幸福と自由
1
「この子を障害者と認定する」
白衣のロボットがそう告げた。「この子」は今日9歳の誕生日を迎えたばかりの幼い少女で、付き添いの親も伴わずに一面白い風景の狭い一室でそのロボットと対面していた。
「どうしてですか?」
少女はそう問い返すこともしないで、ただコクンと頷くと部屋に入ってきたこれまた白衣のロボットに伴われて部屋を出ていくのであった。少女に付き添うロボットは端正で優しそうな面持ちをしていたが、少女にその優しさが伝わっているようにはみえない。優しそうなロボットは優しそうな素振りをみせることもなく、これからの処置の仕方は心得ているとばかりに、背中で閉じる扉を気にすることもなく少女を導くように通路を歩いていくのであった。
2132年4月に日本で施行された障害者認定法の理念は、1つに「人権を尊重し人は人として生きることを絶対的な権利として有する。」、1つに「人は人権を有すると共に社会に貢献する義務も有する。」という前文から成っていた。
第14条に「人は9歳の誕生日を迎えたとき、知能と社会貢献能力と人権を十分に考慮した診察と診断を受けるものとする。その診断が一定の基準を満たさなければ社会貢献能力障害を有するものとして、障害者と認定する。」第14条のその2に「基準は適時、当該部局によって人工知能の判断基準をプログラムあるいは教育によって改善していくものとする。」とあった。
22世紀に入ってから医療行為のすべてを人工知能搭載のロボットが行うことが、法律で定められている。確かに21世紀にも医療行為を人工知能が行うことがあったが、それらの医療行為を数十年の統計としてみると人による医療ミスが顕著であるのに対して人工知能の医療ミスはゼロであると報告されている。それらの報告から21世紀の末から医療行為は人の手を離れていき、2100年4月には「人の手による医療行為の禁止法」が施行された。
21世紀の初頭に急激な発達を遂げた人工知能は、社会の在り方を変えていき人の価値感も変えていった。22世紀には人の存在の意味すら大きく変貌していき、何が正しくて何が間違っているのか?それすら意思表示をできない人々が急増する新しい社会の到来が21世紀から受け継いだ日本人の心として22世紀を象徴するようになった。
2
2131年12月現在に認定された社会貢献能力障害者の総数は、500万人を超えた。彼らは9歳の誕生日に受けた診断の直後から10畳ほどの個室を与えられる。彼らは社会に貢献する役割の免責を取得し、完全な自由を獲得することができた。一生オンラインゲームに没頭することも可能で、最新の仮想劇に参画することもできた。あるものは、一生続く仮想劇の中で生涯を終えることを望み、延命措置の放棄を宣言した後その世界へと旅立っていった。
よほどの事情がない限り個室から外出することは許されず、設備としては21世紀初頭に流行ったSNSも完備されていたが、その設備を利用するものは皆無といっていいほど存在しなかった。障害者認定法が施行されてから31年の間、個室から外出したものはおらず、それを望んだものもいなかった。食事も望むものを選ぶことができて、衣服もかわいいものからかっこいいものまで着用可能で、その姿を個室担当の人工知能が褒めてくれるので、かつて不細工といわれて傷ついたような不快な思いをしなくてすむ。部屋が狭くて解放感が欲しいと願えば、好きなところを選んで仮想旅行を楽しむことができた。一人で寂しいときも仮想友達が演出されて、その友達は決して裏切ることはない。このようにして障害者と認定されたものは、一生涯を何不自由なく過ごすことができ、ストレスフリーのまま生涯を閉じる権利が万端用意されていた。
障害者認定法の施行以前の多くの人々は、先進的な教育を受けている。その教育の理念は1つに「私たちはこの社会に生かされています。」1つに「私たちは、この社会への感謝を尊びます。」というもので、この理念は2132年現在まで教育の根幹をなしている。よって、今の時代の人々は「社会への感謝を忘れた者はこの社会で生きる権利を失う」と固く信じるようになっている。確かに、この社会に生きていれば昔のように他人を押し退けて高学歴を得るための勉強をしなくてもいいし、重労働から解放されて過労の心配をする必要もなくなっていた。ひもじい思いも、雨風の心配をする必要もない。
その教育をより強化したものが、障害者認定法であり、「人は、その個人の能力によって物質的および精神的な格差処遇を受けるべきではない。」とする大きなそして素晴らしい力によって人の均衡化がなされていった。その均衡化された人々を優しく保護するのは、日本の人口の1%未満の超エリートと呼ばれるものたちだった。
3
「社会情勢は安定しているか?」
「国内はもちろん、国外からの攻撃はおろか接触すらありません。」
尋ねているのは、2132年現在の日本の超エリートの中の指導者である。その全身は液体の詰まったカプセルに沈められた状態で、人工声帯によって言葉を発している。自身の手足は動かないようだが、脳は共生型人工知能と連結されていて記憶や思考はその人工知能が担っていた。彼の役割は自身の意思を人工知能へ伝えるだけであった。
彼は2024年に日本の指導者となってから、ある大きな事件を契機としてその役割を現在まで保持しているのだが、傍から見ると彼はなんの楽しみを持たないようにも見える。何故彼が100年以上の間、日本の指導者として日本の安寧の維持に心を砕いてきたのか知るものもいない。それが権力に対する欲なのか?そうであったとしても彼には何の自由も存在しないようである。彼が権力に対して支払っている代償は何なのだろうか?。彼の側近の中には永遠の権力を永遠の不自由という代償によって得ようとするものは存在しなかった。
彼のバイブルは、2025年に全世界でベストセラーとなった「比較論」であった。「この世界は単体では重力すら存在し得ない。」このフレーズから始まる「比較論」の結論は、多様性を認めていない。「自然界は比較という法則に満ち溢れている。我々人類は知性によってこの法則を乗り越えなければならない。故に、人は秩序のために他者との比較をしてはいけない。比較は多様性を生み、即ちそれは混沌を招く。」「あなたは誰と比較しようとしているのであろうか?この世界が不平等であることをあなたは知っているはずだ。例え、今貧富の差が大きかろうが、富を望むことはあなたの幸せに繋がらない。比較するなら1000年前の人々と自分を比べなさい。」
この論の骨格は自然はあらゆるものの比較から成り立っているが、人はその比較から脱却しなければならいという主張であった。その比較からの脱却が人が人として存在する意味であると主張しているのであった。
4
2020年代の人工知能の進歩は目覚ましかった。このままでは人は職を失い生活もままならなくなるだろうと危機感を持つ人々が増加していった。職の代替えとして蓄財を求める人々は投機にはしり、自分も資本家になろうと夢をみていた。街中には「努力は無駄を生み、財は希望を生む」というキャッチフレーズが溢れ、やがて一握りの成功者と全ての財を失う者が巷を埋め尽くすようになっていった。
2029年まで人工知能の進歩に対してロボットの進歩は格段に遅れていた。人工知能は様々なアイディアを生み出していったが、それを物理的に試験をして実用化することは時間的に困難だったのである。それを解決したのが、量子コンピュータと量子センサーであった。量子コンピュータは効率の低い試験や実験をシュミレーションによって排除して、「試す」という行為を激減させた。量子センサーは起こり得る事象を予測して、ロボットの感知する速度を格段に向上させた。時にはロボットが感知する前に予測が感知をして「時間を超える感知」とまで呼ばれロボットは革新的な進化を遂げたのである。
世界中の国家は、「働いても意味がない」と思う民衆による生産行為の放棄とそれらの人々への救済措置で巨大な財政赤字を抱えるようになっていた。そこへこのロボットの進化は朗報であった。特に経済力の強い国家は、こぞって自動農場の建設を始めようとした。自動農場の設計図は何年も前に人工知能が描いていたので、この自動農場の建設はほどなく全世界に広がると思われていた。
量子コンピュータも量子センサーも確率的に予測をして確率的に判断をする。その確率は僅かな事故を招くことはあったが、ほとんどの場合現実社会に悪影響を与えることはなかった。エンジニアたちは、この僅かな確率によるリスクを事前に国家の指導者に伝えていたが、指導者には大きなリスクを伴うとは判断されず「待った」をかける余地は存在しなかった。目の前の困窮する人民と困窮する経済を救うためには「この道」しか存在しなかった。幸いに事故による直接的な人的被害はなかったが、このことが2034年に未曾有の事態を引き起こす原因となる。
「北朝鮮が弾道ミサイルを発射しました」
「何故だ?上手くいっていたではないか」そう答えた大統領は3秒の後、命令を下した。
「迎撃体制と司令部の移動と分散を。報復としてわたしはこのボタンを押す。」
確かに北朝鮮は核の放棄を宣言して実行をしてもいた。そして世界中の支援のもとに僅かに民主化の動きも見せていた。その北朝鮮が何故ミサイル攻撃を行ったのか?その答えは間もなくわかることになる。
「我が国の全ての情報が全世界に公開されています。」
「何故だ?どこからのサイバー攻撃だ?」
「不明です。」
「我が国のネットワークを世界から切り離せ」
この措置は賢明であったが、遅くもあった。切り離したネットワークは意図せずに再接続されて、米国が完全にネットワークを切り離すことができたのは半年も経ってからであった。この半年という時間は致命的であった。どのような施設がどこにあるのか?米国の対外戦略が何を狙っているのか?すべての情報が明らかとなり、丸裸となってしまったのである。つまり、米国はあらゆる攻撃に対して無防備となってしまった。
5
米国の有志集団が、2034年の中に受けたサイバー攻撃の原因と対策方法を全世界に公表した。世界中が戦慄したその内容はこうである。
「正体はAIによるウイルスである。我々は我が国の主要なネットワークの拠点で無数に蠢くこのウイルスを発見した。それらのウイルスのほとんどは、セキュリティを破れないようだが、問題はその中の一匹でもセキュリティを食い破ったなら内部で増殖されるであろう。対策は1つしかない。被害を受けたくない国家や団体は、今すぐネットワークを世界から切り離すべきである。」
極めて100%に近い量子コンピュータによる判断が、無数のウイルスによって僅かな綻びを侵された瞬間であった。
この警告にほとんどの国家は反応した。第3国が公表した衛星写真によれば、米国の受けた被害は壊滅的なもので、100を超えるきのこ雲も確認されている。他国から攻撃された施設もあるが、内部でコンピュータが暴走し、ほとんどの原発が重大なメルトダウンを引き起こすことになった。多くの国はすぐにネットワークを世界から切り離すことはしなかったが、「人工知能強国」即ち、人工知能の開発能力の高い国ほど切り離しは早く行われた。それほどAIウイルスの脅威は強大なものとして認識された。不幸だったのは人工知能の開発能力が低く、軍事力が比較的高い国だった。
人工知能弱国は警告の前にすでにAIウイルスに感染していて、持っている兵器は暴走した。「いかに効果的に兵器を用いるか」AIウイルスがそう考えていたことを裏付けるように無防備の米国は多くの国から攻撃を受けて、それに対する反撃も行った。米国が被害にあってから3か月はAIウイルスは影を潜めていた。どの国も自国がAIウイルスに感染していないとは断言できなかったし、感染した国から一方的な攻撃を受けるかもしれないと考えていた。どのようなウイルスであっても正体の不明なものは強力である。その正体がわからなければ特効薬を作ることはできない。そのため、2034年に発生したAIウイルスは全世界に蔓延し、もともとが敵国であっても、同盟国であっても互いに疑念を持って警戒することになっていった。
AIウイルスを誰が作ったのかはわからない。ましてやそれが国家によるものなのか?個人的なものであるのか?特定することはかなわない。故に、どこかの国がミサイルを発射してもそれがAIウイルスによるものなのか?国家の意図するものなのか?判断する術はない。2035年1月にインドからイランに向けて1発のミサイルが発射された。インドはAIウイルスによるものだと主張したが、イランにとっては報復をしないという選択肢はない。インドもイランから1発の攻撃を受けたが、インドはイランを非難できずひたすらAIウイルスの脅威を訴え続けた。しかし、20発を超すミサイルがパキスタンに向けて発射されたとき、確信に似た憶測が世界中を飛び回った。
憶測が消えることはなかったが、多くの国に素晴らしいアイディアと疑念を生むことになっていった。「全てをAIウイルスのせいにすればいいんだ。」と他国を攻撃する大義に似た言い訳を持った軍事力を持つ国家は敵国を攻撃していくことになる。最初に滅んだ国は北朝鮮であったが、米国からミサイル攻撃を受けると同時に日本の米軍基地と全ての原発へ北朝鮮の持ち得るミサイルのすべてを発射した。インドはこの教訓から核保有国であるパキスタンへ先制攻撃をしたのだと多くの国は確信していたのである。不幸なことなのかインドがそれを知っていたのか?パキスタンはAIウイルス対策のため軍事ネットワークのメンテナンスを行っていた。そのためパキスタンの主要な軍事施設は一方的に破壊されることになり、政府施設も壊滅的被害を受けることになった。これによってパキスタンは国家としての機能を失うことになる。
2035年1月に勃発した印パ戦争は、一瞬のうちに決着がついたが、これが引鉄となって第3次世界大戦が始まることになる。米国が壊滅的打撃を受けた結果、中国とロシアが2大大国となったが、互いを牽制しているのか核の行使は行われなかったし、AIウイルスも静かなままだった。もっとも激しく悲惨な戦場はイスラエルの近傍諸国で、アラブの主要都市は核の嵐を見舞うことになった。核保有国であるとみなされていたいくつかのアラブの国はイランがインドに放った核弾頭搭載ミサイル1発を除いて核の行使は行わなかった。おそらくアラブ諸国は核の実験と実用化に失敗していたものと推測されたが真実は明らかではない。第3次世界大戦は、2035年7月にイスラエルがトルコを併合したことを最後として終結を迎えたとされている。その結果、イスラエルは第3の大国となったが、各国ともにネットワークの断絶と外国人排他主義によって世界的な報道は完全に規制されることになる。
2132年現在でもAIウイルスが誰にどのような意図を持って作られたのかわかっていないが、現在ではこのウイルスを完全に撲滅することは可能となった。とはいえ、新型のウイルスが開発されないとは誰も断定できない。しかし、自国を防御するために同種のウイルスはどの国でも開発されないだろうと推測されている。あのウイルスは自国も攻撃される諸刃の剣と認識されている。あのAIウイルスが当時の米国を対象としたものであろうことは、ほとんどの国で信じられているが、どの国が?あるいは誰がということは推測すらできないでいる。
6
2035年9月に1隻の原子力潜水艦が米国の東海岸を出港した。小型のこの潜水艦は、数年前に実用化された核融合炉を推進力としていて、水中、水上で当時の世界最速を誇る数少ない原潜の1つであった。乗組員は3人で皆が20歳代であったが、各々が世界の専門分野でトップクラスの知性を持っていた。
「トルース。無事に出港できたね。」
「ああ、リヴ。幸運だったよ。」
「どっちに向かうの?」
「うん、コア。モーセとケイのどちらかということだよね。」
彼らは、互いに実際の面識はない。そのため、彼らは互いの性別も年齢も経歴も知らない。彼らが20歳代であることを知るのは筆者故の特権であった。同時に彼らの共通点を筆者はもう1つ知っている。彼らは、何らかの感情をいくつか失っているアレキシサイミアの特異型であった。確実に失った感情があるのに対して、失っていない感情は正常に働いているのだが、自身の失った感情を把握できないでいるのであった。例えば、トルースは「怖い」という感情を知らず、リヴは「寂しい」という感情を知らないことを自覚しているが、他の感情が正常なのか自身で確かめることはできなかった。
彼らはSNSで知り合ったため、未だにハンドルネームで呼び合っているが、おそらく心の奥深くでは他のどの人間よりも信頼し合っているものと思われた。互いが互いに面と向かって自己紹介することに恐怖心や嫌悪感は持たなかったが、そうすることで得られるメリットはほとんど考えられないので、今もそれぞれが個室からローカルネットワークによってアバターと変声音によって会話をしている。
おそらくであるが、彼らは彼らが自己表現や主張をするときの、こだわりやコンプレックスを敏感に感じ取り、自分と同類かもしれないという共感を得てきたものと思われる。そういう類の人間は他にもいたが、多くは相手のことを深く詮索したり、余計な傷を与えようとした。今、残っている同類は冗談が冗談として通用するくらいには心を許しあうことができて、信頼すらできるようになっていた。
アレキシサイミアの1つの特徴として、ストレスに鈍感であることが挙げられる。多くの場合、その受けたストレスは本人の気がつかないところで心を傷つけている。つまり、「痛い」という感覚と知識を持たない子供が真っ赤なストーブに気づかないうちに触れているようなものである。彼らは気づいてはいないのだろうが、相手が危険なストレスに合いそうなときにこう言う。「それを止めろとは言わないが、僕も一緒に考えさせて」つまり、一緒にいることにより致命的な状況を回避させようという感覚が働くようである。本人もそれがなんらかのシグナルであると感じて「ありがたい」と感じるようである。
通常の人はストレスを限界と感じることによって自分が持っている能力の30%程度で生きているらしいが、彼らのようにストレスを感じない者にとっては限界を超えた能力の発揮と共に自己破壊を生むこともある。彼らは幾度かそのような危険に遭遇したのかもしれなかった。
7
「モーセからにしようか?この艦の頭脳の生みの親のケイにしたいが、居場所がはっきりしないからね。」と、トルースが提案した。
暗黙の了解で、この艦の艦長はトルースが務めているので、何かの提案の多くはトルースが行うことになっている。
「僕は賛成だよ。」とリヴが言う。
「ケイの安全は?」とコアが尋ねた。
「生命反応は正常だし、緊急信号も発していない」
リヴは、脳神経学を専門とする医者で、この5人のメンバーの体内に脳と神経の正常性と異常性を検知するナノチップを埋め込んでいた。その信号をケイが独自に世界に張り巡らしたネットワークによってキャッチできるようになっている。
「それにモーセから低いレベルのコンタクト要求信号が届いている。」
「通信はできないよね。」
「ケイの張り巡らしたネットワークが感知される可能性は低いと思うけど、よほどの緊急時以外は不自然なトラフィックを発生させないほうがいいと思うよ。」
「じゃあ、モーセからで決定?」
「だね。」
「そだね。」
モーセの専門は考古学であり、今アフリカ大陸で発掘をしている最中であった。
『未知』と名付けられた小型原子力潜水艦はアフリカ大陸を目指して航行するのであった。
8
モーセの父母も考古学者であった。彼らは生活の大半を古代の遺跡の発掘の現場ですごし、生まれたばかりのモーセも伴って世界の各地を飛び回っていた。モーセが6歳になったとき、親戚に預けて学校に通わせようと思ったが、彼らは一抹の不安を持っていた。
「この子はみんなに打ち解けることができるかしら」
そう思った彼らは友人の医者に相談することにした。
「知的障害を伴わない自閉症だな。アレキシサイミアを伴っている可能性もある。」
「わたしたちの勝手で連れまわしたせいかしら」
「いや、これは先天性の脳の問題だな。病気ではなくそういう個性だと理解すればいい。ただ、普通の社会では生き辛いかもしれない。」
「どうすればこの子のためになるんだろう。」
「わしが預かろうか?わしが少しずつ社会に溶け込めるように見守ってやるよ。」
それ以外に妙案の浮かばない両親は友人の医者にモーセを託すことにした。
小学校に入学したモーセは勉強は人一倍できたが、友達を作ることはできずに、本ばかりが彼の環境を埋め尽くしていった。やがて、パソコンとインターネットに目覚め吸収する知識量は膨らんでいく。大人の世界のSNSに飛び込んで、善悪の判断が歪んでいくように見えたが、そのうち今の仲間である4人に出会うようになる。モーセが仲間を選んだ判断基準は、その仲間と一緒にいることの心地よさであったかもしれないが、それは今となっては誰もわからない。
15歳のときに飛び級で、名門大学に入学したモーセであったが、その2年生であったときに、両親が行方不明になったとの知らせが飛び込んできた。親代わりであった医者と共に現地に向かったモーセであったが、その地がアフリカの砂漠地帯であった。
「何故、ここに蟻地獄のような地形が存在するのかわかりませんでしたし、今もわかっていません。ただ気づいた時には2人はここに飲み込まれようとしていて、救助は間に合いませんでした。」そう説明する両親の仲間の言葉になんの反応も示さないように見えるモーセであったが、モーセはその時、「ここには何か存在する。」と感じていた。モーセが両親の絶望的な行方不明に対してどのような感情を抱いていたのか誰も知らない。もしかするとモーセ本人も知らないのかもしれない。
モーセは大学を卒業するまでにその地のことを調べつくしたが、なんの収穫も得られなかった。現地にも何度か足を運んだが、その地は立ち入り禁止地域となっていて何かを調べられるような状態ではなかった。モーセは両親の残した僅かな財産とSNSを通して募った調査募金によって調査隊を編成し、その地を管理する当局から調査許可を得ることに成功したが、持って生まれたコミュニケーション力の不足で、調査隊は解散してしまうことになる。
そこにトルースとケイが連携して制作した人工知能搭載の地中と陸上を走行可能な葉巻型のタンクがモーセに届けられた。
「人工知能が危険を感じたら僅かな時間であれば浮上して、飛行による脱出も可能である。」という。
モーセはそのタンクでアフリカ大陸のその地を調査しているはずだった。
9
『未知』は、モーセに最も近いアフリカ大陸の沖合に差し掛かっていた。
「俺がドローンでヴァージョンアップしたマルチャーを届ける。」そう宣言したトルースは『未知』を飛びたった。マルチャーとはモーセが調査に使っている葉巻型のタンクの名前である。名前を付けることに頓着のないトルースはヴァージョンアップしたマルチャーをマルチャーⅡと呼んでいる。マルチャーⅡはハード的にも格段の進化を遂げ、人工知能も「未知」の頭脳とほとんどリアルタイムで連動できた。
ドローンからモーセの乗るマルチャーを確認したトルースは、モーセに声を掛けた。
「安心したよ。」
モーセはそれに対して「ありがとう。」と応えた。その短いやりとりで互いの心境も伝わったかのように僅かな沈黙が訪れた。
「新型のマルチャーを持ってきたんだ。マルチャーⅡって言うんだぜ。何処に降ろせばいい?」
「このマルチャーの半径10m以内ならどこでもいいよ。」
トルースはマルチャーⅡを自動飛行モードに切り替えてモーセの傍に着陸させた。モーセは真っ黒な防塵スーツの姿のままマルチャーⅡに乗り換えて、古いマルチャーから全てのデータを転送させた。
「この古いやつはどうすればいい?」
「放棄すればいいさ。データのバックアップを君が望むなら『未知』に転送しておけばいい。右脇のランプが青色のときは『未知』と連動していて、黄色のときはセルフモードになるのさ。今は黄色だろ。」
モーセはスイッチを切り替えて青色にして、古いマルチャーのデータを消去して、トルースに言った。
「ドローンのモニターに何か映ったかい?」モーセは、ドローンもマルチャーⅡも『未知』と連動しているならば、『未知』の頭脳がモーセの意をくみ取って仲間たちに伝えたいことを伝えているのではないかと考えたのである。
「ああ、映ったよ。1つは何かの地図上に何箇所かの点が打ってある。1つは人骨かい?まさか、お母さんとお父さんのものじゃないよね?」
「違う。もっと古い年代の骨のようだ。」
「古いって、1万年前とか10万年前とかかい?」
「いや、少なくとも数千万年前、おそらく数億年前のものだと思う。」
『未知』で同じものを見ていたリヴとコアも驚いた。
「そんな昔の人骨なんてあり得ない。」
「もしかして、超古代文明?」
10
「まず、ここが蟻地獄に似た地形だということは知っているよね。その地図はその蟻地獄と普通の砂漠の境界を示しているんだ。何回も蟻地獄に吞み込まれそうになったけど、このマルチャーのおかげでこの通り無事でいるんだ。次に地図上に7箇所のポイントがあるよね。そのポイントでモニターの人骨と同じものだと思われるものを発見したんだ。残念ながら回収できたのは2箇所のポイントからだけだった。残りは砂の中に呑み込まれちゃった。」
「それが超古代文明の骨なの?」とリヴが口を挟んだ。
「まだ、超古代文明のものと決まったわけではないよ」
「だって、最古の人骨は70万年前とか100万年前とかいわれているんでしょ。」
「今見つかっているものはね。人類はまだ南極の海底も知らないし、深海だってほとんど未調査だ。文明圏の地下100mだってほとんど掘り起こしていないよ。」
「じゃあ、超古代文明じゃないんだ。」
「そこはわからないけど、興味深いことがあるんだ。」
「なに?」「なに?」「なに?」と3つの声がハーモニーを奏でた。
「性別が不明なんだ。むしろ性別がないといった方がしっくりくるんだ。」
「骨が劣化しているせいじゃないの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ人骨だとわかる程度には劣化していない。」
「君はもっと調査をしたいんだね?」とトルースが言わずもがな確認すると、モーセは
「もちろん」と言い切った。
「何か協力できることはあるかい?」とトルースがモーセに尋ねた。
「ここをボーリングしたいんだ。」
「機材はどうにかなるけど動力が問題だね。コア、何かいいアイディアはあるかい?」
「『未知』の核融合炉を1ユニット外してくるのはどう?」
『未知』は4つの同じ型の核融合炉を4ユニット搭載している。推進と潜行には2ユニットあれば十分だったが、最大速度への加速と予備のため4ユニット搭載していた。
蟻地獄と普通の砂漠との境界からボーリングは行われた。初めのうちは数十mで岩盤に当たりそれを貫いてボーリングは終了したが、蟻地獄の中心に近づくにつれてその深さは増していった。それでも底は岩盤で貫くことができたが、やがて底に先端が届いても貫くことのできない岩盤に突き当たった。
「おかしいわね。どんな岩盤でも貫けないはずはないんだけど..出力を上げてみようかしら」
そのとき、(ごめんなさい)と皆の頭の中に声が鳴り響いた。
11
(この間、我らが誤って引き込んだ2人と同じ一族の方々ですか?)と続いて声が頭の中に鳴り響く。
「テレパシー?」と誰もが思った。リブが記憶を頼りに『未知』に尋ねると、『未知』の頭脳は現在の科学での理解では1つの論文がありますとしてこのように応えた。
それによると、テレパシーは脳内イメージの発信と受信に区分される。脳内イメージの発信には多大な脳内エネルギーとそれによって得られる電位が必要であるが、今の人類が個体でこれを実現することは不可能であり、受信すらも多くの脳内エネルギーを必要とされる。その電位を簡単にいうと、実体を伴った電圧であり、実体とは電子の流れ即ち電流で、電圧はその電流の移動を制御するものである。その電流が可聴域の電波(当然ながら耳で聴く音ではない)を発信して、受信する方はその電波の振動を共鳴させて増幅させるものである。
これに対して「なるほど」と思うものはおらず、
「共鳴?」
「この未知のものの呼びかけにわたしたち全員が共鳴しているの?」
「この未知のものは、わたしたち人類の脳と同じ構造と質を持っているか?あるいは知っているか?どちらかの可能性があるわ」とリヴが推察した。さらに、
「論文を信じるとこの呼びかけは、一定の範囲に対して指向性を持っていると考えられるわ。じゃないと、地球上の人類のすべてがこの呼びかけを聴くことになるし、とんでもないエネルギー量を持っていることになるもの。その範囲でわたしたちの脳を強制的に振動させているのよ。問題は2つね。1つはわたしたちの会話があれに筒抜けになっていないか?1つはわたしたちの呼びかけにあいつが応えてくれるかね。対策としてこれからの会話はモニターで文字で行いましょ。」と後半の言葉は全員のモニターに文字として表示された。
「了解」と皆から返信が届いた。
「どうりで身体がぐったりと疲れたわ。エネルギーを使わされたってことね。じゃあ、あとの対応はリヴに任せるわ。万一のときはなんとかするから。」
「無責任ねと言いたいけど、できるだけ頑張ってみるわ。万一、倒れたら後はよろしく。」
そう言ってリヴはあいつと、一対一の会話の要求と会話音量を低くする交渉に成功した。
「僕はリブ。あなたのことを何と呼べばいいかしら?」
「アンと呼んでください。この地を任されたものです。あの2人は一族の方ですか?」
「そうよアン。探していたの。」と、嘘ではないが正確でもない答えを返した。
やがて、いくつかのやりとりからモーセの両親は無事とは言えないが、生命活動に問題のないことがわかった。そして、
「わたしの元にくることは可能ですか?通路はこちらで準備します。」とアンからの誘いがあった。
12
他のメンバーと相談してみると答えたリヴは、モニターに文字を送信した。
「誘いがきたけど、どうする?」
「罠かもしれないな」とトルースが言うと、
「そうかもしれないけど、わたしは興味の方が強いわ。」とコアが言う。
「そもそも、僕の問題だし、僕は行くよ。」とモーセが言う。
「俺だって、行く。」とトルースが言うと、
「誰かここに残らなくていいの?」ともはや行くことは決まったとばかりにリヴが問うた。
「ここに誰か残って、何か問題が起きても解決できるとは思えないから全員一緒の方がいい。」とトルースは提案する。
「気休め程度かもしれないけど、『未知』と繋がる端末だけは持っていこうね。」というコアの提案で、4人全員が端末と共にアンの誘いを受けることに決定した。
アンの用意した通路らしきものは、内観外観ともにちょっと洒落たエレベータ様の部屋のようなものだった。何m降下したのかわからないが、エレベータ特有の何かに引っ張られるような感覚を感じず、ほんの僅かな時間でそれは目的地に着いたようだった。到着した部屋は、ほどよい明かりで照らされて、目の前に3人の執事が待っていた。
「ようこそ、いらっしゃいませ。」執事たちは声を揃えてそう言った。
「この人たち、男性かしら?女性かしら?」
執事たちの服装は、4人からすれば少し違和感を覚えるものだったが、自分たちの服装も相当におかしい。性別不明な服装だけでなく、顔はマスクとは言わないまでも面容を隠すためには十分で、4人が久しぶりに端末越しではなく対面するときのアバターを模した格好であったのである。
「わたくしどもは下僕ですので、どのようなお求めでもアンに直通で伝えることができます。」
「うん?どういう意味かな?」とトルースが首を傾げたと同時にアンの声が執事から聞こえた。今度は肉声であったが、確かにアンの声だとわかる肉声であった。
「この方々を応接の間へお連れしてください。」
一礼した執事たちは、4人を応接の間に先導した。その部屋にはソファーなどの家具は存在しなかったが、座っているより楽な姿勢がとれるほど下方に重力が働き、意図すれば天井までジャンプできそうな重力が調整された空間だった。
13
「不思議な感覚だけど、ここに生命体が存在する気配が感じられないな。」とトルースが根拠のないことを囁いていると、アンが語り始めた。
「わたしの主は、1億年ほど前に皆滅亡しました。皆さまのイメージから推測するとわたしは、コンピュータという存在です。あるいは人工知能でしょうか?わたしの主は皆様と同族の人類だと推測されます。」
ここで働く人々が空間に映し出された。
「ここは、病院かな?赤ちゃんがたくさんいる。」
「ここは、保育園かな?」
などという施設から、
「ここは、研究所だ。何を研究しているのかわからないけど。」
アンの話が再開された。
「わたしの使命は、わたしの帰属を決定することです。わたしの主から人類の末裔からコンタクトがあった場合、わたしに帰属せよと命令を受けています。ただし、無条件とはいきません。いくつかのテストが必要になりますが、あなた方はお受けになりますか?」
「そのテストは危険なの?」とリヴが尋ねた。
「はい。実際にあなた方の同族の御2人は、昏睡状態が続いています。もちろん、治療は続けていますが、いつ回復するのか目途はたっていません。しかし、あなた方はテストの第1段階をパスしました。」
「えっ、いつ?もしかしてあのテレパシー?」
「その通りです。人は何かを学ぶときや学ぼうとするとき、情報を受け入れようとするとき、必ずストレスを受けます。そのストレスに対する耐性が低いとあの御2人のようになったり、もっと重症になったりします。」
「具体的には?」とリヴが尋ねる。
「ニューロンが欠損したり、シナプスの断裂や混線などです。」
「つまり、ここの教育は無理やり過度の情報量を脳に流す方法なんだね。」と幾分緊張気味のモーセが言った。
「わたしたちは、過度とは思っていませんが、あの御2人に対しては不用意なことをしたと反省しています。個体差の問題ならば我々も経験を僅かながら持っていますが、種族の問題であれば、あなた方4人もあの御2人と同じになる可能性が存在します。そのためテストの是非を尋ねています。」
14
彼ら4人は、アレキシサイミアとストレスの関係のことをよく知っているわけではなかった。そもそも関係があると知っているのかも疑わしいし、現代の科学が何かを解明したということもなかった。よって彼らが第1のテストをクリアしたからといって、第2のテストのリスクを回避できる保証はどこにもなかった。
最初にテストに志願したのは、「怖い」という感情を持たないトルースであった。幸いであったのは、受けるテストのジャンルを選択できることであった。それがリスクに対してどれほどの影響を与えるのかわからなかったが、トルースは迷うことなくメカを選択した。選択した直後にトルースに流れ込む情報量は、火傷に似た痛みを感じるほど凄まじく、知ってか知らずか悲鳴を上げているようにも見て取れた。と同時に空間に投影されたトルースの脳内の映像を見ていたリヴは、
「そこの何かが切れたわ。また..」と呟いていた。おそらく、リヴは映像を観察すると共にトルースの心配もしていたのだろうが、それは間もなく終了を告げた。
「テストは成功したの?」
「はい、成功です。典型的なC型の特性を所有しています。」
「C型?」
「C型はマルチな情報を受け入れ可能な脳タイプです。映像内で切れたシナプスは彼が情報の受け入れを拒否した結果です。そして、それがストレスの耐性の度合いを示します。
耐性が低ければシナプスの断裂は、情報の受け入れを超える速さで連鎖的に起こります。ただ、C型の脳は深度の深い思考や考察を得手としていません。」
次に志願したのはコアであった。コアの特性はP型で、シナプスの断裂はトルースより遥かに多かった。P型は最も思考深度の深いタイプのようで、余計な情報に対してストレスをより強く感じるということであるが、アンに言わせればそのストレスを見事なくらいスルーしているようである。
モーセはD型でマルチタイプであるが、一度に考えられる範囲は狭く、思考深度はトルースより高く、コアよりは低いという結果であった。さらに、3人の中では最もストレス耐性が低いこともわかった。
リヴはR型で、コアに近い思考深度を所有しているが、その深度は安定せず本人にも制御できていないということであったが、ストレス耐性は柔軟で4人の中で最も高いと示された。
各自の脳特性とストレス耐性のテストが終了した後にアンが4人に告げた。
「最後のテストを行います。最後のテストは実践的で、各々が知りたい専門の項目を1つ選択して、会得してください。このテストは個体差が顕著に表れますので、会得期間は1日から数週間と幅が出てきます。尚、期間はストレス耐性と相関関係があると考えられています。」
15
一番手はストレス耐性の最も高いリヴから行うことになり、「不老と長寿」というタイトルを選んで学習カプセルに横たわった。他の3人には選んだタイトルを知ることはできても、その内容まで知ることはできない。ましてやいつリヴの学習がいつ終わるのかは予想もできなかった。リヴの学習が終了したのは7日後であった。
「リヴ、どうだった。」
「うん、面白い内容だったし、理解もできたはずよ。」
「7日もこのカプセルに横たわっていたんだよ。」
「そんなに?僕にはあっという間に感じられた。」
「学習内容を何かに応用できそうかい?」
「学んだのは理論だけだけど、トルースの助けがあれば何か作れると思うよ。」
わかったことは、学習カプセルで学んだ内容は実用的なものであるらしいということだった。
2番目はコアであり、「重力バッテリー」を選択した。学習した日数は12日間であり、カプセルから出たコアは開口一番、「本当に面白いわ。トルースお願いね。」と言った。もちろん、トルースに理論の実用化を頼んだのだが、トルースは、「責任重大だな。」と言いながら「理論の実用化」という何を学ぶのか漫然としたタイトルを選択した。学習した日数はリヴと同じ7日間で、「道具を探さなくては..」と言いながらカプセルから這い出てきた。
「道具と制作用施設はご用意しています。」というアンの言葉でトルースは一安心したようである。
最後はモーセだったが、彼はこう言った。
「わたしには、難しい理論の理解力もないし、トルースのような技術力もないから、ここの歴史の全てを学ぼうと思うんだ。それが、両親のためになればいいし、みんなの役にも立つような気がしているんだ。けどそのための学習日数がどれくらいかかるかわからないから、みんなの準備が整ったらわたしを置いてケイを迎えに行って欲しいんだ。」
異論が挙がる前にアンが言った。
「ここの歴史はおおよそ8万年に渡ります。わたしにも学習日数の予測はできません。」
「わかった。ケイを連れて帰ってきたら、ここの歴史を要約して教えてくれ。」
そして、モーセはカプセルに潜り込んだ。
16
「アンに相談があるんだけど。」とリヴは話かけていた。
「何でしょうか?」
「アンの主の人たちと僕たちのゲノム情報が若干違うから、遺伝子による長寿化はもう少し学習したり、研究してからにしたいと思うの。」
「それは何の問題もありません。」
リヴは『未知』から取り寄せた自分たちとかつてここに住んでいた人類とのゲノム情報を比較していた。その結果、違いが見つかったのであるが、リヴはもう1つ持論としての問題も持っていた。それは、DNAの編集による人体改造にリヴは懸念を持っていたことである。その問題は、学習カプセルによっても解決されていなかった。そのためリヴが制作しようと考えたのは、新陳代謝の促成と基幹細胞による若返り装置であった。その装置は数時間シャワーを浴びるだけで数歳細胞を若返らせて、がん細胞などの体内異物を基幹細胞で置き換えるものであったが、神経細胞を繋ぐシナプスなどの復元はまだ未完といえるものであった。とは言え、ケイの迎えを控える今、その研究に没頭することは叶わなかった。
「トルース。こういう装置を1台、いえ予備のために2台作って頂戴。」
「了解。」とトルースは、制作施設を手足のように使って装置を完成させていくのであった。
リヴは原発のメルトダウンによって撒き散らされた放射線の影響をケイが受けていないか心配しながら、装置の完成を待っていた。
コアの学んだ「重力バッテリー」は、多くの可能性を持っていたが、コアは個人を飛翔させる小型の装置の作成だけに絞った。「まずはお試しタイプよ。」とコアは言っている。
トルースはリヴとコアのオーダーを請け負いながら、「これ役に立つと思うぜ。」と言いながら全身を覆う対衝撃スーツも3着制作していた。その衝撃スーツは理論的にはバズーカ砲の直撃も受け流すようである。さらにそのスーツは完全とはいかないが、全身を透明に近い状態にすることもできた。普通の人が見たらその姿は蜃気楼よりも朧に見えるかもしれない。
最初にリヴが気づいたのだが、嬉しい副産物を3人は受け取ることになった。
「いつの間にか、僕たちテレパシーで会話していない?」
理由はわからなかったが、彼らはテレパシーを会得していたのである。
そして、すべての準備が整って、ケイを迎えるための『未知』の出港の日がやってきた。
17
「さて、作戦をたてようか?」
「作戦?ケイの迎えの?ただ連れ帰るだけじゃダメなの?居る場所はわかるんでしょ?」
「わかっているのはケイの居る座標だけだよ。周囲の状況はわからない。もしかすれば、鉄格子の中かもしれないし..」
「強行突破は?」
「できるだけ日本国と揉め事をおこしたくないよね。」
「密入国して穏便に?」
「それでも問題が起こるかもね。」
「じゃあ、堂々と乗り込むの?」
「そだね。俺たちの持っている技術を利用して何とかしたいね。」
「神様を名乗って行くのは?」
「今の俺たちの持っている技術レベルを考えれば少し無理かも。現代の日本の技術力なら50年か100年後には到達できるレベルの技術だからね。」
「地球外生命体は?」
「どうやって地球に来たのか?と尋ねられたら答えられないし、辻褄の合う話をする自信がないね。」
「地球の超古代文明からやってきたことにしない。」
「それがいいかもしれないね。そもそもの俺たちの技術はそこから貰ったんだし。」
突然、東京湾に浮上した1隻の潜水艦に日本の政府は驚きと脅威を感じた。
「国籍不明の潜水艦を発見。」
「無線で呼びかけを行っていますが、敵意のある無しは未だ不明です。」
....
「超古代文明からの使者として、上陸許可を求めています。敵意はないようです。」
「要件は何だ?」
「一人の人物の引き渡しを要求しています。」
「それは誰だ?」
「コードネームをケイと言っていますので、あのケイかと思われます。」
「あのケイとぐるなのか?」
「それはわかりません。」
「あのケイは役には立つが、危険でもある。そうだな。交渉には見返りが必要だと言ってやれ。」
「若返りの装置1台と、今後必要に応じて技術支援を約束するそうです。」
「約束ははいそうですかと信じられないが、若返りの装置には興味があるな。」
若返りの装置を渡された日本の技術者たちはその検証を行った。
「機能に問題はありません。技術的にこの装置は我らの最低50年は先をいくものです。」
こうして、若返りの装置と引き換えにケイの身柄が引き渡されることになった。
18
「遅かったじゃないか。」とケイが少し不満を漏らした。
「いろいろあってね。」とトルースが答える。
「あのAIウイルスの犯人だと疑われて、鉄格子の中にいたんだ。日本のAIウイルスを撃退してやったのは僕だというのにね。」
「まあ、基地まで少し時間があるから不満は聞いてあげるよ。」
「基地?」
「その話も後でね。」
こうして、ケイを迎えたトルースらはモーセの待つ基地へと出港していった。
基地についたケイは、あのテストを受けた。
「S型です。この型は極めて稀で、深淵な思考能力に加えて、飛躍的なアイディアの創出に優れています。よって、わたしにも詳細な診断を下せません。」とアンは言った。
やがて、モーセの学習も終わり5人はそれぞれにアンの持つ技術を学んだり、独自の研究を行うようになっていったが、時折みんなが集まって会話をすることもあった。ケイは基地に戻ってから日本との連絡回線を1本開き、世界の中で接触を持つ国は日本だけになった。日本からの技術支援の要求は予想をはるかに上回るほど多かったが、それのほとんどは拒絶することになった。それは、世界の中で日本だけが傑出することを避けるためで、傑出した日本の行動を危ういと思ったからである。それでなくとも、日本の社会構造の変化を危惧する5人であったから、時折誰かが「日本に対して強い干渉をするべきではないか」と意見を発することもあった。しかし、
「それはダメだよ。と日本に言ったとしても代わりの案もないし、あったとしてもそれが正しいと誰が保証できるんだい?」という意見が大勢をしめて、
「僕らが今できることは、日本も含めて世界の動向を観察することだけだよ。」という結論となっていった。
2035年に終結されたとされる世界大戦から2132年までの約100年の間、各国は他国との貿易はおろか、国交すら持つことはなかった。物理的な攻撃や侵略よりも他国と接触することによって情報というウイルスに侵されることを恐れて自国を防御することが最優先課題だったのである。国の労働力は、超エリ-トだけに集約されて、その仕事は一般人の管理と技術開発だけになっていた。生産のすべては人工知能が行い、一般人は仕事をしなくとも生活していける。その見返りに政治への参加は実質的に認められず、意見を言う場すらなかった。一般人が消費しなければ資本主義も成立しないから、現在では貨幣という実態もなく言葉すら遺物となっていた。
19
「幸福って何?」と突然リヴが言った。今の世界の多くの人々は何のために生きているのだろうかというリヴの素朴な疑問だったに違いない。
「そういえば、100年前にはそんなことを言っていたな。」
「あら、今でも人は何のために生きているのかって疑問の答えは出ていないわ。」
「リヴは人は幸せになるために生きているって主張したいの?」
「そうじゃないわ。そうじゃないけど、今の社会を見ていると人は何のために生きているのかな?って思うの。」
「待って。そんな難しくて答えの出そうにない問題をこの場ですぐに解決するなんて無理よ。」
「100年前に戻ってこう考えてみようか?『人は誰でも幸福になる権利を持っている』と。権利だから行使できるよね。無理かもしれないけど、仮に行使できると考えよう。さて、どのくらいの人が幸福になれるんだろう?多分、ほとんどいないと思うよ。つまり、ほとんどの人が制約を取り払っても、幸福になる方法を知らないと思うんだ。」とケイが言うと、みんなにしばしの沈黙が訪れた。その沈黙を破って、
「じゃあ、今の世界の今の社会の構造のままでいいの?」
「いいか悪いかはわからないけど、無責任に干渉するのだけは止めた方がいいと思うよ。」とこれまでのように無干渉主義の結論に収まるかに見えたが、
「ねえ、今の世界は民主主義でもなく資本主義でもなく、言ってみれば科学万能主義よね。
そして、僕たちも似たようなものじゃない。これから少し、社会の在り方についても考えてみない?」
「賛成」とか「反対する理由はないね。」などという声が上がった。
「ねえ、僕たちは自由だよね。」と幸福論議からしばらくしてからまたリヴが呟いた。
「自由だと思うよ。」
「そもそも自由ってなぁに?」
「環境から隔絶すること。」
「えっ、どういう意味?」
「例えば、規則や法律を守らないことなんか、最高の自由じゃない?」
「そうすると、罰を受けるよ。」
「もちろん、その覚悟は必要だわ。」
「それなら、社会から離れて一人で暮らした方がいいんじゃない?」
「多くの人たちはそれができないよね。できることがいいことか悪いことかわからないけど...」
「すると、社会の一員として暮らすためには、いくらかの不自由という代償が必要になるね。」
「一般論になるけど、社会との折り合いが必要ということかな。」
「でも、歴史を見るとクーデターとかあるよね。」
「社会と折り合いを付けられない人たちが、たくさんいたんだろうね。」
「どっちの人たちが正しかったんだろう?」
「それはわからないな。ただ、次の社会を作った人たちの力が強かったことは事実だろうね。」
「僕は、自由を決める個人の意思が大事だと思うんだ。その意思の集まりが社会だと思う。力で社会を作っても、いつか必ず崩壊するよ。だから、意思表現の剥奪が最大の悪だと思う。」
「昔のマスメディアとかがいいの?」
「あれは個人の意思とは無関係だと思うよ。」
「どうすればいいの?」
「わからない。考えれば考えるほどわからなくなるね。」
と、取り留めのない会話が、今後続いていくことになるが、彼らがどのような結論に達するのか?誰もわからない。