志村という女
志村すみれ(31歳・女)は齢25にして『paigue』オーナー代理に就任すると間もなく、リスクを恐れない人材登用や、異業種間での提携など、実験的な計略をがんがん実践し、それまではテイクアウトが主体の”街の洋菓子屋さん”だった『paigue』が、現在の形態に至るまでの道筋をつくった。
代理とはいっても、『paigue』先代社長であり創業者でもある”オーナー”のリタイア宣言とともに、全ての権限は志村に譲渡してあるため、事実上、志村が『paigue』現最高責任者ということになる。
ちなみに、6年前のある日、ぱちぱちと手を叩いて「ハイみんな、注目注目〜」と全員の耳目をあつめたのち、唐突に突きつけられた、オーナー・荒木公太郎によるリタイア宣言は、『2・12ハム太郎トンズラ事件』として、実際にオーナー本人を見たことのないスタッフの間でさえあまりにも有名だ。
結果的には、先見の明から後進のための勇退を果たした功労者として称えられているとかいないとか、賛否両論併せ持つ、”『paigue』の立役者”であり、他にも彼に関する逸話は多い。
お世辞にも”立志伝中の人”と言い切ることができないのは、経営者としての最後のキメ台詞が「あのねボク、ハワイに住むことにしたから」だったのだから、仕方がないといえば仕方がない。大胆を超えて破壊的ともいえる経営戦略も、ただの思いつきとしか思えない現職の職場放棄により、オーナー業を押し付けられることとなった志村が当時それだけブチ切れていたせいだとも言われていて、本人も「この上あんなもんの名目まで引き継ぐなんて冗談じゃない」と口にしている。
そして、”オーナー不在”の『paigue』には、ちょっとした霊感の持ち主なら目を凝らせば物陰にアロハシャツのおっさんの残像を目視ることができるんではないかという程度に、オーナーが存分に垂れ流し、志村がついに拭い去ることが出来なかった、ゆるき良き時代の気風が、今もなお店のそこここに漂っている。
なお、荒木オーナーは妻とともに健在。現在はハワイで悠々自適の生活を送っているとのことだ。
そんなこんなで。
俺、三島一臣は、志村のことが嫌いだ。どれくらい嫌かというと、イクラのぎっしり入った丼にフリスクをトッピングして、チョコバナナシェイクをぶっかけたものを『店のサービス』と称して小粋に振舞われるくらいに気に召さない。
あの女とは、そもそも第一印象からして最悪だった。今だって初対面を思い出すだけでも脳が浜辺に打ち上げられて、座礁しそうなくらいのストレスを感じてしまう。
1年と少し前、とある人からの勧誘で俺は、現在勤める『paigue』の門戸を叩いた。『とある人』とはつまり、『とある人』だ。
で、顔見せとして挨拶に行った就職初日、執務室というのか、書斎のような仕様のオーナー室に通された俺は戸惑っていた。何でかというと、まさか若い女がオーナー室の、それもこの店の一番偉い人が座るであろう席に臆面もなく堂々と腰を掛け、歓迎というにはあまりにほど遠い醒めた目で迎え入れられるとは、夢にも思っていなかったからだ。それも、取りつく島もないような、”美人”に。
実態を知らなかったとはいえ、あの時第一に”美人”という印象を覚えてしまったことが、今もなおえらい屈辱を引きずり続けている所以だ。心の目を開いた今の自分には、美女の皮を一枚被っただけの無礼で粗暴な野人にしか思えないのに。
ともあれ、ある種の”美人”というのは特別何もしなくとも、居るだけで十分な威圧を放つ。
当時はあって然るべき通り一遍の儀礼文句すらないことにかなりな違和感はあったものの、立場的には雇われるこちらの方が下手に出るのがスジなのかとも思い、履歴書にも書いてある”通り一遍”の経歴を軽くなぞり、ふたたび会話が途切れ不自然な沈黙が落ちる前に、自分が勧誘を受ける決め手となった提示条件である、製菓専門学校への”奨学金半額返金制度”のことにも触れてみた。
店の制度の恩恵を受けたことに対し殊勝に礼を言っておくべきだろうと、その時は思ったのだ。しかし開口一番、志村が言い放った言葉は、
「はっ。ねえよ、そんな制度」
予断の隙など微塵もない、抜けるような声にギョッとした。
思わず「いや、でも授業料はもうとっくに………」いったものの、あとの言葉が続かなかった。今さら制度が存在しないと言われたところで、すでに受け取り、支払いが済んでいるものはどうすればいいというのか。面接の際に口先三寸で獲得した特待減額分を考慮したところで、かかった授業料は安いものじゃない。そもそも、それじゃあ詐欺じゃないのか。
生来無口ではないはずの自分が黙り込むほどに、混乱をしていた。そこへ、フンと短いため息が聞こえた。いや、鼻で笑ったという表現の方が近いか。
「おおかたジジイの口車にでも乗せられたんだろうが。心配しなくても、返す必要はない。こっちとしても、残り少ない余生の道楽にまで口を出すつもりは毛頭ない。というよりもあいつの言うことは、否定するより右から左に聞き流しておいた方が、苦痛と労力が最小限で済むってだけのことだけどな。ただ、ここへ来た経緯についても、店の───特に若い連中にはあまりおおっぴらにしないでくれないか。やっかんだあいつらに駄々をこねられでもしたら、ちょっと面倒だ」
尊大な美人は、目鼻をくしゃっと顰めるような顔をした。これはまさか、ウインクをした………のか?
「まあ、あとの細かいことはここへ案内してくれたノブナガさんにでも聞いてくれ。とりあえず、半年間はバイト扱いの仮採用って話は聞いてるよな」
「はい」と答える。それ以外、言うべき言葉が見つからない。というか、ヘタなことを口にする気は失せていた。なんなんだよ、こいつは。普通もっと、なんかあるだろう。親しみどころか、配慮も何もあったもんじゃない。”自分にまるで関心を払われていない”ということだけが明確にわかるだけの、無味乾燥なやりとりだ。
これが通過儀礼や何がしかの意味を含んだパフォーマンスなのだとしたら、かなり悪趣味だ。だとすれば、気を悪くする顔さえしたくない。間違ってもこういう人間にだけは、足元を掬われたくない。
そう思った。
頭をひとつ下げ、入ってきたドアへ振り返った時「ああ、そうだ」という声が背後からし、思わず鼻白んだ。まだ、なにか続きがあったらしい。
「辞めたくなったら、なるべく早いうちに言ってくれ。すぐに他を当たる」
──────接見は時間にして5分あったかなかったか、だいたいその程度のことだったと思う。
多少なりと、自分が面喰いであるという自覚は持っている。だけどたったそれだけの間に、そこそこ以上の容姿の持ち主に対し、これだけの悪印象を抱いたのは記録だ。とくに最後のひと言では、信管のピンが抜ける音がはっきりと聞こえたかのようだった。
志村に会って良かったことを、無理にでもこじつけるのだとすれば、自分は単に顔の美醜ばかりにとらわれているわけではないのだという、あらたな発見と証明があったことくらいか。
店で働き出すようになって幸いだったのは、『paigue』が志村との面接で警戒したような、ガチガチの独裁制とは違っていたこと。店員たちの間には、客前でもそれ以外でも、作りものめいた親しさを演じ合うような気配はまったくなかった。何より一番良かったのは、志村に顔をあわせる機会がほとんどないということだろう。どうやら志村のおもな仕事は、ネットや電話を介してのものだったり、外で人と会っての折衝ごとが多いようだ。そうで無かったのだとしても、自分に関わるのでない限り、志村のことなどどうでも良かった。
『paigue』では、一応の肩書きこそあるものの、それは単なる役割としての肩書きであり、こうあるべきという図式があってのものではないらしいということも、しばらく働いているうちになんとなく雰囲気で理解った。そして、志村はとてもエラそうな女だったが、偉そうなのは肩書きと態度だけで、店の人間に嫌われたり、煙たがられているわけではなさそうだということも同時に察せられたので、感情に任せた迂闊な発言は控えようということも、それとなく心に留めた。
ありがとうございました。