爵家を継ぐなどありえない。もしそんなことになればアガリエ男爵家は他の貴族たちから忌避され、没落する未来しかない。
足早に立ち去ろうとするプラタの腕を、すんでの所でシェリーの手が掴んだ。
「放せ!」
「私がこのお腹を痛めて産んだ子です。あなたの自由にはさせません」
シェリーは出産直後の衰弱した体を懸命に動かし、愛おしい我が子を取り返した。プラタにシェリーへの遠慮がなければ赤子を取り返すことはできなかっただろう。
「男爵家が滅ぶぞ」
「それがどうしたというのです」
入り婿ながら当主として家の存続を第一に考えるプラタ。
対してシェリーは少しの迷いさえ見せずに歴史ある男爵家の身代よりも一人の赤子を選んだ。シェリーの迫力に気圧され、プラタは引き下がる。
赤髪のシェリーと金髪のプラタの間に生まれた黒髪の赤子。使用人たちにはかん口令が敷かれ、男爵家の跡取りであるはずの赤子の存在は、屋敷内だけの秘密とされた。
ただ、1人の赤子の存在をまったくの秘密にしておくことなど男爵家とはいえ不可能なことで、時間の経過と共に公然の秘密となる。
シェリーには理解できない。どうしてプラタは黒髪だからという理由で赤子を処分するなどと言うのか。男爵家のため、他の貴族に配慮するというなら、次の子を当主にすればいいだけだ。慣例とはいえ、長男が必ず当主を継がなければならないわけではない。プラタは貴族としての体面に囚われ過ぎている。
対して、プラタは黒髪の赤子の存在を頑なに認めなかった。
信仰心の厚い自分から黒髪の子が生まれる道理がない。シェリーが不貞を働いたのだ。妻を貶めることで自らの心を守ろうとした。
ほどなくしてプラタは妾を作り、シェリーもそれを黙認する。
父親にその存在を無視された赤子は、しかし母親の愛には恵まれる。名前はトーマ。アガリエ男爵家の長男、トーマ・フォン・アガリエ。生涯に渡り父親からその名を呼ばれることはない。
トーマが産まれて数日。
まだその忌み子の誕生が領民たちの言の葉にも上っていない頃。
男爵領に異変が生じはじめた。
男爵領の南に接するヨナバル大森林、その外縁に魔物が姿を現すようになったのだ。
ヨナバル大森林はその周辺にいくつもの国が接するほど広大な森だ。大森林には多くの魔物が生息しているが、恵みの多い森の奥から出てくることは滅多にない。森の浅い領域は、その周辺で暮らす人々が狩猟や採集などを目当てとして日常的に入るほど安全だった。
男爵領近隣の森で目撃されはじめた魔物の大半は比較的弱い、いわゆる低ランクの魔物だったが、低ランクとはいえ領民たちには十分な脅威となる。
魔物の姿が頻繁に目撃されるような状況では、領民たちは森に近づくことはできない。それは生活の糧の一部を失うということだ。
領民の代表からの陳情を受けたアガリエ男爵は、魔物討伐の依頼をハンターギルドに出した。
ハンターたちは魔物の討伐を難なく成し遂げた。
ハンターギルドから男爵家に届いた報告は奇妙なものだった。その内容を信じるなら、疑う理由もないのだが、森の外縁でみられた魔物たちは衰弱したもしくは深手を負った個体ばかりで、まともな状態の魔物は1頭もいなかった。理由は不明。
報告を読んだプラタの脳裏に浮かんだのは、シェリーが大切に育てている忌み子。それ以外の原因はプラタには必要なかった。
それからも男爵領に接したヨナバル大森林の外縁部には、絶えることなく魔物がやってきた。しかし、そのどれもがやはり死にかけの魔物で、ハンターの手を借りるまでもなく、領民たちの手によって退治された。
領民たちは何か悪いことが起る前兆ではないかと噂した。
男爵家に生まれたという忌み子の噂も混ざり合って広がっていく。
忌み子は死を呼び込む。
死に愛された忌み子。
◇ ◇
3年後。
屋敷の狭い裏庭で遊んでいるトーマ。
表側には広い庭があるが、領主である男爵家には人の出入りが多いためプラタの命によって、トーマは表の庭に出ることを禁止されていた。
それに対し、妾の子であるエムル2才は、今もちょうど母に手を取られ広い庭を歩き回っていた。
数少ないシェリー付きの使用人たちは妾の子より下に扱われるトーマの境遇に同情していたが、トーマは気にしていなかった。まだ幼くきちんと状況を理解していなかったこともある。
更には、裏庭の隅には馬房があり、馬たちを見て過ごす時間がトーマのお気に入りだったこともある。
しかし、一番の理由は、彼はマイペースだった。
悩み事とは無縁の3才児だが、トーマには1つ気になっていることがある。
(この黒いもやもやしたものはなんだろう?)
馬房にいる老いた馬の背中の辺りに漂っている黒い靄にトーマは夢中だった。
トーマが薄っすらとだが確かに見える黒い靄に気が付いた昨日。そのことをシェリーに話したら、少し怖い顔で絶対に誰にも話してはいけないと約束させられた。
母親がそんなリアクションを取れば、更に興味を惹かれるのが子供という生き物だ。
今日は朝から、トーマは老馬を眺めて過ごしている。
一晩経って、黒い靄は濃くなっている。手で触れてみたいが、届く高さではない。でもどうにかして触ってみたい。
トーマの願いが届いたのかもしれない。
1羽の鴉が真っ黒な翼を羽ばたかせ近くの枝に降りてきた。馴染みの鴉だ。
ある頃からトーマが裏庭で遊んでいるとやってくるようになった。
使用人たちは気味悪がっているが、トーマにとっては遊び友達だった。
鴉は太い嘴に大きなネズミを咥えていた。鴉はバサッと翼を一掻きしてトーマの足元に降りてくると、咥えていたネズミを放した。
死んでいるように見えたネズミは、まだ辛うじて息があるようで、倒れたまま小刻みに震えている。トーマの目に留まったのは黒い靄だ。老いた馬の背中に漂うのと同じような、けれどもっと濃い靄がネズミの体を覆っていた。
トーマは座り込んで手を伸ばす。怖くはない。
黒い靄には触れないことを確認し、トーマはその小さな両手でネズミを持ち上げた。ネズミはまだわずかに震えている。
トーマはそれをじっと見つめていた。
しばらくすると黒い靄は消えてしまった。
トーマを探しに裏庭に出てきたシェリーがトーマを見つける。短く驚いた後、トーマに駆け寄り優しく抱きしめた。トーマの手の中でネズミは暖かさを失っていった。
トーマはシェリーに抱えられ馬車に乗せられた。一頭引きの小さな馬車だ。
「ごめんなさいね。こんな役回りを任せることになってしまって」
「この老骨でお嬢様のお役に立てるなら本望でございます。しかし、そんなに思いつめた顔をなさらずとも、きっと何も起こりません。坊っちゃんと一緒に無事に戻って来られますとも」
シェリーが話しかけたのはトーマス。シェリーが生まれる前からの使用人で、馬車に繋がれた馬と同じように老いていた。
「ええ、そうね」
シェリーがトーマの名を決めた時、この忠実な老使用人トーマスのことは念頭になかった。
それでも、トーマスの方は勝手にトーマに特別な愛着を持っている。名前が似ている、そんな偶然をきっかけに相手のことを気に掛けるようになる。気に掛けるようになれば、相手のことが知れ、ますます愛着が沸く。そういうものだ。
男爵領と接するヨナバル大森林の外縁部に死にかけの魔物たちが姿を見せるようになってから3年。やってくる魔物たちが死にかけであることには変わらなかったが、これまでのいわゆる低ランクの魔物だけでなく、強めの魔物が混じるようになっていた。
プラタはトーマのせいだと決めつけていた。
忌み子が成長するにつれ、より強い魔物を引き付けるようになっている。いくら死にかけでも地力が強い魔物は厄介で、犠牲になる領民がではじめていた。忌み子をこのまま放置すれば、取り返しのつかないことになる。
シェリーが忌み子など迷信だとどれだけ訴えても、プラタを説得することはできなかった。トーマを守るためシェリーは馬鹿げた実験に付き合うことを承諾させられてしまった。
かくしてシェリーとトーマは、トーマスが操る機〇車ではなく馬車に揺られ、ヨナバル大森林へ向かった。
大森林の浅い領域で一晩何事もなく過ごせれば、トーマに掛けられた疑いをひとまずは晴らすことが出来る。
郊外に伸びる道をゆっくりと馬車は進んだ。
少し距離をおいて、見張り役の兵士がその後を追う。