打診
「三島」
昼休みの終わり頃、歯を磨きに行こうとしているところで呼び止められた。
あまり聞きたくはなかったきっぱりとした響きの声に振り向くと、相手はやはり志村マネージャーだった。
幸いというかなんというか、詳しくは知らないが、最近は外渉のからみで忙しいようで、顔を見るだけでも1ヶ月ぶりくらいのことかもしれなかった。滅多に会うこともない相手にこんなところで捕まってしまうとは、なんともタイミングが悪いと思う。
「はい」
瞬発的にこみ上げたうんざりとした気分を、振り向くまでの短い間に業務用の人畜無害な顔でコーティングする。志村は第一印象から大っ嫌いな女ではあるが、俺は雇用主である相手にわざわざ感情を露わにするほど、自分に正直でも向こう見ずでもない。
一方で志村の方はといえば、会えば忌憚のない挨拶をする程度だが、いっそ清々しいくらいに、面接の時の自分の発言など覚えてもいない様子だ。
以前リセと話をしている時に、知らず知らずのうちに志村の愚痴になっていたことがあって、「臣が女の人のことをそんな風に言うのって珍しいよね」と変に関心を持たれてしまったことがある。確かに、プライベートで愉快でもない仕事の話を持ち込んだことについては、自分でもどうかしていたと思えたので、自ら振ったものではあったものの、「10こ年上で、体格はほぼゴリラ、顔はおにぎりみたいな女なんだ」と言ってさっさと話を切り上げた。実際の志村の容貌を口にしたら、(それが本当に単なる事実であろうとも)リセも俺自身も、意味もなく気分を害することは目に見えていたからだ。
だいたいにおいて、女は異性に自分以外の同性を褒められると、「へぇー、そうなんだぁ〜」とか口では言いながらも顔が不自然な笑顔で固まる。そしてそのことを延々と根に持ち続ける。それでいて、自分は知り合いですらなく、良いところしか見えていない男タレントなどを褒めそやす。はっきり言ってまったくフェアじゃない。その場で拗ねて不機嫌になるなんて、まだ可愛気があるほうだ。
興が乗った彼女に「えー。じゃあ具はなに?」と突っ込まれ、なんとなく「んー。岩塩かな」と答えたために、志村のあだ名はすっかりと『岩塩』で定着している。
「ちょうど良かった。七原に、キリのいいところで執務室に顔を出すように言ってくれないか」
何を言われたところで無難な対応でやり過ごす構えであったにも拘らず、えっ、と思いつい顔を見てしまう。長話をしたいような相手ではないので、伝言だけ受け取ってさっさとその場を後にすればよかったのだが、なんとなく引っ掛かりを感じて立ち止まってしまった。本当にただ、なんとなくではあったのだが。
好奇心とも言えない引っ掛かりを察したわけではないのだろうが、志村が話を続ける。
「先週、メールでオファーが入った。相手は以前ここで働いていた清瀬という男なんだが、今はフード関係の企画会社をやっているらしい。なんでも、どこかのフード店のブランドを立ち上げるのに、七原に『paigue』のショコラティエとして、新規からアドバイザーとして携わって欲しいという話だった」
「へえ、すごいじゃないですか」とでも返せば良かったのだろうが、すぐには言葉が出なかった。志村のどこか他人事のような言い方と、挑発的とも取れるような目の底光に、不可解なものを感じたからだ。
「───というのは表向きの話で、実際の目的は七原個人の引き抜きだろうな。フード関連のイベントプロデュースのほかにも、独自に持っている人脈とノウハウを使って、企業と技術者なんかのマッチングみたいなことも手がけているようだ。見たところ、そこそこの実績もあるみたいだな。若い会社だけあってフットワークも軽いし、けっこう面白いことをしている。デモンストレーションとして提示されている条件も、七原の知名度とキャリアからすれば、破格の扱いだ。なかなかどうして、堂々としたもんだと思わないか?」
と、ご丁寧に、資料らしきファイルの紙束を俺の目線まで掲げて見せる。
不意打ちに、とっさに顔を装うことができなかった。単純に、驚いていた。
今の七原は店にとって、今日明日居なくなっても簡単に取り替えが効くような軽い存在ではないわけで、どう間違っても、経営者として感心したような顔で言えることではない。はず。
「そ」
動揺がもろに表れしまった第一声をいったん引き取り、言い直す。調子が狂った自分が嫌だった。
「……それを、なんで俺に?」
どう考えても、まず順番として妥当なのは信永さん、もしくは当人に直接伝えるべき内容だろう。
その、”キヨセ”というのがどんな人間なのかは知らないが、俺が志村だったら、間違いなくそんな本音が透けて見えるようなナメた打診があった時点で、それなりの牽制を仕掛けた上で、即時に握り潰している。根拠などは無くともわかる。こいつだったらそれ以上の報復措置であろうとも、なんなくやってのけるはず。
問題は、わざわざこんな下っ端を捕まえて、そんな伝言を頼もうとする志村の肚が見えないことだ。
「さあ、なんでかな。まずは反応が見たかったのかもしれない」
何のだよ、と思う。だから嫌なんだ。この女と話していると、いつも喧嘩を仕掛けられているような気分になる。自分という人間の底を見透かした上で、さらに回りくどく試されているような気がして神経がざらつくのだ。言い草も、表情も、すべてがムカつく。
何を口にしたところでこいつの思うがまま、すべてが裏目に出そうな予感が、口を開くことを躊躇わせる。
「七原は……」
珍しくも歯切れ悪く言葉を止める。そこまでこちらの出方を、どこか面白がっているようにも見えた志村の目が、不意に遠くなった。
「いや、いい。もう時間だろう。とりあえず用件は伝えた。七原には、今日中ならいつでも構わないと言ってくれ」
は?
ふざけんな。
「ちょっと、待ってください」
「なんだ」
言いたいことだけを言い、ハイヒールの踵を返した志村が、顔半分だけ振り返る。
「志村マネージャーは、受ける気なんですか?」
「受ける、受けないは、七原が決めることだ。私は話を通すだけで、その先のことに関知する気はないよ」
………こいつ。
「わかりました。七原さんに伝えておきます」
「そう。じゃ、頼むよ」
呼び止められたことで、やや疎ましそうに顰められていた眉間がゆるむのを見届ける。
「ただ、その時には、自分も同席させてください」
「……おまえ、なんの話をしているんだ?」
今度こそ、志村がこちらへ向き直った。
売り言葉に買い言葉とでもいうのだろうか。自分でもアホだなとは思ったが、まったく引く気にはならなかった。
”キヨセ”、”志村”、”七原”。
それぞれの間にどのような経緯があって、どんな思惑があるのだろうが知ったことじゃない。だけど、自分が単なる媒介役として、そいつらの間で便利に扱われることが、我慢ならなかった。
「七原さんが、その相手に会うのだとして、その時には俺も一緒に話を聞きます。同席って言っても、ただその場にいるだけで別に邪魔をする気はありません。けど、話だけは聞かせて欲しいです。俺の今後にも関わるはずのことだから。それとも、”それ”に関しては”関知する”んですか?志村マネージャー」
少しの間だった。息を短く吐き出す音がして、高くヒールの鳴る音に混じって「勝手にしろ」となおざりな返事が投げられた。
勝手にするに決まってるじゃねえかこのやろうと、立ち去る細い背を睨んだ。
そして気付く。
今日もまた、俺は歯を磨くことができなかった。
ありがとうございました。