9.紡希
「……委員長?」
声が聞こえた。
間違いない。迫間歴の声だ。委員長の声だ。
ほぼ同時に、目の前の押入れの戸がガタガタと揺れて、紡希はびくついた。
――つむぎ、開けて。
歴の声は、すぐ目の前から聞こえていた。
「……委員長……?」
紡希は、察した。
襖の向こうに、歴がいる。
紡希は押入れに挿したつっかえ棒に手を伸ばしかけて――思いとどまった。
冷静に、考える。
歴が、〈かくし〉にいる訳がない。それに、さっきの曜の声は、偽物だった。またあの化け物が、歴の声を真似ている可能性が高い。
もし――もし、偽物だとしたら、紡希は、歴の声を真似た化け物に、あっという間に食い殺されるだろう。
あの化け物の飢えた目。爛々と輝く瞳は、紡希を餌食と思っている目だ。一切の対抗手段がない紡希は、襖を開けた瞬間、食い殺されてしまうだろう。
――けれど。
紡希は、万が一の可能性に、喉を鳴らした。
もし、本物の歴だったら?
曜は、「周りの人を信じてあげてほしい」と言っていた。その言葉どおり、歴が掛け値なしのおひとよしで、紡希を助けに来たのとしたら?
こんな危険で得体の知れない空間を、身の危険を顧みずに。
もし、歴が本物だったら、本物の歴だったのなら。
――紡希は、助かる?
「――紡希は……」
紡希は、己の心に、はじめて問いかけた。
「――……紡希は、それでいいの……? ……生きたい……の?」
小綿紡希は、初めて自分の矛盾に、気づきはじめていた。
生きるのが辛いとこぼしているクセに。いざ死を目前にして、自分の心は怯えている。
本心では、助かりたいと思っている。帰りたいと思っている。
なぜ、だろう。
「……つむ、ぎは……」
本当は、どうしたいのだろう。
紡希の自分の掌に目を落とし、じっと見つめた。
小さな手のひらは、無論、なんの答えも返してこない。
「曜さん、お母さん、紡希は……」
――生きたい、助けてほしいと、自分自身で強く願うんだ。
脳裏に蘇ってきたのは、大事な母ではなく、曜の言葉だった。
――紡希は、唇をかみしめた。
そして、心のなかの母に謝罪する。
いま、心がまとまらなくても、答えが見つからなくても。
紡希の手は、目の前の戸を開けたがっている。そう、自分自身で悟ったから。
「……おかあさん……ごめんなさい……」
心からの懺悔を口にした紡希は、やがて、顔を上げた。
襖を真っすぐに見据え、押入れの向こうへ、おずおずと声をかける。
「委員長……。委員長、そこにいるの……?」
だが、歴からの返事はない。紡希の声は、聞こえていない様子だった。曜の言っていた、〈かくし〉の性質なのだろうか。
襖の向こうにいる歴と、意志の疎通が取れない。ここから、歴の姿を確かめる術は、ない。
ならば――。
生きたいのならば、紡希は自らこの押入れの戸を開いて、確認しなければならない。
「――ふぅ、ふ――っ……」
それはあまりにも、危険な賭けだった。
紡希は、乱れた心拍数と呼吸を、正そうと試みた。たくさん深呼吸をして、心を落ち着かせる。
そして、曜の言葉を、思い出す。
――他の人も、同じように信じてみてほしい。
――手を伸ばしてごらん。そうしたら……きっと、世界が変わる。
「委員長」
賭け、じゃない。
これは、選択だ。
歴を信じるか、信じないか。死を選ぶか、生を選ぶか。
紡希の、運命の選択だ。
「……委員長。紡希は」
大きく喉を鳴らして、紡希は押入れの扉を、真っすぐに見すえた。
その向こうにいるであろう、分厚い眼鏡に広いおでこの、迫間歴の面影を想像する。
紡希が信じたい、少年の心を。意志を。心に写す。
「――信じる。……紡希は、信じるから、ね。……委員長……」
紡希は、戸を抑えていたつっかえ棒に手を伸ばし――取り外した。
そして、押入れの戸を、引いた。