ホットケーキ続編【湖山編】後編
14.
「吉岡くーん、悪いけど向こうの機材もお願ーい!」
まだこの現場に不慣れな吉岡くんに指示を出す湖山は、普段本当に大沢くんに頼りきりだったことをまざまざと思う。他に漏れていることはないかあちこちに目を配りながら片づけをしている湖山のどこかいつもと違う雰囲気を察したのだろうか、菅生さんは湖山のほうへやってくると中腰になって話しかけた。
「元気?」
「そうでもない。」
「どしたの?」
「ちょっとイライラしてる。」
「そうなんだ。」
「分からない?」
「分からないね。」
「飯食いに行かない?」
「今日?」
「うん」
「今夜?」
「そう。」
「ふーん。いいよ。」
「友達でいましょう」とバッサリ振られたけれど、最近これでよかったな、とよく思う。菅生さんは恋人にするよりも友達の方がずっと居心地の良い人かもしれない。一度お昼ご飯を食べながら色んな事を話してみて、もっと話したいなと思った。それは、一度は恋愛感情を抱いた人の事をもっと知りたいということもあったけれど、単純に、話し足りないと思える程有意義な時間だったと思えたからだ。それから月に一度XX社に行く時には連絡をしてランチを一緒に取ったり、近くまで行ったり時間的に都合がよければちょっとお茶を飲んだりして、大人になってからでも、そして妙齢の(と言ってもいいはずだ。二人とも独身なのだし)男女の間にも友情は芽生えるものだな、と変に感心したりする。
菅生さんがずっと気になっていたというマクロビオティックのレストランへ行くことにした。ちょっとオシャレなカフェが夜もやっていますという雰囲気で、女性客ばかりがおしゃべりに花を咲かせている。
「で、どうしたって?」
席について居住まいを正しながら菅生さんが問う。
「イライラしてる。」
「うん。だから何でイライラしてるの?なんか理由があるんでしょ?」
「大沢が」
テーブルの上にランタン、といった感じのランプがユラユラと揺れている。これは電球にこういう仕込みがしてあるからなのだろうか?
「大沢さんがどうしたの?」
菅生さんがテーブルの上で手を組む。小さなテーブルが少し揺れて、テーブルの上のランプがチラチラチラと灯りを揺らす。
「結婚するって」
ランプの光が菅生さんの腕時計のフェイスに映っている。蛍みたいだ。ざわめいた店内で湖山と菅生のテーブルだけが静かだ。菅生さんは腕を組んだ姿勢のまま湖山を見守っている。
「結婚するんだって。」
湖山はもう一度繰り返す。
菅生さんは何も言わない。目だけで「うん、聞こえている」と答える。
「それで・・・。それで、その事を言ってくれなかった」
組んだ腕を下ろして胸の前に置きながら、菅生さんが溜息に似た深い息をする。ランプが揺れている。彼女の息が掛かったのだろうか。
15.
「よく噛んで食べるのよ。それが大事なの。」
「分かったよ・・・。」
小さな俵型のご飯は、一方は赤っぽく、一方は黄色っぽい。この時季に獲れる山菜なのかなにか小さな葉のついた茎のようなものが和えてあったり、西洋野菜のミニチュアのような野菜、ゴマ豆腐やら、なにやら、小さく、可愛らしく盛り付けられたプレートは明らかに女性向きだ。家庭で使うお箸よりも少し長めの箸でひとつひとつを味わって食べてくれろという聞こえぬ声が聞こえてくるような。
可愛らしい器に入ったスープは味噌汁だ。一口飲んで少しホッとする。
「大沢さんが・・・」
味噌汁の器を慎重にトレーに置きながら菅生さんが言う。
「結婚する事を、あなたに話してくれなかった。」
長い箸を器用に使って俵型のご飯を割り、口に運びながら問う。
「それで、苛々している・・・」
「そう。」
湖山も俵型のご飯を割る。大きめに割ってぱくりと口に入れる。菅生さんに言われたとおりよく噛む。少し入れすぎたみたいだなと思いながら、もぐもぐと噛み続ける。甘い。
「言ってくれなかったから、苛々してるの?」
「うん。」
「結婚することに、苛々してるんじゃなくて?」
湖山はうっかりご飯を飲み込んでしまう。
「は??」
菅生さんは和え物をはさんで口に運びかけ、それをもう一度お皿にもどして湖山を見つめた。
「違うの?」
「大沢くんが結婚するから苛々してるんじゃないのかって?」
「そうよ、違うの?」
「何言ってるんだよ。そうじゃないよ、もちろん。俺が苛々してるのは、大沢がどうしてそんな大事な事を俺に話してくれなかったのかってことだよ。なんで大沢くんが結婚するから俺が苛々するの?結婚して欲しくなかったのにってこと?そんなことない、結婚したらって言った事もあったくらいだよ。・・・なんで言ってくれなかったんだろう、そこだよ。」
「言いたくなかったからに決まってるじゃない。」
菅生さんは和え物を噛む。
「何で言いたくなかったの?」
菅生さんに訊いても仕方がないのについ訊いてしまう。
菅生さんは和え物を噛み続けている。湖山も和え物に手を付けてみる。
ようやく噛み終わった菅生さんはなんの答えだか忘れたくらいのタイミングで言う。
「知らない。」
16.
「大沢さんには大沢さんの然るべき理由があって、湖山さんには言いたくなかった。だからあなたには言わなかった。」
「どうしてだろうな。」
「もし湖山さんが結婚することになったら、大沢さんに言う?」
「言うと思う。」
「言えない理由があるとしたら、どんな理由?」
「さあ・・・見当もつかないよ・・・。」
「人生において、すっごく大事な決断だよね、結婚って。」
「うん、そうだよな・・・。それを言いたくないって・・・。俺って大沢くんにとって何だったんだろうって思っちゃうんだよな。だから苛々する。」
食器の音、低い声で話すざわめき、時折聞こえる笑い声。噛み締めると甘い薬膳料理が胸のどこかに染み入るみたいだ。知らない間にこんなにも身体が疲れた、と言っていたんだろうかと思う。そして、そんな気持ちを察するように菅生さんは箸を置き、労わるように、そして彼に何かを問いかけるように言う。
「大事な人だから、寂しかったんだよね」
そうか・・・。
寂しかったんだ・・・。
自分だけが彼を大事に思っていたみたいで。
自分の何もかもを彼にさらけ出しているのに、大沢は自分に対してそうではなかった、ということが。
ゴマ豆腐にのったちょびっとの山葵が優しく鼻につんとした。少し泣きたいような気がするけれど、辛くて涙が出るというほどの辛さではない優しい山葵が今の湖山には残酷に思える。
菅生さんは箸を手に取り、再び何かを噛み締め始める。静かに重々しい。湖山に何かを言おうとして、言葉を選び、噛み締めて、噛み砕いて、そして飲み込む。言えない何かを瞳に宿したまま、菅生さんは静かに食事を続けている。
テーブルの上のランプが揺れている。テーブルの下に置いたバスケットの中で、何気なくカバンに放り込んだ湖山の携帯電話が鳴っているのに、湖山は気がつかない。その電話は大事な人に大事な事を言えなかった理由を、呼び出すベルの音を数えながら探っている男が掛けているのだった。
17.
「今日はありがとう。」
「何のお役にも立たなかったと思うけど・・・?」
「いや、話を聞いてもらっただけでラクになった。」
「苛々してない?」
「今はもうしてない。と思う。」
「マクロビオティックも良かったのかもよ。」
「うん、そうかも。なんとなく、体にいいことした気がして気分がいい。」
「私はね、大沢さんのように湖山さんの小さな変化に気付いて何かをしてあげられるほど気が利いた人間じゃないし、そこまで湖山さんのこと知っている訳じゃないけど、言ってくれたらいつでも話を聞くよ。それくらいはできる。」
「なんでここで大沢が出て来るんだよ・・・また苛々しちゃうでしょ。」
「どうせ考えちゃうんでしょ、私が言い出さなくたって。」
「・・・。」
「少し落ちついたんじゃなかったの?」
「うん・・・。」
「元気出して。あの大沢さんが黙ってたんなら、本当にすごく大事な、もっともな理由があるのよ。絶対に。」
すごく、大事な理由・・・?
もっともな、理由・・・?
なんだよ、それ。分からないよ・・・。
体に優しい食事をして、もっともだと思うことを言ってくれる女友達に話を聞いてもらって、訳もなく苛つくような気持ちはなくなったけれど、スッキリするほど気持ちを切り替えられるはずはなく、湖山は何度も昼間のやり取りを思い出す。
『俺に、言ってないこと、あるよな?』
『有りますね。』
『なにソレッ・・・?』
『なんで怒ってるんですか?』
大沢は、あんな奴だったろうか。あんな風に、挑むみたいに、湖山に言い返したりするような、そんなところがあったんだろうか。今までも気がつかなかっただけだろうか?こんな事があったから気になるだけなのかもしれないけれど。
そういや、電話するって言ってたのに・・・。駅の階段を下りながら、湖山はデニムのポケットを探る。携帯どうしたっけ?と記憶を辿りながらカバンの中をまさぐってやっと探し当てた携帯電話の着信履歴に「オオサワ」という文字が赤い。
「ごめん、遅くなった。電話貰ってたのに・・・」
「今、どこですか?」
「今、もう駅。・・・。良かったらうちに来ない?」
「・・・。」
「大沢くん?」
「はい。」
「ウチに・・・」
「いや、それは・・・・。じゃ、明日にしましょ。今日はもう遅いし。明日、予定はどうですか?俺は事務所なので湖山さんも事務所なら昼飯とか・・・。」
「分かった。じゃ、明日の昼。」
「ええ。」
「何となく言うチャンスを逃しちゃった」とか、「いろいろ話したかったけど時間が足りなかった」とか、ただ「ごめん」とかだけでも、何か言う事あるんじゃないのか?と湖山は思う。それで電話が切れない。だけど、大沢もまた、湖山が何か言いかけるはずだと思っているのか、電話を切ることができずにいる。
「やっぱり・・・」
大沢の声が受話器の向こうから二人の沈黙を破る。
「え?」
「やっぱ、俺、そっち行きます・・・。」
「あ・・・あぁ、うん。分かった。」
細い指先で伸びた前髪をかき上げて湖山は額に触った自分の手が案外ひんやりしていることに気付いた。昼間の熱気がなかなか去ろうとしない都会の夜道を歩いてじっとりと汗をかくほどなのに。寝苦しい夜がまだまだ続く。宇宙ステーションのようにそこだけが明るい、夏の虫がジリジリと音を立てる酒屋の入り口でふと足を止める。湖山は店じまいを始めたその酒屋へと吸い込まれていった。
18.
朝の光が眩しい。湖山は、ソファの上で目覚めた。ギシギシする体を起こして、昨晩呑んだバドワイザーの缶が二本テーブルの上に置いてあるのを見ていた。ソファの下に一本あるのは飲みかけで寝てしまったのだ。「倒れてなくてよかった・・・。」湖山は飲みかけの一本をテーブルに乗せる。
テレビが朝のニュースを流している。体のあちこちが痛い。腕を伸ばしたり、腰に手をやってぐっと反ったりして、座ったまま身体を縮めたり伸ばしたりする。
昨日、大沢が来るはずだったんだけど・・・。携帯電話を探す。テーブルの上、ソファの上、ソファの下・・・テーブルの下に見つけて着信を確認する。湖山が家に着いて程ない時間に何度も掛かってきている。そして真夜中に一回。気付かなかった。そんなに寝入ってたのか・・・。
玄関の前で立ち尽くす大沢を想像した。インターホンを鳴らして、携帯電話を鳴らして、湖山とつながらない、大沢はどんな顔をしてドアの前にいたんだろう。どれくらいの間、そこにいたんだろう。携帯を握り締めてドアの前を去っていく大沢を脳裏に描いた。(待って!待ってくれ!!)
朝早い時間だけど掛けても大丈夫だろうか?寝てるかもしれないけど・・・。起こしちゃうと可哀想かな・・・。少し躊躇った後、発信ボタンを押す。
携帯電話を持っていない方の手を反対の肩越しにやって体を捻ると気持ちよく筋が伸びた。テレビは天気予報をやっている。手を解きながら晴れマークや雷のマークが並ぶ表を上からなぞって「東京」という文字を見つける。今日の天気は・・・。
ベルが鳴り続けている。
大沢は出ない。
もう一度掛けなおす。
携帯電話を反対に持ち直して、反対の筋を伸ばす。東京の天気は・・・。九州・・・沖縄・・・今日の天気はどうなんだろう・・・。ベルは鳴り続けている。留守番電話サービスにつながる、と機械のオペレーターが言う。湖山は何も言わずに電話を切る。
新製品の浄水器のCMを流し始めたテレビを横目に、湖山は携帯電話を持って浴室へ向かった。洗濯機の上に携帯電話を置いてシャワーを浴びる。もう、どうでもいいや、という気がした。苛々した気持ちも寂しいような気持ちも今朝はもうない。大沢が言いたくなかったんなら、それでいいじゃないか、と思う。
何も変わらない。大沢と一緒に仕事をすると捗る事も、一緒に飯を食いに行くといつもすごく楽しい事も、自分にはもったいないくらいいつも気を使ってくれる大沢の居心地のよさも、大沢が別の人間になるわけではないのだから。
髪が伸びた。バスタオルを取る湖山の素足の甲に、白い首筋に掛かった襟足の毛先からポタポタと水滴が落ちている。洗いざらしたタオルは夏の朝には気持ちがよかった。
19.
「何はともあれ、おめでとう。」
昼の定食の数種類の中からできるだけ体に良さそうなものを選んで注文する。大沢は相変わらず揚げ物の定食を選んだ。こんな時に、大沢は若いんだな、と思う。事務所から定食屋までの5分弱の道のりを黙って歩いて来た。大沢はほんの一歩か半歩湖山の後ろを歩いていた。朝晩涼しくなったけれど昼間はまだ真夏の名残を残していた。
大沢が湖山の家に行くと言った夜、湖山はアルコールを飲んで寝入ってしまい、朝大沢に電話をかけたけれど通じなかった。大沢は前の晩、翌日は事務所だと言っていたので当然会えると思っていたのに、ピンチヒッターで撮影の仕事が入ったらしく事務所でも会うことができなかった。それから2週間、二人は入れ違いで事務所でも撮影でも会えなかった。大沢は今、アシスタントの仕事とカメラマンとしての仕事と半々になってきているようだった。
「あの夜・・・・ごめん。本当に。俺、呑んで待ってたら寝ちゃったみたいで・・・。本当に申し訳なかった」
「いえ・・・。いえ、それはぜんぜん。もともと湖山さんちに行くつもりなかったんだし・・・」
「え?でも、来るって言ってたじゃない?」
「ええ、ええ、そうです。だから行ったんだけど、湖山さんに会えなくて、まぁ、ちょっとホッとしたんです」
(そんなに会いたくなかった?)
多分そんな顔をしていた。湖山はあまり顔に出す方じゃないけれど大沢が分からないわけがない。
「何て・・・・。何ていって説明したらいいのか、分からなかったんです。だから、会って話したかったけど、会えなかったら、説明しなくて済むっていうか・・・。ごめんなさい。・・・本当は今も・・・。」
「うん。いいよ、それは、もう。俺も大人げなかった。ほら、大沢くん、俺が個展の準備一人でやってたとき、水臭いって言ったことあったでしょ?俺もね、なんで大沢に言わなかったんだろうって思ったよ。今も分からない。ただやっぱり、水臭いじゃんかって思ったらあの時はなんか、なんだよっっ!って・・・頭に来るっていうか、イラついてさ・・・。でも、落ち着いて考えてみたら、ま、いいじゃんって思った。そういうことも、あるんだよな。うん。だから、ほんと、ごめん」
「それとは・・・」
大沢はテーブルの上に組んだ自分の手を見つめている。ぎゅっと握り締めた手は、湖山の手よりも一節は大きいはずだ。湖山はカメラを構えた時の大沢の手を思い出す。最近その姿を見ていないなあ、とぼんやり思う。
「それとは、違うんです。俺のは、」
「ん?何が?」
その時、二人が頼んだ定食が運ばれて来た。夏が終わる。夏の最後の蝉が鳴いている。今夜も、肌寒いのだろうか。
20.
最後の蝉の声を聞いたのはいつだろう。朝晩冷える秋の入り口あるいはもうその入り口から少し中に入っているのかもしれない。、とても久しぶりに大沢と撮影現場で一緒になれた。
「飯、食いに行かない?」
と、湖山が話しかけると、大沢は一瞬なにか戸惑ったような表情をした。かつてこんなことがあっただろうか。
(そうか・・・結婚するんだ)
もう、こんな風に気軽に誘えなくなるんだろうか、と寂しくなる。
「用事があったかな・・・」
無理させないように断りやすいような言い方を考えたけれど気の利いたことは思いつかなかった。また自分だけが取り残されてしまうような、そんな気がする。そして、そんな下らない感傷じみた考えも、多分大沢は全部お見通しなのだ。
「いえ、ないです。」
いつものようににっこり笑っている大沢をみると、そんな感傷に浸った自分は愚かしく、多分なんでもない些細な事に神経質になっていただけなんだろうと思う。
スタジオを出ると、秋のつるべ落としとはよく言う空が暗く、少し肌寒いくらいの空気に夜の始まりを感じる。湖山はパーカーのジッパーをぐっと衿元まで上げたのと大沢が振り向いて「寒くないですか?」と言ったのが同時だった。
「うん、大丈夫」と答えた湖山を、大沢は少し疑わしそうに見ている。湖山が歩き出すと、大沢は追いかけるように歩きだした。
駐車場に向かいながら訊いてみようか、でも、訊かなくてもいいか、どうしようか、どうしようかと湖山の頭の中を巡っているのは、さっき誘った時の一瞬の間のことだった。もしかしたら本当は、彼女と何か約束があったのじゃないか、ちょっとしたことでも、たとえば、「今日早く帰るよ」って言ったとか・・・。
もう、一緒に住んでいるんだろうか・・・?
湖山には関係ない。そう、関係ない。行く、と言っているのだから、大丈夫なのだろう?
「マ・ク・ロ・ビ・オ・ティ・ッ・ク」
湖山は注意深く発音した。
「って、言うんだって」
先日菅生さんに連れて行ってもらった体にいいレストランに大沢を連れて行こうと思っていた。揚げ物もいいけど、体に気を使うのも大事な事だ、老婆心、という奴。
大沢は少し怪訝そうな顔をしている。湖山は少し得意な気持ちになってここぞと年上らしい説教を試みたが、大沢が急に大きな声で笑う。
「マクロビオティック、知ってますよ。常識でしょう?なんで今更そんなこと・・・。年、気にしてるの?ねえ、湖山さん、マクロビオティックはね、月に一回とか、一週間に一回とか、そんなんじゃ、効き目はないんだよ、分かってる?」
「そうかもしれないけど、たまに気を使うだけでも十分じゃないか・・・。大沢くんさ、ちょっと揚げ物とか多すぎると思うよ。」
「体が欲しがってるの、まだ、若いから。胃がもたれるようになったら考えます。湖山さんだってまだそんな年じゃないでしょう?あ、それとももたれちゃうのか?」
「そういうことじゃなくて!結構美味しいよ。菅生さんが、教えてくれたんだ」
「へえ・・・」
そうだ、あのレストランは、本当は、大沢が結婚すると知った日、厳密に言うと、結婚する大沢がその事を教えてくれなかった、と知った日、菅生さんが連れて行ってくれたレストランだった。体に必要なものを噛み締めながら、自分の苛立ちを吐露した日。
大沢、結婚するんだ・・・。
重たい機材を入れたバッグを背負っている大沢の背、肩。いつもそこにあった頼りがいのある湖山のアシスタントは、もう、湖山の為だけに重い荷物を背負う訳ではない。別の誰かの為に、そして、大沢自身の為に、あるいは、彼が守り続けると決めた誰かの為に荷物を背負う。
暗闇の中でみると妙に大人びた大沢の顔に湖山は吸い寄せられるように感じる。規則的に揺れる前髪。いつもは柔和そうに下がっているのに、こうしていると意志が強そうな目と眉・・・。
そして不意に大沢が振り向いて湖山は急に現実に引き戻された。
「駐車場、あるのかな、その店?」
大沢の声が夜の始まりの中に浮いている。その質問の内容をもう一度理解し直しながら答えていく湖山の声はいやにぼんやりとのんびりとしていた。大沢は車のキーを開けて、湖山が乗り込むのを見守っている。後部座席に重そうなカバンを積んで運転席に乗り込み、シートベルトを締めた手を少し止めた。
「湖山さん、スーツは着ないんですか?」
大沢が唐突にそんな質問をする。そして、ハンドルに少し寄りかかるようにしてエンジンを掛けた。
「スーツ?」
スーツを着た最後の日はいつだったかな・・・。と考える。あぁ、一昨年くらいの知り合いの結婚式。そうだ、結婚式だった。次にスーツを着るのは、大沢の結婚式だ。
街路樹の隙間に白く三日月が見えた。見えては、隠れ、隠れては見えた。湖山は月と追いかけっこをしているような気持ちになる。街路樹を抜けて、都会の景色のどこかに上手く隠れてしまう月を見失うまでは追いかけていようと思った。
21.
「なんか、スッキリしない」
「何が?」
「なんつーか、こう・・・」
「モヤモヤする?」
「うん。」
「これ、どう?」
「あー・・・いいんじゃない?」
菅生さんが新しいスーツを買う、という。11月の結婚式に呼ばれているので、会社にも着られそうなちょっとよいスーツを買うので美味しいものでも食べながら出かけよう、という。これは、端から見たらちょっとしたデートのような気がするけど、湖山はもうそんなことは気にしていない。
「もっと綺麗な色の方がいいと思うけどね、僕は」
「うーん、でもそうすると会社に着ていけないじゃない?」
「なんで、着ていけばいいじゃん?」
「いやなの。」
「そう?あ、そうだ、あのワンピース良かったじゃん、玉虫色の。上山さんの結婚式の時着てた奴。すごい似合ってたけど。」
「いつもあれなんだもん。」
「ふーん。別にいいと思うけど。」
「それに寒いよ、あれだと。」
「はいはい。とにかく早く済ませようよ。腹減ったし」
「あぁあ、やっぱり男と来るんじゃなかったね・・・どうしようかなあ、こっちにしようかなー」
もう直ぐ大沢が結婚する。
白いご飯を美味しそうに食べる大沢を思い出す。そう、あいつは結婚が早いだろうなあと思ってた・・・。鍋、焼肉、酒、うどん、ラーメン。食べながら笑ったかと思うと真剣になる大沢。大雑把だなと思うほど寛容かと思うと、どうしてだか妙な事を真面目に考え始めたりする。そういう時、急に箸が止まる。最近、あいつと飯食ってねえなあ・・・。
いつも冗談ばかり言っていつになったら学生気分が抜けるのかと思う位軽いくせに、そうかといえば7,8年のキャリアをしっかりと見せ付ける事もある。こんなに大人になったんだと思う一瞬がある。
『こんなんなるまで・・・!!』
そう、そんな風に叱られたこともあった。
あの夜は、夜中にホットケーキを焼いてくれた。食べられなかったけれど。そう、真っ黒になったホットケーキ。
『湖山さんが食いたいって言ったから』
それから・・・。菅生さんに振られた日、何も言わずに側にいて、ホットケーキが食べたいって言ったら、得意そうな顔で綺麗なホットケーキを焼いてくれたな・・・。
『彼女にやってやれよー』
『やってあげますよ。いつかね。本番前に練習しただけですよ・・・』
ホットケーキ、作ってあげたのかなあ・・・?
『結婚しないの?』
『えー?・・・』
少し困ったように微笑む大沢を思い出す。そう、彼はたまにそんな風に微笑むことがあった。妙に大人っぽい大沢の意外な一面。
「湖山さん?」
「・・・あ?」
「スッキリしないのね?」
「・・・うん。」
「ご飯食べにいこ。私もご飯食べながら考える。」
22.
高層ビルの2階にある洋食屋は価格的に入りやすいのだろうか。若いカップルが多かった。菅生さんはメニューを決めるのが早い。湖山はなんだか自分が何を食べたいのか分からずに、メニューを端から端まで眺めることを何度か繰り返した後、結局菅生さんと同じものを頼むことにした。
「相当病んでるのね」
と菅生さんが苦笑いをする。
「え?なんで?」
「メニュー迷ってたでしょ?」
「あ?あぁ・・・。うん、なんか腹は減ってるんだけど、ね。」
「湖山さんらしくもない」
「そうかな?」
「そうよ。」
ヨーロッパの町並みにぽつんとあるような食堂を模したその店は、窓に古びた木枠があり、ガラス窓も少しゆがんだような感じで、ショッピングを楽しむ人たちが行き来する往来を見せている。子連れやカップル、女子学生らしい人たちが笑顔を見せて通りすぎるのを、湖山と菅生は同じような表情をして見つめていた。
「どっちにするの?」
「なにが?」
「スーツ」
「そうねえ・・・どうしようかな・・・、やっぱり紺色がいいかなあ・・。黒ってなんとなく抵抗があるの。」
「デザインも紺色の方が地味だったよね。でも生地が良かった。」
「うん。そうなのよね。やっぱり紺にしようかな・・・。」
高校生くらいに見える男の子は、明らかに彼女のものだと思われる大きいバッグを肩に提げて歩いている。彼女は彼の腕を取って少し弾むように歩いているのが見える。
「大沢さんの彼女に、会ったことある?」
「え?いや、ないよ。」
「ふーん。」
小さな男の子がかけって父親の手にしがみついた。母親がその後を小走りで追いかけていた。
「なんで?」
「ん?どんな人なのかなって思っただけ。可愛い人だろうな。そういう人が好きそうだよね」
「そうだね。そんな気がするね。あいつ、面倒見がいいから」
「うん、ほっとけなくて、色々やっちゃうタイプだよね。」
「そうそう、そういうタイプ。そういう・・・」
レジ袋を持って立っている大沢。冷蔵庫に入っていた野菜ジュース、ゼリー、プリン、お粥のレトルトパック・・・。湖山のベッドの横の床で長い手足を折り曲げて寝ていた姿、楽しそうに機材をしまう大沢。なぜなのか、湖山の頭の中で、湖山の知る限りの大沢が動き始める。
23.
「大沢くんがさ、真っ黒焦げのホットケーキを作った事があったんだ」
「うん?」
「個展の準備で寝不足が続いて飯とかうまく食えなくて、ぶっ倒れた事があってさ、あん時ってXX社の撮影じゃなかったっけ?あ、違うな。とにかくそん時さ、大沢くんがさ・・・」
「うん」
「大沢が・・・。ずっといてくれてね。夜中にね、俺が寝言でホットケーキを食いたいって言ったんだって。そんでね、あいつさ、真夜中にコンビニまで買いに行ったけど見つけられなくて、ホットケーキミックスを買ってきて作ってくれたらしいんだ。」
「へえ・・・」
「だけど作った事がなかったみたいでさ、焼いてみたら上手く焼けなかったという訳。真っ黒のホットケーキが台所に積んであって。笑ったよなあ・・・」
それは、一年も経っていない、この年の春先の話だ。柔らかい光が入るキッチンで、黒焦げの円盤を見たときの衝撃。白いコンビニのレジ袋を持った大沢が「ホットケーキの成れの果て」と呼んだ黒焦げの円盤。
「・・・・そうなんだ。菅生さんがね、ホットケーキを作ってくれる夢を見たことがあったんだ。」
「私が?」
「そう、菅生さんのこと、屋上で見かけて恋に落ちて、すぐ。なんでホットケーキなんだろうね。多分、おにぎりとかじゃダメなんだよな。おにぎりとかだと腹を満たす為のものでしょ?ホットケーキは、違う。心を満たしてくれるもの。そういうものを手づくりしてもらう、家族ではない、誰かにね、そういうことだったのかな。」
そうか、そういうことだったのだ。いつも菅生さんに話していると、自分と問答をしているような気がする。そうだ、そういうことだったんだ、と思う。
「そんで個展があって、菅生さんに振られて、もう呑んでやる~~~~って呑んで・・・」
「その節はどうも」といって菅生さんは笑う。
「どうもどうも!!一応ショックだったんだよ。一応本気だったからさ。」
「うんうん。ありがとうね。」
「でもスッキリしたんだ。本当に。モヤモヤしてたから。好きな気持ちがこう、心の中にモヤモヤしてたから。」
「モヤモヤ、ねえ・・・。」
「あんときも、大沢くんがずっといてくれて。朝、ホットケーキを食いたいって言ったら、ホットケーキ、作ってくれたんだ・・・。」
「黒焦げの?」
「いいや。いや・・・そんときは・・・」
『ほら、出来た』
『美味いな・・・』
『まあね』
24.
「とられちゃうような、気がしているの?」
「え?」
「お嫁さんに、大沢さんを・・・」
「え?どうして・・・?そんなこと、ない」
「そんなふうに見えるけどな?」
「いや、なんで、そんなことないよ」
「モヤモヤしているのは・・・」
そこまで言って、菅生さんは、可も無い不可も無いオムライスを食べ終わると、丁寧に口元を拭いて湖山の方に真っ直ぐに向き直った。
「あのねえ、湖山さん。いいことを教えてあげよっか?」
「うん。」
「湖山さんはきっと、大沢さんのことが好きなのよ。つまり、恋愛感情にかなり近い気持ちで。」
「・・・ッ、なッなに・・・」
「ついで、といっては何だけど、もうひとつ、大事な事を教えてあげるね。」
菅生さんは財布の中から一枚のカードを取り出す。車の免許証だった。そこには菅生さんのフルネームと、菅生さんの生年月日、本籍が書かれている。
「ここ、見て?」
「・・・・・?え・・・!?」
「ね?」
「性別にこだわっている私が言うのもなんだけど、多分、本当は性別なんて関係ないのよね。心が惹かれあう時って、男だからとか女だからとかそんなくだらない理由で惹かれるわけじゃないのよ。もちろん、人間は動物だから、<本能>というものがあって、子孫を残したいとか、フェロモンを感じるとか、いろいろな要素が重なり合った所で恋に落ちたりする訳だけど、おにぎりよりもホットケーキが心を満たすみたいに、心や身体のどこか欠けた部分が求めるものは、単純に命を繋ぐためだけなんかじゃない、そうでしょ?」
力強い瞳で菅生さんは湖山に問う。
「ホットケーキを、食べたかったんでしょ?」
菅生さんの瞳に、自分が映っているのが見える。
「ホットケーキを、焼いてくれた人がいた。いつもあなたの側で、あなたが欲しいと思うときにホットケーキを焼いてくれた人がいた。」
そうだ、その通りだ。
「あなたが今どうして欲しいのか、何も言わずに、何も訊かずに、側にいてくれた人がいた。大沢さんは、湖山さんの心を満たしたホットケーキなんでしょう?」
25.
運ばれてきたばかりのセットデザートのパンナコッタがふるふると揺れている。湖山の心もまた、揺れていた。
大切にすることの意味が分からなかった恋があった。時を重ねることで繋いできた恋があった。いつも自分の夢ばかりが彼を駆り立てて、自分のすべてをそこに費やして生きてきた、この人生の半分以上も。そうやって、きっと数えたら失ったものの方が多いくらいだけれど、今こうして、自分らしくいられるなら、それでいい。
自分らしくいることを守り続けたいと思う、そのことを教えてくれた人。
自分らしくいたい自分を、支え続けてくれた人。
そしてこんな自分を支え続けることが夢だと、そう言ってくれた人。
『混ぜて焼いて終わりなんて、そんな簡単な訳がない。そうなるには、色々あるんですよね。だから、美味いんですよ、ホットケーキって』
いま、大沢に会えたら、伝えたいことが沢山ある。言葉にならない、いくつものいくつもの想い。これまでの自分とこれからの自分とが混ざり合っていまはまだ上手く焼く事ができないけれど、いつか上手に焼く事ができたら、大沢に食べさせてやることができるだろうか。あの時、彼のホットケーキに救われたように、自分の焼いたホットケーキが、彼を優しく癒す日が来るだろうか?
せめて、大沢は特別だった、と一言言えたなら、と思う。彼が永遠に誰かを守り続けると誓うのだとしても、湖山にとっての大沢がそこにいてくれることが何よりもありがたかった。人はこの道の先へ進んで行かなければならないけれど、いつまでもそのままに、失いたくないものがある。湖山にとってそのひとつが大沢なのだと、湖山はいまならはっきりと分かる。
「ナンテコッタ」
今日の菅生さんは有名な画家が描いたマリア様のようだ。
「気付いたか、愚か者めが。」
下世話なマリアがスプーンをくわえて微笑んでいる。
26.
紺色のスーツは思ったほど地味すぎもしなかった。華やかなワンピースの中にいると菅生さんのスーツ姿がかえって色っぽいくらいだな、と湖山は思う。
ブーケトスに備えた若い面々が群がるのを見守る二人は物静かに、何かを諦めたことすら忘れた、という顔をしているけれど、本当はそこにいる誰よりも諦めていない。それを、この教会に立つマリア様はきっとご存知だ。
教会の扉が開く。真っ白いタキシードに長身を包んだ大沢が真面目な面持ちで花弁とライスシャワーの中に一足踏み出した時、湖山はありったけの声で叫んだ。
「オーサワーーーーーー!!!!!!!!!
おめでとーーーーーーーーーーーーーおぉ!!!!!」
湖山を探す目が不安そうに細くなる。眉根が深くなって、どこか、憤ったような表情で大沢は声が聞こえた方を必死に湖山を探しているのに見つけることができないようだった。
湖山は大沢が自分を探しているのを知っていて手を挙げたりもしない。自分を探している大沢を見ていたかった。
花嫁が投げたブーケが、大きな弧を描いて、わぁと一際大きな歓声が上がる。湖山と菅生さんはブーケが飛んだ空を見ていた。もう直ぐ冬が来る。
「行こうか」
「そうね・・・」
大沢が帰ってきたら、この際はっきり言っておきたい事がある。
夢があるんだよ。ずっといい仕事をして行きたいから、大沢くん、ずっと俺の助手やってよ?
終わり