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bloom wonder  作者: 逢坂汀
6/17

Lesson 0

暇つぶしの役に立てたらうれしいのですが。

 結局あの日、俺が七原と定食屋に行くことはなかった。

 完全に持ち主の制御を離れ、べらべらと喋り続けたお(くち)のゼンマイが切れたあと、いつのまにか着替えをすませていた七原からの「外食はあまりしないんだ」というごく簡潔なお断りがあったためだ。

 そういうことを言うんであれば、頼むからもっと早く止めて欲しかったよ〜と思う今日この頃。みなさまごいかがお過ごしでしょうか。三島です。

 皆さんは、なんだか気分が落ち込んじゃったなーという時などは、どうしていますか?

 俺は、よく寝ます。ちなみに今は──────


 『睡眠というのは交感神経と副交感神経が(中略)

 ………で、副腎皮質ホルモンと(中略)

 ………によってドーパミン物質が抑制され、(中略)

 ………といった具合にノンレム睡眠中に多くの成長ホルモンが脳下垂体から分泌されることによって、”眠り”というものがストレスにたいして非常に効果的に働くわけです』


 ─────と、あるサイトに書いてある眠りについての記述を読んでいる。

 ひとまず脳を落ち着かせようと思っての試みだったが、ぜんぜん落ち着きはしない。わかったことといえば人は取り乱している最中でも、ややこしい脳内物質名を読み流すことは出来るんだな、ということくらいか。まったく頭には入ってこないが。

 というのも、本来であれば今は職場で働いているべき時間であるはずが、現実の自分はと言えば、各駅停車の車両にて絶賛移動中。しかも時が息切れを起こしして止まっているんじゃないかと思うほど、まったく前方向へ進んでいる気がしないという、体感と現実間のどうにも埋めがたいギャップがあるのである。当たり前のことながら、車両内で前方の壁に向かって全体重を傾けようとも、気持ちがどれほど前のめりであろうが、電車の速度を早める足しにはならないわけで。

 今朝、覚醒と同時に目に入った時計の時刻が8時ジャスト。で、本日の出勤予定時刻が朝の6時。つまり、起きた瞬間にはすでにアウトな感じだった。職場への遅刻の連絡は、起きると同時に済ませてある。おそらく。履歴を見る限りでは。正直、その辺りの記憶がイマイチ断片的なのだが、「あ、もしもし。俺ですけど、遅刻の連絡ってもうしましたっけ?」なんて薄らとぼけた確認をする勇気は、出てきそうにない。


 今の時刻が午前8時08分。俺の記憶に間違いがないのであれば、目が覚めた瞬間からここまでの移動にかかった時間はおおよそ8分ということになるわけで、それではなんだか自分内の常識的に、計算が合わない。いつの間に自分は、瞬間移動の能力を身につけてしまったのかというレベルの尋常ではない移動の速度だ。

 いつもだったらアパートの鍵をかけ、徒歩で駅に着いて電車に乗りこむまでが、ほぼ10分。

 これでは移動時間分の正味3分の誤差に加え、ふだん起きてから身支度にかけている時間のほとんどを短縮してしまったことになる。いや、よく考えたら電車に乗ってから心身喪失している間に閲覧したサイト『凹路(おうじ)ヤマモトのスピリチュアル☆サンダーアタック』を読んでいる(かん)の経過時間もあったはず。自分がしたこととはいえ、これではほとんど時間消失のトリックだ。

 けれどそんなことは今はどうでもいい。差し当たり願うことは、だれか俺をぶん殴ってくれないか、ということ。

 暴漢に襲われて昏倒し、病院に担ぎ込まれていたという既成事実でもあれば、多少の時間の誤差については不可抗力でということで振り切ってしまえるんじゃないか。もしくは架空のおじさんの訃報が入って、今すぐ現地に向かわねば、みたいな展開にはならないものか。でなければ、今置かれているこの状況自体が、昏倒してベッドの中にいる自分の見ている夢だとか………。ああ。

 そんなくだらなくも虚しい幻想をぐるぐると(もてあそ)び、頭を抱えている自分は、なんと哀れでちっぽけな存在なのだろう。

 電車は無慈悲にも、各駅ごとに長い吐息を吐いては停車している。乗り込んだ時点では少しでも早く着いて欲しいと願っていたはずなのに、今度は磁石のS極とN極が入れ替わったかのように、職場に近づいていくごとにずんずんと気が重くなり、恐ろしさのようなものが涌いてくる。

 向かっているのは間違い無くいつもの自分職場であるはずなのに、俺は今、どういう顔をしてそこに行けばいいのかわからない。

 そんな状況下で、頭の多くを占めるのは、七原のことだ。

 誰かにたいして申しわけないとか、自分が遅れたことによって生じている損失や被害の状況がどういったものなのかとか、みっともなくて顔を出しづらい。どうやって埋め合わせをしようとかいうことではなく、ただ、”七原”なのである。


 午前8時30分。

 店に到着してバタバタと着替えを済ませた後、この場の筆頭責任者であろう、フロアマネージャーの信永さんに断りを入れておくのが筋なのかと思い、………いや、正確に言えば、()()に及んでも謝罪とそれに伴う軋轢(あつれき)のプロセスを、弱い順から段階的に踏んでいこうという姑息な計算も多分に働いていたのには違いないのだが、とにかく俺は柱の陰から開店前の店頭の様子を(うかが)い見た。

「ああ、来ましたね。三島君」

 すぐに気が付いた信永さんが、胸の前で手のひらを合わせる。

 とても大遅刻をやらかした大ボケ野郎を出迎えるものとは思えない、やわらかで上品な物腰だった。それが怒鳴り飛ばされるよりも恐いと思うのは、失礼なことだろうか。

「は………あの」

 謝らなければ、と思うのに言葉が出てこない。

「七原君が、心配しています。こちらは気にしなくていいので、まずは彼のところへ」

 「はい」と返事はしたものの、仕事が遅れて困ることはあっても、「七原が心配している」という言葉には、なんとも言えない認識の食い違いを感じる。信永さんは、ものの見方が穏やかすぎる。世代の離れた信永さんからしてみれば、俺たち若い連中の人間関係なんてものはみんな、犬猫のじゃれ合いみたいに微笑ましく映ってしまうのかも知れないけれど。

 作業予定を大幅に狂わされて迷惑を感じることはあっても、七原が、俺の心配なんてするわけがない。


 信永さんの見当違いな言葉のせいでかえって頭が切り替わり、入口ドアをあけるなり「すみませんでした」と厨房中の人間に声をあげると、立ち働くほとんどの者が、作業の手を休めることはないままに肩をすくめるなり目顔(めがお)で返すなりの、申し訳程度のリアクションをしていた。朝の最も忙しい時間に言語道断の大遅刻をしたのだから、暖かいリアクションなどあろうはずもない。同業が多い仲間の間では、人間性そのものを否定するかのような、のべつ幕ない連日の叱責に耐えられず、1ヶ月保たずに仕事を辞めたなんて話もざらに聞く。

 それを考えれば、ここ『paigue(ペイジュ)』は比較的……飛躍的に穏やかで、釘を刺されるような場面はあったとしても、誰かが誰かを大声で罵倒(ばとう)するようなところは、見たこともなかった。

 俺は歩いて、作業をしている七原のもとへ行く。心拍が、細切れにされたかのようにぎこちない早鐘を打っている。

「七原さん」

「三島。ジュレを冷やすバットがない」

 俺が続きを言うのを待たず、手にしていたボウルやバットを手渡してくる。見ると、移動式のステンレス台の上には、本来ふたりでやるべきスケジュールをひとりでこなしていた結果、後回しになったのであろう洗い物が、うず高く積まれていた。

 だけど声音も態度も、まったくいつもと変わらぬトーン。そこには”おまえの謝罪になど付き合っている暇はない”といった、苛立(いらだ)ちや皮肉のニュアンスすらも感じられない。七原はただ、自分の流れに乗っている。この場ではどんな謝罪も言い訳も、今の流れを遮るものでしかない。すべては、やるべきことを終えてから。その後の話なのだと悟る。

 俺はもやもやと渦を巻く不安と戸惑いを押し込め、頭を切り替えることにした。


「あの、今日はすみませんでした」

「ああ。うん………」

 朝からずっと棚上げにされていた案件について、ようやく口を開くことが出来たのは、明日の準備から片付けまでの全てを終え、連れ立つようにロッカールームに引き上げてからのことだった。白衣を脱いだ七原は、下に薄手のロングTシャツを着ていた。

 声の響きには、ただ疲れ、ぼんやり返事をしたという雰囲気以外のものが認められず、俺は続きを待っていた。呆れ果てているのならそれでもいいから、何か言葉を返して欲しかった。

 今日は一日、七原の指示のもと、息をつく()も削る勢いで遅れた分を取り戻し、なんとか少しの残業だけで仕事を終えることができた。昼に一度、休憩を返上したいと申し出たものの、七原に「いらない」とあっさり却下された。そこからここへ至るまで、とうとう今日の遅刻について誰にも(とが)められることがなかった。今日一日ずっと、それが苦しかった。

 遅刻で迷惑をかけた上に、フォローの言葉を欲しがっているわけではないのだと、自分で自分に言い訳をしている。

「何?」

 黙ったままじっと見ていると、珍しくも視線の五月蝿(うるさ)さに根負けをしたのか、そんな言葉が向けられた。

「いや、なんで。………どうして誰も怒らないのかなーって、思って」

 その声がとても心細いものであることに、微かに動揺をする。意図的に出すことはあっても、なにも装うつもりもないのに弱々しい声が出たことに驚いていた。相手が七原だからなのかも知れないと、わけもなく思う。

 こいつだったら、心にもないことなんて何も言わない。相手が言って欲しいこと、期待していることを予想して、しゃべる言葉を選ぶような、俺みたいな真似は絶対にしない。いつのまにか、そんな風に思っていた。

 これまでなんのリアクションもしなかった七原が、わずかに首をひねる。

「だって、生きてるし」

「は?」

 意味がわからなかった。

「………聞いて、どうするんだ」

 もともと流暢(りゅうちょう)に話す方でない七原は、つい口をついた言葉が空振りに終わったせいなのか、無表情であるにも(かかわ)らず、さらなるコメントを求められることを警戒し、なおかつとても面倒くさがっているようにも見えた。

 想定外のことに対応するのに、必要以上に精神を消耗する性質(たち)なのかなぁということについては、これまでの関わりの中でなんとなく理解しているつもりではあった。もしもそうなのだとすれば、今日は七原に想定外のことばかりを強いていることになるわけだけど、七原自身になにかを話そうとしている気配があることそのものが珍しく、聞けるものならば聞いておきたかった。

 頭の中を覗き見ることが出来ない以上、本人に聞く以外に知る手がかりはないのだと思う。では俺は、七原のことを知りたいのだろうか。

 いや、俺が聞いているのは今日の失態について、どうして誰にも責められないのかということであって、七原本人の個人的な事情ではなかった。

 信永さんの言った”七原”が”心配”という言葉が、頭のどこかに引っかかってもいた。

 もちろん、いつも通り無表情な七原の顔には、上下左右どのアングルから見たところで心配のしの字も浮かんではいなかったし、気にするまでもなく、あれはまわりの人間関係を配慮した信永さん流の処世表現なのだということは分かっていたけれど、それでも、どういった根拠がそういう言葉を選ぶ発想に繋がったのかを知りたいという好奇心は、確かにあった。

 すでに自分の質問の根っこは、野次馬根性と言って差し支えないものにすり替わっている。今日一番のとばっちりを被った七原には俺を口汚く(ののし)る権利こそあれ、質問に答える義務など(はな)からありはしないはずだ。

「でも、あの。………できれば聞きたいです。すみません」

 望まぬであろう言葉に、七原の表情がうっすら曇ったように見えたのに、たとえば気にくわない人間の弱点をつかんだ時のような、ふわりと浮き立つものを感じる自分は、本当に性格が悪いと思う。

 七原の黒い目が、じっとこちらを見あげてくる。全体にまっ暗な印象なのに、目の奥に、つめたく澄んだ水の中で砂に混じった何かが、さらさらと反射をするような、不思議な引力を(たた)えているのだということに、最近になって気が付いた。大人でも子供でも、こんな目をした人間に、俺はこれまで出会ったことがなかったと思う。

 七原が静かに言う。

「おまえは、今日は失敗をしたけど、何度も同じ失敗をしたわけじゃない。……人のやることには取り返しのつかないこともあるけど、今日のおまえは誰かに怒られなかったんだとしても、もう怒られてきたみたいな顔をしていた。それはおまえが”大丈夫”ということなんだと、俺は思った」

 七原の、まるで頭の中でまとめた文章を朗読しているような声は、すぐそばに届いているのに、無音で精細(せいさい)な、ほんの一瞬気を逸らすだけで刻々と絵の変わる、モノクロの静止画面を見ているような印象があった。

 おかしな余韻に(とら)われたようになって、しばらくぽかんとしていたら、「俺は今、なにか変なことを言っているか?」という声が聞こえ、軽く首を振り「いえ」と二度、答えた。

 言いかたは独特だったけれど、怒ってはいない。反省は認めているという意味だったのだろうということは、なんとなくわかったから。

「っっををーい!」

 唐突な声とともに、背後からそこそこの衝撃(たぶん蹴りだろう)を受けた俺は、とっさに目前にいた七原に倒れかかってしまった。その結果、図らずも体重を支えるためにロッカーに両手をついて、近年(まれ)に見るほどに女子以外と大接近する体勢(はめ)になっていた。

「あ、ごめん」

 振り返らずとも、声の主はわかっていた。たいして頭を使うまでもなく、TPOもわきまえずにこんなことをやらかすアホは、可能性としてかなり限定されてくる。

「宮蔵ァ……」

 一音一音区切るように、地を這うような声が出ていた。

「いやだからゴメンて」 

 俺の低い声と、自分がしたことの当然の帰結(きけつ)を目の当たりにして、さすがにヤバいと思ったのだろう。声に、明らかな動揺が含まれている。

 だから、やってから後悔するよりも、やる前にその著しく集積内容の(とぼ)しい脳の100分の1でもいいから、「想像力」というものを働かせてみろよと、俺は何度も言ったよなァと、七原を巻き込んだ体勢のまま、深く呪詛(じゅそ)する。

「宮蔵は」

 え?と思い、ぱっと下を見た。が、見えたのは真っ黒い髪の間に埋まったつむじのみで、しゃべる本人の顔は見えない。

「宮蔵は、連絡をしてもおまえが出ないので、何回も何回も、携帯を見に行って、久慈(くじ)に注意をされていた。森見にも、頭を(はた)かれていた」と、つむじの主がしゃべる。

 振り返り、宮蔵の方を見ると、両手で頭をおさえるポーズの上目遣いで、こくこくと首を縦に振っている。ちっ……こいつ、小賢しい、と自分の遅刻を棚に上げ、忌々(いまいま)しさが顔に出る。

 たしかに携帯には、店からの着信が3件であったのに対し、宮蔵からは忙しい合間を縫っていたとはとても思えないほどの着信に加え、相手が女だったら即刻別れを決断したくなるほどの狂気のスタンプ連打が送られてきていた。だけど考えてみれば、ひっきりなしに鳴っていただろう通知音の中で、ことことと眠りこけていられた自分の神経にも、うっすら狂気めいたものを感じないでもない。

 学生の頃はよく遅刻をして親にも教師にも怒られていたが、それも年々薄まって行き、社会人になってからは困ることもなくなっていたので、あの爆発的なまでの睡眠欲は単に成長期のなせるものだったのだろうと、勝手に納得をしていた。

「宮蔵。……今日は悪かった」

 年上の同僚に(うなが)され、半分近い不本意さはあったものの、なんとか身の内にわだかまる自分の非を認める言葉を吐いた。そういえば今日は一度も、宮蔵にたいしてちゃんと謝っていなかったのだった。

「いいってことよ!まいどんまいどんまいどんどーん」

 やかましいわ。

「ところで三島っち、今日は電車で来たの?」

 唐突な、というよりほとんど愚問とも思える質問を怪訝(けげん)に感じながらも、「ああ」と答える。

「で、今から電車で帰るんだよね?」

 同じく、「そうだけど」と答える。

「そっかぁ〜。………三島っちってなんかいつも無駄にスカしてるからすごい意外なんだけど、そういうのって逆にいいと思うよ。うん。俺はちょっと見直しちゃったかな」

 しげしげと上から下までを眺めまわされ、自分が何にたいして感心をされているのか、また、何の逆なのかがよくわからなかったので、意味を尋ねようとしたのに、さりげないディスりとしか思えない肯定風味の意見を聞かせつつも、抜かりなく着替えは済ませていた宮蔵は、「んじゃ!またねーん」と片手を挙げるなり、一陣の木枯らしのように部屋を出て行ってしまった。なんなんだ、あいつは。

 時折、実はあいつは人間じゃないんじゃないかと思える時がある。人間じゃなければ何なのかと問われれば、ディズニー映画などでちらほら見かける、ファンシーな生き物の(たぐい)、もしくは人間になりたい何かなのじゃないかと推察(すいさつ)している。あいつの一挙一動には、普通にアニメの効果音のような幻聴がつきまとっている。

「………あ。すみ、ごめんなさい」

 ちびっ子動物の立ち回りに呆気(あっけ)にとられていたせいか、七原を数分ほどの間、腕の間に軟禁していたことをうっかり忘れていた。いきなりの不可抗力とはいえ、自分が同性の先輩にたいし、かなり失礼な真似をしていたのだと気が付いて、さっと身を離す。そのあとに自分が汗臭くなかっただろうかなんて、変なことが気になった。今日一日、自分のことに構う余裕もなかったから、なんだかばたばたと過ごしているうちに、歯を磨くことすら忘れていたのだった。

 七原は真空パックされたように、ここへ来た時と同じぼんやりとした顔のまま黙っていた。いつもと少し違っていたのは、七原があたかも人を───第三者を(かば)うような発言をしたこと。それも、これまでにないほどの近い位置で。

 誰にも関心がない。誰にも興味がない。

 誰もが浮き沈みを繰り返してさだまらない自分の感情や、誰かの評価にふりまわされている中で、自分だけがどこか別の場所にいるみたいに他人事のような顔をしている。

 七原の”世界”には、いつも自分だけが明瞭にあって、俺も含めた周りの人間は七原にとって、自分の周りをうろうろと行き来するだけの、うっすらとした亡霊のようなものに過ぎないんじゃないかと思っていた。

 違うのかな、と思った。

 七原は俺が思うほど、誰のことも考えていないわけじゃなくて、外からはわかりにくいだけで、本当はこの頭の中に、もっとたくさんの豊かなものを抱えているんじゃないのか。

 この真っ暗な目の奥に、自分の知らない世界がある。

 そんなことを思っていたら、失礼だからといったん外したはずの距離が、また元に戻っていた。七原は、水族館のガラス越しの美しい精彩に魂を抜かれた子供のように、フラットな顔をしている。だけどここに向かい合っているのは水槽越しの魚などではないし、間を隔てるガラスだって存在しない。

「あの、七原さん」

「なに」

 おお。すごく普通だ。こいつ、なんて普通の声を出すんだ、とほんの少し拍子抜けをする。

 ちょっと変な感じになっていた。あまりにも七原が無防備に、なんの抵抗もない様子で、自分の”テリトリー”に収まっていたものだから。

 もし昼に歯を磨いていなかったら、もし、七原の声がもっといつもと違う感じだったら、ちょっと危なかったかもしれない。けど、何がどう危なかったのかについては、たった今作った心の小箱に投函した。

 少し、距離を取る。

「連絡先って、聞いてもいいですか?」

「連絡先……」

 七原の口から出ると、どんな日常的な用語でも、国籍不明の外国語のように(つたな)く新鮮な響きに聞こえるのはなぜなのか。

「今後……や、今日みたいなことはもちろん二度と無いようにはしたいんですけど、一応、携帯番号を聞いておいた方がいいのかなって」

 緊急ではなくとも、ちょっとした連絡事項のやりとりの際にだって必要になるときもあるだろう。むしろこれまで聞こうとも思わず、またその必要に迫られることもなかったことが不思議だった。

「ない」

「は。…………え?」

 それはもしかして、女子のお断りの常套句(じょうとうく)とか、そういった(たぐい)他意(もの)として捉えるべきなのだろうか。番号を控えるつもりで出した携帯を手にしたまま、七原の発した言葉の意味を咀嚼(そしゃく)する。

「携帯は、ない」

 物分かり良く頷いてやりたいところだったが、語彙(ごい)をひとつ足したところで何なんだという気がした。これがさっきまで流れるような動作で、無駄も隙もない的確な指示をしていたのと同一人物なのかと思うと、びっくりする。

「ないって、”無い”んですか?携帯を、持っていない………?」 

「そう」

 いや。「そう」じゃねえだろう。今どきは小学生どころか、 どこかの部族の人たちだって、槍を捨ててスマホを携帯しているって話ですよ。

「嘘、ですよね」

 七原が嘘をついたと思ったわけじゃない。だけど”持っていない”という事実が信じ難いものだったので、そんな貧困(ひんこん)な言葉しか出てこなかった。むしろ七原の言葉については、無条件に嘘じゃないと思っているくらいだった。

「前に壊れたから、そのままにした」

「そのままにしたって………」

 まさか。

 ………本当に?そんな理由で?

 呆れを通り越して、もはや途方もないものを感じている。浮世離れしているとは思っていたけれど、まさかここまでとは思わなかった。

「すみれちゃんが持てって言うけど、なくてもべつに不便はなかったし」

 いやいや、誰ですか”すみれちゃん”って。と内心で突っ込んだものの、「そうなんですか」と返事をしておいた。『携帯が無い=不便がない』と言い切ってしまえる感覚が、自分にとっては未知の領域だ。

「い、……家の電話は?」

 質問の趣旨は、すでに連絡先の交換うんぬんというより、怖いもの見たさ以外の何物でもなくなっていた。

「電話は、嫌いだ」

 そう言った七原の表情は、やや頑なな感じに曇っていた。

 いやいやいやいや。今のはそういった質問ではなかったはずだよ??と思いながらも参考までにその理由を聞くと「急に鳴るから」という返答が返ってくる。

 うん。

 おかしいな。俺は今、職場の同僚(年上)に連絡先を訊ねたのであって、迷子の幼児から話を聞き出していたわけではなかったはずだ。仕事はともかくとして、この人の生活面はいったいどうなっているのかと、とても心配になってくる。

 だけど、この支離滅裂なやりとりに、おかしさのようなものもこみ上げている。

「疲れた」

 七原が言った。嫌味な印象はなく、気を抜いた隙にふと漏れてしまった吐露のようで、そのように疲れさせたのは自分なのだろうと素直に思えた。

「ごめんなさい」

 謝ると、まるでどこからか降って来た音を不思議な面持ちで聞くように、ぱちぱちと瞬きをする。

「携帯、持つ予定はないんですか」

 声に苦笑が混じるのをこらえながら、あらためて尋ねる。

 あまりにぼんやりとしているので、夢遊病の子供でもつかまえて誘導尋問をしているような気分だった。さっきから七原の言動がいちいちツボに入ってしまうので、可笑しい。ついでに「すみれちゃんって誰なんですか?」と聞こうかどうか迷う。

「なんで持たなきゃいけないんだ」

 どうやら七原は電話という電話を、敵対的なものと捉えているらしかった。

 だめだなこりゃ、と思った。個人が携帯電話を持った方がいい理由や、誰かが持たない場合に起こる得る差し障りについて、頭に浮かぶ正論はいくらでもあるけれど、万人に通る理屈で目の前にいる一人を納得させるのは、とても骨が折れるような気がした。

 まあ、こちらとしても単に思いつきで言ったことだし、七原は「嫌い」とは言ったけれど、(さすがに)家に電話が無いというわけでもないのだろう。と思う。まったくありえないことではなさそう気がするのが怖いけど。

 それに、本人もそれで「不便がない」と言う通り、これまで特に差し障りがなく、職場でも看過されて済まされていることを、無理に押し付けるような気持ちもなかった。

 連絡先を尋ねてシンプルに「ない」と言われたのは初めてだったが、七原を見ている限り、そういうライフスタイルの人間がいるのも、新鮮でいいんじゃないかという気がしてくる。

 友達だったらちょっと嫌だけど。

「三島は」

「はい?」

「作業着の下に”それ”を着て仕事をしていたのか」

「え?…ああ。朝は慌ててたんで、上着をロッカーに投げて下は着てきたのそのまま…………」

 そこで、はたと口をつぐむ。

 おそるおそる視線を下に下ろすまで、自分の朝起きた瞬間の行動から、さきほどの宮蔵の不可解なセリフまでが、フラッシュバックのように押し寄せる。そうしている間、俺の周りでは宮蔵によく似た妖精たちが、楽しそうにマイムマイムを踊っていた。もちろん、それは動揺と羞恥が見せている幻覚に他ならない。

 俺は、なんとなく捨てずにおいただけの、手持ちの服の中でも1、2を争うくらいにダメなジャージを着ている自分に、崩れ落ちそうになった。いや、実際に崩れ落ちた。ちなみに、脱いでロッカーに放り投げたのが、ツートップのうちのもう一品だった。毎週次のゴミの日には捨てようと思いつつ、なんとなく捨てきれずにいたものだった。別に、愛着があるとか、着心地が異様にいいとか、そういうこともない。むしろ捨てないでいた理由がなんなのか自分でもわからないくらいに、どうでもいいシロモノだ。

「………あの。いつから気付いてました?」

「脱いですぐ。面白い服だなと思って」

「七原さん……」

「断る。帰れ」 

 今日一日のすべてに打ちのめされた俺に、七原が言った。

 俺はまだ何も言っていないというのに、すげーなこの人、と思った。


ありがとうございました。

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