hesitation
七原には、志村から聞いたオファーの内容や余計な私情は挟まずに、志村から話があるということだけを伝えた。
”キヨセ”の用件は、七原に俺から言うようなことではなかったし、ましてやその件に関する俺の私見などは、もっと余計なことだと思ったからだ。
俺の伝言に七原は、手元に向けた視線を動かす事なく「わかった」とだけ、短く答えた。
そのあとは無駄口も叩かずに、指示に従い仕事をこなしながら、とめどもなく考える。キヨセの要件というのは、俗に言うヘッドハンティングというやつなのだろう。
『paigue』での給与査定の仕組みがどんなものなのか、俺は知らない。リクルート中に提示された給与額と、実際の内容が食い違うなんてのはよく聞くことだけど、幸いにも自分の給与は同業の同年代と比較しても、かなり上等の部類だと思う。
七原や、たとえば森見、信永さんくらいの人のが、果たしてこの店でどのくらいの収入を得ているのかはわからない。でも彼らなら、業界の第一線と言われるような所へ転身したのだとしても、すぐにでも通用するんだろうと思える。あくまでも”仕事上のスキルでは”という意味で、(信永さんを除き)、一部の人間性や、ある種のルーズさに目をつぶれば……というものではあるけれど。彼らは、間違いなく優秀だ。
一般的に、パティシエやショコラティエという仕事は、美容師などと同様に、聞こえは良くとも収入の面では、お世辞にも恵まれていると言えるものじゃない。同業でも高い収入が得られるのは、多分ほんの一握りの名の売れた有名人や、独立した中でもごく一部の、ライセンスや企業顧問契約など、特異なニーズを掴めた人たちだけの話なんだろうと、俺は理解している。
………とか、そんなことを考え出すと、そもそもなんで俺は、こんな職種に就こうだなどと思ったのかという、根源的な疑問にたどり着くのだけれど。それはまあ、さておいて。
その”キヨセ”というのが、どんな人物であるのか俺は知らないけれど、現時点で十二分に気に食わず、その印象はこれから先も変わることがないような気がしている。何でなのかなんてことは、どうでもいい。ただ、そいつのことが無性に気にくわない。
いっそのことそいつが持ち込んできたものが、詐欺まがいの作りごとであることが早い内に露見して、話ごと吹き飛んでくれればさっぱりもするのだろうが、志村という試金石をかいくぐって、そのような出鱈目がまともに通るとも考えにくい。
志村の価値観を以ってして「破格」と言わしめる待遇で迎え入れようとするほどに、キヨセという男はもともと同僚だった七原のことを買っている。今は店から離脱し、志村という人間の人となりをまったく知らないでもないだろうにも拘らず、傍目に見ても喧嘩を売っていると取られても構わないようなやり方で、七原に対しあからさまな引き抜きをしかけている。
そして志村の方はといえば、相手の魂胆を承知の上でそれを「好条件」だと嘯く様は、気を悪くするどころか、どこか面白がっているようでさえある。
俺は、まるで自分だけがあらかじめ筋書きの立てられた出来レースの観客にでもさせられたかのようで、果てしなく気分が悪い。もしも志村がそういった意味での「反応が見たかった」と言ったのであれば、趣味が悪いにもほどがあると思う。七原のことも含め、人をそんな風にゲームの駒か何かのように扱う気でいるのであれば、はっきりと軽蔑する。
だけど。志村のふと見せた、どこか別の遠くを見ているようだった、らしからぬあの逡巡は、一体なんだったのだろうかと、どうしても思ってしまう。それがあるばかりに、端から嫌いな相手を”軽蔑する”という、シンプルな結論に辿り着けないでいる。
七原は、と思う。
七原は、どうするだろうか。
自分に差し出されたものが、純粋に今よりもずっと自分を引き上げる、自分というものの価値にもっと正当に値すると思えるような、”いい話”であったのだとすれば。
もやもやと落ち着かない、苛つきに似た気持ちは、単に身近にいる人間が自分より高いところに引き上げられることへの嫉妬なのだろうか。だとしたら、さすがに図々しすぎるんじゃないかと自分でも思う。引き抜かれるからには、それ相応の利用価値がなければ話にもならないのだから。
結局その日の終業間近になるまでに、七原が厨房を離れることはなかった。厨房の清掃を終え、窯の電源を落とし、水道とガスの元栓の始末など、終業前のルーティンを一通り終えると、2人で厨房を後にする。
俺が遅刻をした日、イレギュラーな出来事が続いたせいか、いつもよりも少しだけ七原の存在を身近なものに思えた。七原の言動のすべてを覚えているわけではないけれど、ふとした時にあの日あったはずのささやかなやりとりを思い出しては、本当にあったことだったんだろうかと不思議に思う。
その後の七原を見ている限り、もしかしたらあれは自分だけが見た白昼夢だったのではないかと疑いたくなるくらい、前後の態度は変わりばえがしなかった。慌てすぎたせいでパジャマ同然の部屋着で電車通勤したことを、いつの間にかちゃっかり証拠写真まで撮っていた宮蔵(以下、それを見た同僚ほぼ全員)には散々笑いのネタにされたけれど、七原がそのことに触れてくることはなかった。
変わり者だということは知っていたつもりでも、本当に人と馴れ合わない奴なんだなーと、落胆するような、感心してしまうような、不思議な気持ちになった。店でのキャリアも中堅で、実直さには定評のある久慈くんに、それとなく思うところを話してみたが、彼は心あたりがあるのかないのか、「ああ…」とだけ漏らして、困ったような顔で笑っていた。
これがもし、宮蔵やシズあたりだったなら、あることからないことまで、聞いてもいない話をマシンガンのように喋りまくったのだろうとは思ったけれど、久慈くんの癒しスポット的なキャラクターは、「ああ」のひと言だけで、宮蔵とシズの言葉を10,000積み上げたってまだ足りない、含蓄のようなものを感じさせてしまう。樹齢28にして、屋久島の御神木にでも話しかけているかのような、稀な趣のある男なのである。まさにこれは、人間性の違いというやつに他ならないのだろう。
久慈くんに話したことでひとまず飲み込んだつもりだった気持ちの塊が、今、七原本人を前にして、むくむくと頭を擡げはじめていた。
だけど尋ねてしまおうかと思ったところで、結局何をどこから話していいのかもわからないまま、執務室のある二階へ続く階段に向かう七原を見送った。
前日のやりとりをそのまま再現したかのようなシチュエーションで、志村から七原とキヨセとの話し合いの日取りを聞かされたのは、その翌日のことだった。
ありがとうございました。