ホットケーキ続編【湖山編】 前編
1.
「ほら、出来た。」
キツネ色をしたホットケーキの上でバターがとろりと溶けて滑っている。湖山は白い皿を受けとり、カウンターの上で半分に、また半分にちぎって、一口かじりつく。まだ寝癖のついた髪が朝日に当たって柔らかい茶色に透けている。
うまいな。
家族以外の誰かが、自分の為に焼いてくれたホットケーキを、いつか食べることがあるんだろうか、と思う。菅生さんのホットケーキは食べ損ねたけれど、いつか・・・。泣きたいけど泣かない。もう39歳だし。
失恋したなあ、ちゃんと、失恋した。やっぱり恋だったなあ、と思う。恋に恋した、ということなのかもしれなくても。
食器棚に寄りかかって湖山を見守っていた大沢が身体を起こして湖山に手を伸ばすと、大きな手で湖山の頭を撫でた。少し長めの前髪が額に掛かって逆光になっているので湖山からは表情が見えない。紺色のVネックのセーターが大沢が手を挙げたときに少し首元でずれると男性らしい首筋があらわになる。
「ね、湖山さん。また、いい出会いがありますよ、きっと。」
そうね、また、次の出会いがある。家族以外の誰かが自分の為に焼いてくれたホットケーキを、いつか食べてやろう。もしかしたら自分が焼いてやってもいい。
(ん?あれ?)
と一瞬何かが引っかかる。ホットケーキの一口が思いのほか大きかったのか、胸に詰まったような気がする。
大沢が二枚目のホットケーキを焼いている。フライパンを睨みつけている。その顔は、暗室で印画紙を薬品につけている時の顔だと思う。こいつは意外と負けず嫌いだ。出来ると思っていたことが出来ないと分かるといやにムキになるところがある。湖山は二切れ目のホットケーキに齧りつく。そして、大沢は割と研究熱心だよな、とも思う。じゃなければ湖山のアシスタントをこれほど上手にできるわけもない。そんなことを改めて思う。
視線に気付いたのか、ホットケーキを睨みつけていた大沢が一瞬目を離して湖山の方を見る。何?という顔をする。
「うまいよ」
湖山は言う。大沢はホットケーキをひっくり返しながら今度はこちらを見ないでにっこりする。
「まあね。」
と言った口元がとても得意げだ。
ひっくり返し終わった後、湖山を見てもう一度笑う。
湖山は二切れ目の最後の一口を口に入れた。
2.
「じゃ、火曜日の片付け、俺も行きます。月曜の火曜だと無理かなあ?とにかく希望だけ出してみます。湖山さんがいないんだし、大した仕事は無いと思うから大丈夫だと思うけど。」
モッズコートの前のジッパーを上げてポケットに手を突っ込み、大沢は少し首を傾げて考えた。
「うん、でも、無理しなくていいから。一人でやるつもりだったし・・・。じゃ、行って来るわ・・・。色々、ありがとな。」
手を上げて改札の方に向かう大沢を見送る。湖山はこれから自分の個展のギャラリーに顔を出す予定で、地下鉄のりばの方へ向かっていった。
日曜日の朝のターミナル駅構内は人がまばらで、デートに向かう人か行楽に出かける人たちが優しい華やかさで行き過ぎていく。
準備の時は学生時代の友人に声を掛けて二人手伝いに来てもらった。二人とも今もカメラををやっていて人手が必要な時に湖山も手伝いに行った事があったのでお互い様のような所がある。片付けはそれほど大変じゃないし、自分ひとりでやるつもりだったけれど、大沢が来てくれるならすごく助かるはずだ。本当は準備の時だって「手伝いに行きます」と声を掛けてくれたのを頑なに断ったのだ。もともと大沢に頼むつもりがなかったから旧友に声を掛けていたんだし、大沢には(図らずも)パネルを手伝ってもらって十分助かった。この大掛かりなラブレター大作戦、すべてのことが終わって、今更意地にになることなんか何もない。
地下鉄の車窓は考え事をするのにうってつけだ。でも今日はもう、考えたいことも何もない。ぼんやりとコンクリートの筋が流れているのを見る。時々車内広告を見たりする。そして時々、昨日菅生さんがテーブルの向こう側で自分をまっすぐに見つめた瞳や、珈琲カップを持ち上げた時の表情や、そのハッキリとした口調を思い出したりする。
駅前の小さなケーキ屋はロールケーキが有名な店だけれど、受付で誰もいないときにちょっとつまめる感じのマカロンとクッキーの箱を一人にひとつづつ買う。本屋に隣接したカフェの二階がギャラリーだ。受付をやってくれている女の子に可愛く包装された箱を渡し、改めてお礼を言う。それから他愛も無い話をしながら、訪問者記録ノートを確認してその中のひとつの名前に目を止めた。ギャラリーを見渡すと見覚えのある後姿が、梅林の写真の前に佇んでいる。
「来てくれたんだ。」
数歩後ろから、声を掛ける。
彼女が振り向いた時、湖山が背中にした窓から差し込む光がまぶしかったのか、それとも、懐かしさに目を細めたのだろうか。2年前に水族館で別れた時よりも綺麗になったみたいだ。
「うん。ポストカード、ありがとう。嬉しかった。」
今、何しているの?相変わらずなの?核心だけに触れないで近況報告をする、懐かしさにドキドキしながら、本当は訊きたい一言をお互いに訊かないでいるのだった。
3.
でも、見透かしたように彼女は言う。少し恥ずかしげな、少し得意そうな顔。緩くパーマをかけた髪が、どこから入ってきたのか早い春の風に揺れている。
「結婚するの。」
そうか・・・。結婚・・・・。
「そうか・・・。おめでとう。」
「うん、ありがとう。」
この人の、髪に触れた日も、手を握り締めた日も、肩を抱き寄せた日も、遠い過去になった。ごめん、としか言えなかったあの日、涙をこぼす彼女を抱きしめることができなかった。そんなことも、もう、本当に思い出の中だ。
「幸せに、幸せにな・・・。」
「うん・・・、ありがとう。」
「こやまー!おめでとー!」
騒々しい一団がやってくる。それを潮に彼女は「じゃあ、ね?見終わったら、黙って帰るから・・・」と彼を最後にもう一度見つめて写真の方へ振り向いた。彼女はほっとしたようにも見えたし、少し残念そうにも見えた。彼女の後ろ姿を目に焼き付けておこう、と思う間もなく、騒々しい一団が湖山の肩やら頭やらを小突く。懐かしい同級生達。写真を見る前から飲みに行こう!とか、ちょっと失礼すぎるだろう?でも、そう、ありがたい。こんな騒々しさが、今はとてもありがたかった。
案内状を送った殆どは仕事をしているから土曜日、日曜日に足を運んでくれる。せっかくの休日に来てもらってありがとうとお礼を言って、しばらく会っていなかった知人達の近況を話したりしている間に時間がどんどん過ぎて行く。不思議なのは、彼らが一人、二人と訪れて、自分の写真に囲まれたこの空間で、写真達のほうが彼らの中に内包されるような感覚。この2年間菅生さんを想い続けて撮ってきた写真が、いつの間にか別のものになっていく。そうやってこの写真の景色の中にいたはずの彼にしか見えない菅生さんの影が薄らいでいくのを目の当たりにする。
『大事な友人になれるかもしれない人を一人、みすみす逃したくないんです。だから、もし出来るなら・・・』
そう、強い瞳で菅生さんが言う。それは写真の中に閉じ込めた菅生さんではない。現実の菅生さんだ。
梅林の写真を振り向いた時、彼女はもう、いなかった。菅生さんに惹かれてどうしようもなくて、一方的に別れを押し付けた。問いただしたい言葉すら湖山に投げつける事もできなかった、彼女も、結婚する。
うららかな光が短冊のような窓から差し込んでいる。旧い友人達が思い思いに自分の作品の中にいるのを、彼は穏やかな気持ちで見つめていた。何もかもが新しく始まっている、この春の光の中で。そんな気がした。
4.
「えー?なんでだよー。明日湖山が休みだから、俺明日大沢くんにお願いしたかったんだよー。」
「あぁ、突然ですみません。でもどうしても用事があって・・・。金曜日にはそんな話なかったじゃないっすか。だから予定入れちゃったんです。」
「忘れてた。忘れてたの。その話があったときに、大沢くんにお願いしようって思ってたんだけど、君、金曜日は直行直帰だったじゃないか。」
「でも、いつもどおり会社には連絡入れてました。そんなの理由になりませんよ」
「でも、突然過ぎるでしょ?明日有給くださいっていうのは。」
「金曜日の仕事の様子を見てお願いしたことです。」
「でも、今日は僕が明日お願いしたいことがある、と言ってるの。」
「僕じゃなくてもいいじゃないですか?どうして僕なんです?」
「明日湖山が休みだから」
「ちょっと・・・そんなんオカシイ・・・!」
「行ってあげなよ、大沢くん。大沢がデキる奴だからじゃないか。そうですよね?・・・ほら、ね。そっち切り上げたらとかでいいんじゃない?」
「ちょっと、湖山さん・・・」
「あ、そだ!俺、今日早めに上がりますんでよろしくー」
昨日も呑みすぎた。土曜日に呑みすぎたから、って言い訳しながら、それでも昔の仲間たちといると大騒ぎするくらいは呑む。今朝はちょっと辛かった。
早めに上がってのんびりギャラリーに行って、最終日だから終了時間も短いし少し片付けも出来るかもしれない。
「飯の時間ですよ、湖山さん。蕎麦行きましょうよ。」
「あ?ああ、もうそんな時間かあ。蕎麦ね。蕎麦行こう。」
事務所から少し遠いけれど本格的な手打ち蕎麦を打つ店に向かう。歩きながら大沢が珍しくこぼしている。
「ったく。勝手すぎなんですよ、あの人。俺、すっごい苦手」
「でも、いい仕事すると思うよ」
「そうですかね?俺はぜんぜんそう思いませんけど」
「きっびしー」
大沢はちょっと項垂れる。
「ごめんなさい。」
「え?いや、好みだからね。いいんじゃない?」
「そうじゃなくて、明日の手伝いの事」
「なんだよ、そんなん、いいって。もともと一人でやるつもりだったって言ったじゃん。昨日だって無理すんなって言ったのに、お前いつまでも引き下がらないからつい口出ししちゃったのも俺だし。」
「ほんと、やだ。今日の明日なんて急すぎますよ。ま、いつ言われたって断りたいんだけど」
「あいつ最近よくお前に頼みたがるよね。ま、しょうがないよ。さっきも言ったけど、本当に大沢くんデキるからだよ。誰だって、有能な助手と組みたいでしょ?」
「・・・」
大沢は何か言いたそうな顔だ。でも二人は蕎麦屋の前に着いた。湖山が引き戸を開けて暖簾をくぐる。取り残された大沢が仕方なしに湖山の後に続いた。
5.
両手を組んで肘を突いている湖山がテレビを観ながら突然話し出す。
「前付き合ってた彼女がね・・・。結婚するんだってさ。」
「ほぉ・・・。」
「昨日来てさ。」
「案内状、送ったんだ?」
「うん。気になってたから。一方的だったし、酷かったよなって思ってたんだ・・・」
「ふーん・・・。ショックだった?」
「そうねえ、ま、人並に。」
大沢はテーブルの上で組んでいる湖山の手を見ていた。細い指。右手首の腕時計が華奢な手首を強調するみたいに巻かれている。テレビから目を逸らした湖山と目が合う。湖山は苦笑いして言う。
「女運、ないよな、俺。」
「・・・。どうでしょうね、今は必要ない、ってことなんじゃないですか?神様がそう言ってるってこと」
「そういう考え方もあるか。お前には一生いらねーよ、って言われたらどうしよう。」
「それもアリでしょー。」
「えーーーー?やだよーー。」
がっくりと項垂れた湖山の頭が細い腕にすっぽりと収まって、細い柔らかそうな髪がくしゅくしゅとたわんだ。大沢は片頬杖をついて窓の外を見る。引き戸の外に並んでいるサラリーマン達を眺めて「タイミング良かったな」と思う。
「明日、撮影終わったら直ぐそっち行きますね。仕事、残しておいてくださいよね。」
「あー、でもさ・・・今日、俺ね、早めに上がって行こうと思ってるの。今日最終日だからさ、終わったら少し片付けられると思うんだよね。そしたら明日の午前で全部片付くんじゃねーかなあって思ってさ」
「じゃ、俺も今日行きます。今日中に片付けられるかな?」
「んー、でも二人ならいい線行くかもね。」
「頑張りましょう!」
二人の蕎麦が運ばれてきた。
6.
会社に戻ると、菅生さんからメールが来ていた。
『湖山さんへ
今日、最終日ですね。お疲れ様でした。
土曜日は、時間を頂いてありがとうございました。
一枚一枚の作品の事など等、お話したいことが山ほどあったのにと
今更思っています。
いずれまた、機会があったらそんなお話も伺えたらと思います。
ところで、個展が終わったらパネルはどうするのでしょう?
もしも湖山さんがお嫌でなければ是非一枚お譲りいただけませんか?
どの一枚でも結構です。
菅生』
『菅生さん
メール、ありがとうございました。
今日で終わりです。寂しいような、ホッとするような気持ちです。
パネルの件、そう言ってくださって嬉しいです。
何枚でも作れるものなのでどれでも差し上げます。
是非貰ってください。菅生さんさえ良ければ全部!!
今日の夜と明日、個展の後始末です。
菅生さんの心に少しでも残ったものがあれば
別にしておきますので是非教えてください。
湖山』
『湖山さんへ
全部、魅力的なのですけれど、私の狭い部屋には
置ききれなくて私の寝る場所がなくなってしまいそうです。
お言葉に甘えて一番印象に残っている2枚をお願いします。
一枚は線路とホームの写真を。
それからもう一枚は海辺の写真がありましたね。
ギャラリーの一等広い壁の中ほどに飾ってあったもので、
小さい方のパネルです。よろしくお願いします。
パネルはもし湖山さんがご不便でなければ次に弊社にいらっしゃる時に
お持ちいただけたらありがたいのですが、如何でしょうか?
お昼を食べながら、とか。
菅生』
『菅生さん
ランチデート!!ありがとう!とても嬉しいです。
来月の撮影日が決まったらご連絡します。
梅林のパネルは結構大きいと思うんだけど、大丈夫ですか?
良かったら送りますので遠慮なく言って下さい。
湖山』
『湖山さんへ
言葉の綾で仰っていることと思いますが、
デートではありません。どうぞ誤解のありませんように。
でも、湖山さんとランチできることはとても楽しみにしています。
パネルの方は弟に車を出してもらおうと思っているので大丈夫です。
お気遣い、ありがとうございます。
では、決まりましたら。 菅生』
7.
「機嫌、イイッすねえ?」
「うん。」
「いい事があった?」
「うん。」
「何?」
「菅生さんからメールが来た!」
「・・・。友達でいましょう、って言われたんじゃないの?」
「そうだよ。メールでも念を押された」
「諦めてないってことですね?」
「友達から始まる恋ってのもあるでしょ?」
「だって結婚してるんでしょ?」
「いや、してなかった。子どもさんもいると思ってたんだけど、弟さんのお嬢さんなんだって。」
「え?そうなの?」
「うん。だからまだ希望はあるんだな」
「そんなにハッキリ友達でいましょ、って言う人がこの先恋愛感情を抱いてくれるとは考えにくいけどな。」
「なんでよ?分からないでしょうよ、男と女の事は。」
「まぁ、そうですね・・・。で・・・?デートでもするの?」
「だから、デートじゃない、って念を押されたの。昼飯一緒に食べに行く約束した。」
「ふぅん。まぁ、まずは第一歩?」
「うん!いぇい、なんか、向いてきた、女運。」
「そうかな?」
「なんだよ?」
パネルを下ろしてビスを外す。作業していた大沢が手を止めて湖山を振り向く。ドライバーが隠れるくらい大きな手、反対の手にビスを握り締めている。ビスを持った手を湖山の方に差し出し、少し首をかしげた。湖山は反射的に手を差し出してビスを受け取る。
大沢は少し微笑んでまた壁を向く。そのほんの一瞬の微笑みがなぜか湖山の胸にひっかっかった。「大沢?」と喉まででかかって飲み込む。
大きな背中が湖山を拒否するように作業を続けていく。パネルを下ろし、ビスを外す。受け取り損ねて落としたビスや、パネルを置く場所を確認するときに、少し下を向く大沢を湖山は少し見守って、前髪に隠れてしまうその表情を覗き込みたくなる気持ちを抑えた。
湖山は小さな溜息をひとつついて、外したパネルを一枚一枚拾い、ダンボールに順に入れていく。パネルを止めていた金具を小さなクリップケースにカシャリカシャリと入れる音が響く。菅生さんに渡す2枚のパネルはを別の箱に入れる。それから梅林のパネルをまじまじと見つめる。これを見ていた前の彼女の後ろ姿や、結婚するの、と言った瞬間の顔を思い出してみる。
結婚、か。
受付回りの細かいものを片付けながらぼんやりと彼女より前に付き合った女性のことも思い出した。あの人もあの人ももう結婚したのだろうか。ぼんやりとそんなことを思いながら、ノートやペン、クリップ、ホチキス、と細かいものをペンケースやら箱やらに片付けている手がふと、止まる。
大沢は無言に機械的に金具を次々に外している。さっきまで湖山の想いの丈があったその壁が今は真っ白く何もない。大沢と大沢の影が移動しながら、湖山が抱き続けた幻を一枚、一枚、その止め具もろともにはがしていくのを湖山は見つめた。
湖山の視線を感じたのか、大沢が急にこちらを振り向く。湖山は思いがけず振り向いた大沢から目をそらすことができなかった。
「終わりそうだな・・・?」
他に言う事がなくてそんなことを言う。
「そうですね。あと2枚で終わり。」
そうだ、大沢はたまにこんな風に微笑む。少し困ったような顔。いつも元気が良い大沢が垣間見せる意外な一面。
何もなくなるととても広く見えるギャラリーの真ん中に段ボール箱が置かれている。湖山の2年半とそれを支え続けたもの、ダンボールの幾箱かに収められてしまう程の。
大沢と湖山が佇むその空間は、いま白昼夢から醒めて、蛍光灯の下で見るといやに現実的で、それでいて、どこか遠くの星に来た宇宙船の船室のように都会の夜に浮いているようだった。
8.
「その写真は・・・私自身のような気がしたんです。ホームと、ホームと平行して走る線路、行き先が決まっていて、どこまでもそこへ向かっていくような・・・。」
菅生さんはカウンター向こう側に並んでいるお皿の棚を見つめている。でも、彼女が見つめているのは多分、その棚の向こうに伸びている湖山には見えない線路だ。
「それから、海辺の写真・・・。海ってどこへでもつながっている訳でしょう?どこへでも行ける、その出発点。だから、その二つの写真は、私の中の相反する二つ、そんな気がしたんです。」
ランチタイムにしては高級な定食を出す店は、夜ならちょっといい雰囲気だろうなあと思うような割烹だった。
「前も言ったけど、あの個展の写真は全部、菅生さんがいてくれたら、と思う景色を撮ったんです。あのホームも、あの砂浜も、そこにあなたがいて僕のほうに向かってくるようなそんな気持ちだったのだけれど、面白いですね、写真をみたご本人はそこが出発点、ということは、僕に背を向けている、ということでしょ?なんか、写真ってやっぱりそういうところが面白いのかな・・・。」
これが夜で、ビールか、できれば日本酒なんかを注しながらだったら言う事ないのに。
「写真だけじゃないですよね、多分。色々な表現方法があって、そういう芸術作品は何でも、表現者の意図することとは別の捉えられ方をすることもある、その可能性が面白いのですもの。」
すっぴんに近いようなメイク。頬に赤みが差したりしたら、可愛いだろうな、と思うけれど、そんなことを想像しては彼女に失礼かもしれない。
「あー、そうですね、それはありますね。そうそう。確かに、あの個展のとき、面白いなと思ったんです。皆が、僕の写真たちに囲まれた空間にいるはずなのに、あのギャラリーにいると、作品の方が、来てくれたみんなの中に入っていくような、そういう感じがして。」
菅生さんは真っ直ぐに目を見る。湖山の目の奥にあるものを見つけに行くようなその目をそらさずにいる。湖山は居心地が悪くなる。目をそらしたくないのに、そらさずにはいられない。湖山が思っていた菅生さんはもっと儚げだった。見つめたら目を伏せてしまうような、そんな人だと勝手に思っていたのだ。
湖山が、本当の菅生さんを知りたいと思った時、彼が想像していたのは幾重にも重なった花弁を剥いでいって蘂を見つけるような作業だった。
でも、実際には違う。
その花は一重の花で、花弁に触れた瞬間に毀れてしまうような手ごたえのなさで、しかもその蘂はなぜかどこか生々しさがない。
花弁を剥がれてもまだ生命を継いで行こうとする生命力や、あるいは、もうこうなっては遂げる事ができなかった生命の無念さや、そういうものが感じられなかった。それでいて凛として存在し続ける真っ直ぐな茎の強情さを思わせた。最後の最後まで、重力に逆らって見せようとする、その力強さが彼女という花の美しさなのかもしれなかった。
湖山は、ふと、花弁の毀れたその花の茎をそぅっと地面に置く自分を想像した。茎を見下ろしている自分の横に誰かがいて、肩をそっと抱いてくれる。そんな風景が頭をよぎった。
9.
この道はどこへ続いているのだろう。茎を地面に置いて立ち止まったままの湖山の肩を抱いたその人が少し力を込めて湖山を道の先へ促すように感じた時、湖山は現実に引き戻された。
菅生さんはまた、湖山には見えない線路の先を見つめているようだった。あるいは地平線だろうか。
「どこへ、行こうとしているのでしょうね。その二枚の写真の中にいる菅生さんは・・・」
「そうですね、このまま、この先へ。湖山さんと同じですよ。」
「この道の先・・・。」
目的地、終着点、通過点、そんな言葉が頭に浮かぶ。そして、大沢が使っていた言葉を思い出す。
「菅生さん、<夢>はありますか?」
「夢?」
「えぇ、夢。」
「そうですねえ・・・・お嫁さんになること、とか?」
「・・・・!」
「なった事がないんですものねえ・・・」
「いつでも、なれたのではないですか?」
「いいえ、なったことがないし、この先も多分・・・。でもいつか、好きな人の側にずっといるような生活をしてみたい、とは思いますけれど。この道を真っ直ぐに進んでいって、いつか、そんなことがあったら・・・。」
菅生さんはもう、湖山の目を見ていない。湖山を通り越したどこかを見ている。
「夢、なんて言葉・・・、久々に聞きました」
菅生さんの瞳がまた湖山に戻ってくる。
「ええ、僕も、すごく久しぶりに聞いたんです。大沢がその言葉を口にしたとき、よく照れずに話せるなあって思いました。」
「大沢さんが?でも、彼なら『夢』という言葉を使いそうな気がします。」
「そうですね、僕も、彼がその言葉を使うのはなんとなく頼もしいなあと思ったんですよ。」
「湖山さんは?夢は?」
「ええ、僕ね、同じ事を言ったんです。お嫁さん、貰う事かなーとかって。」
「あら、そうなんですか?」
「ええ、そう。だからいまちょっと面白かった」
「うふふ。それで?本当の夢は?」
「このまま、仕事を続けていく事かな」
『だからぁ、お嫁さんを貰う事ですって~』と言う事もできたけれど、湖山はそう言わなかった。菅生さんに、自分を知ってもらいたかったのがひとつ。それから、見透かされそうな菅生さんの目が「茶化すな!」と言っているような気がした。
「大沢と肉だか鍋だか突つきながら話していたんです。自分たちの夢について、夢を叶えた次の夢ってなんだろうか、とか。お互いね、このままこうやって仕事をしていくこと、それが夢だねって話に落ち着いたんだけど。なんだっけな、そうそう、結婚観の話とかにもなって・・・。恋愛が終わったあとに何が残るんだろうかとか、結婚する相手とかってどういうんだろう、とか、なんかそういう話。」
「男の人もそんな話するんですねえ。」
「え?するでしょ?しますよ・・・?普通に。」
「ふーん・・・なんか男の人たちが飲むときって会社の悪口と仕事の愚痴しか話さないイメージがあるから。」
「あぁ、そうですねえ、そういうこともありますけど。相手によっては・・・でも、大沢とはそういやあんまりそういう話しないなあ。」
10.
誰かと食事を共にする、ということは、話している内容だけではなくて、自分の何かが駄々漏れになっている感じがする。相手にどこまで心を許しているか、相手をどう思っているのか、簡単に言えばそういう尺度が駄々漏れになっているのだ。そんなことを意識しながら仕事仲間と呑んだり食べたりしている訳ではないけれど、改めて考えてみるとそういうもんなのかな、と思う。
だから、ランチを食べながらというのは、距離感も時間も非常に適当な選択だ。菅生さんは賢い人だな、と思う。
菅生さんとお昼ご飯を食べながら、写真の話やそんなことから思い出した色々な話、時には人生観に通ずるような話題まで話していたら、菅生さんはもしかしたら少し誤解を招くくらい率直な人だと思った。思ったこと、考えたことをはっきりと口にする。それは時に人を傷つける事もあるくらい鋭利だったりしそうだ。多分それは、彼女の見た目と使う言葉や話し方とのギャップだったりするのかもしれない。この人から愚直なくらいの真っ直ぐさで何か思いもしないことを言われたりすると、そんなに酷いことだったわけでもないのに、意外すぎて、油断しすぎてて、あっと思う間にグサリと胸に突き刺さるような。でも、湖山はそんなところもいい、と思った。
ゆっくりめのランチを取ってくれた菅生さんと一緒にXX社に戻り、ROMを渡して次の撮影に向かうのに会社に連絡を入れた。
「お疲れ様です」
事務の女の子が出る。
「ども、お疲れ様です。」
「XX社、終わりましたか?」
「ええ。いまちょうど終わったトコ。次に向かいますよ」
「えーとですね・・・。」
紙をめくる音。
「えっと、大沢さんがいま宮森さんの現場に行ってるんですけど、やっぱり間に合わないそうです。それで、湖山さんの撮影に付くの、吉岡くんになるそうです。今向かってるはずです。」
「えぇーーー?またなのー?」
「うーん。みたいですねえ・・・。」
「わかった・・・。」
ここ何回か立て続けに大沢が別の仕事に持っていかれていることがある。湖山が事務仕事の日に大沢が別の撮影の仕事をしていることはこれまでにも何回かはあったけれど、大沢が現場に立っているときに大沢が別の所にいるというのはそう考えてみると殆ど無かった。
XX社を出て駅までの道を歩く。青葉の美しい季節。もうあと1ヶ月もすればTシャツ一枚でも気持ちのよい日があるだろう。そして雨ばかり降る梅雨が来る。この道の途中に小さな神社があって、あの垣根にアジサイが咲く。
春真っ只中のこんな穏やかな午後なのに、湖山は少しイライラしている。
11.
指折り数えてみると大沢と組んで仕事をするようになってもう7年程も経つらしい。大沢の初々しかった頃を思い出したりしてみる。大学を卒業したばかりの大沢はいかにもスーツを着る職業に就くのが厭でこの仕事を選びました、という感じだった。それでも最初の2-3ヶ月はちゃんと襟付きのシャツを着ていて、案外真面目そうだなと思ったのを覚えている。色気というには若すぎたけれど、長身の彼がそういうシャツを着ている姿は男らしく、湖山は少し羨ましいなあと思ったりもした。その頃大沢は、まだ、助手の助手をやっていた。
湖山はカメラマンになったばかりだった。その頃のことは、慣れているつもりの撮影現場でも案外緊張していたのかもしれないし、必死すぎてよく覚えていない。当時頻繁に湖山の助手をしてくれていた二人はその後退社してしまったけれど、湖山の事をやりにくいカメラマンだなあと思っていたのではないかと今では思う。カメラマンになりたくてやっとカメラマンになれた、自分の気負いのようなものがいつも周りの人間を遠ざけてしまった。
大沢は物覚えが早かったから割と直ぐに助手として立派に仕事をするようになった。当初は在籍するカメラマンを掛け持ちで担当していて、いつも湖山に当たるわけじゃなかったけれど、たまに当たると、湖山はいつもいい仕事ができたなと満足する事が多かった。笑顔を絶やさない大沢の仕事振りに、キリキリしていた湖山の気負いが次第に溶かされて、自分が思う良い写真を思いきり撮ることができた。いい仕事をするには仲間も大事だ、と思い始めたはじめの一歩だった。そして、今も、カメラマンという仕事が本当に好きだ、と心から思うことができるのはこうして、いい仲間に恵まれていい仕事ができるからなのだと思う。
もちろん、大沢が端からよく出来た助手だった訳ではないけれど、でも、この数年、大沢以外の助手が一緒に仕事をしてくれたことももちろんあって、そんな時に思うのはやはり、大沢がいい、ということだった。やりやすさが断然違った。何がどう違うのか説明しろって言われると難しいけれど、たとえばほんの少し商品の向きを変えたいとか、ほんの少しレフ板の角度を変えたいとか、ほんの少し照明の照度やら向きやらを変えたいとか、口で言えば誰でも出来るし、気に入らないなら自分でなんとかすることだってできることを、湖山が口で言う前にやってくれるのは大沢だけだ。もしかしたら湖山が気付いていないことすらあるかもしれない。アシスタントの仕事が好きだ、と言う大沢だけのことはある。
大沢が助手だといいな、あいつはやっぱりさすがだな、と思う事はいいことだ。いつもいつも大沢と組んでいると、その仕事やりやすさは殆ど当たり前になっているから、別の環境でやらなければいけないとき、「大沢よ、ありがとう!」と心から思える。
でも、そういうことは「たまに」でいい。こう立て続けだとイライラするだけだ。
駅からスタジオに向かっている道で、湖山の携帯が鳴った。「オオサワ」という文字がチカチカしていた。
「もしもし?湖山さん?」
「おす。」
「もう着いてます?」
「いや、今歩いてるとこ。」
「こうなるだろうなーと思ってたから吉岡くんにちゃんと引継ぎしてあるけど、もしなんか不手際があったらごめんなさい。」
「何言ってんだよ、大沢くんのせいじゃないでしょ?そっちも仕事なんだから」
「うー・・・まぁ・・・そうなんだけど・・・」
大沢のせいじゃない。会社の都合も色々あるんだし仕方ない。
でも・・・
「大丈夫だよ。こっちは心配要らない。」
苛々した気持ちが、少し強い声になって出た。・・・かもしれない。
「・・・・。」
「どうした?」
「いえ、いや、じゃ、戻ります。」
「おぅ!頑張れよ、そっちも。」
「はい、ありがとうございます。湖山さんも」
「うん。ありがと・・」
歩きなれた経路でスタジオに到着する。古いけれどきちんと磨かれたガラスのドアを開けた時、いつもよりちょっと重いような気がした。どこから風に乗ってきたのだろうかタンポポの綿毛がドアの取っ手に引っかかっていた。
12.
真夏は事務所内の仕事が一番快適だ。でも、今日は午後から撮影の仕事があるから一番暑い時間に出かけなければならない。
「湖山さーん。大沢さんのお祝い、どうしましょっかー?まだまだって思ってると直ぐだから~」
「は?」
「え?だから、大沢さんの・・・」
蝉が鳴いている。声が近い。この窓の向こうのプラタナスだ。そんなことを思いながら湖山はぼんやりと事務の笹野さんを振り向く。
「えーーーーーー?けっっこんーーーーーー?」
「あれー?聞いてなかったんですかー?」
「き、聞いてない。聞いてないよ?」
「あらぁ・・・そんなこともあるんですねえ・・・?でも、あるのかなあ?大沢さんが湖山さんに話さないなんて、あるわけないと思うけど・・・。大沢さんは言ってたのに湖山さんが聞いてなかった、とかじゃないんですかぁ?」
そんな訳、ない。そんな大事な事、聞いてて聞き逃す事なんてある訳ない。
(えー?なんだよ、それ。知らなかった・・・。)
そうなんだよな・・・。ここ1ヶ月、湖山は大沢に現場で会っていない。ここ2ヶ月かそれ以上一緒に飯も食ってないなあ・・・。いや、あったな・・・。前ほどではないけれど、1回・・・2回・・・3回くらいは夕飯を一緒に食べた。あの撮影の後だろ・・・別の現場から待ち合わせして行ったこともあったはず。そうだ、そうだ、あんときだ。それに、昼ごはんも何度か一緒に食べた気がするし。・・・言うチャンスがなかった訳はない。
(隠してたってこと?)
なんで?隠す必要なんかない、でしょ?なに?なに?なんか気持ち悪い。どうして言ってくれなかったんだ?言ってくれたの?俺、聞いてなかった?本当に聞き逃したのか?いや・・・。そんな訳ない。絶対聞いてない。
湖山はジーパンのポケットに手を突っ込んで携帯を取り出しながら事務所を出て行った。
呼び出し音が鳴り続ける。出るまで鳴らし続ける。
「おい!!」
「・・・え?はい?なに?湖山さん?どうしました?」
「どうしましたじゃねーよ。お前、俺に隠してることがあんじゃねーだろうな?」
「・・・・」
「おい、聞こえてるのか?」
「聞こえてます。」
「俺に、言ってないこと、あるよな?」
「有りますね。」
「・・・・。」
(『ありますね』?アリマスネって言ったの?今?)
「・・・っ!?ナニソレ・・?」
「なんで怒ってるんですか?電話で話せることじゃない、とにかく、後で電話します。」
「おいっ!切ってんじゃねーよ、こら!!」
何それ、何それ、何それ・・・?
な ん だ 、 そ れ?
冷房の効いた事務所から出ると、真夏の空気は温かいと思えるほど優しかった。携帯電話を片手に立ち尽くす湖山を、ぎらぎらと表現するにふさわしい日差がアスファルトごと湖山をジリジリと焼こうとしていることに湖山は気付いていない。
13.
よく考えてみたら、怒ってると言われるほど声を荒げた自分がよく分からなかった。大沢が撮影中なのも分かってたはずなのに、撮影の都合も考えずに電話をかけてしまったことも反省しきりだった。さっきの自分を思い出すと自分自身に苛立ちを覚える。
真夏の午後はどちら側を歩くとビルの陰になっているのか無意識に選びながら、事務所を出て駅までの道を早足で歩く。次第にじっとりとするTシャツの背中が気持ち悪いな、と思う。
地下鉄の階段を下りる寸前に電話が鳴る。
「はい!!」
「吉岡です。お疲れ様です。宮森さんとこ今出ました。」
「なんだ、吉岡くんか・・・あいよ、分かった。よろしくね。間に合うよね?」
「はい、言われたとおりに言って出てきました。大丈夫です。」
「うん。じゃ、後ほど。」
「はい、よろしくお願いします。」
吉岡も悪くはない。素直だし真面目だ。助手になって結構経つし仕事自体には慣れているから撮影ごとにいちいち指示したり確認したりしないといけない事もないし。まぁ、可も無く不可もない。つまり、大沢がいない撮影も最近やっと慣れてきた、のかもしれない。
それにしても結婚・・・。
そしてまた昼間の自分をイライラと思い出した。
いつだったか、大沢が「みずくさい」と言う言葉を使ったことがあった。そうだ、あの時・・・。個展の準備中に寝不足で具合が悪くなったときだった。
『なんかおかしいって思ってた・・・楽しそうだからいいやって思ってたけど・・・こんなんなるまでやりたいことがあったんなら、どうして言ってくれなかったんですか?』
大沢の少し苛立った表情を思い出す。そうだ、確かに怒っていた。『水臭いじゃんか、当然言ってくれていいはずのことを、どうして俺に黙ってるの?』そんな思いが怒りになる。
どうして黙ってるんだろう・・・。
俺は、どうして黙ってたんだろう・・・?
仕事じゃないから・・・?それもある。でも、仕事以外の自分のことだって結構色々話した。学生時代のこと、幼かった日の出来事、自分のアシスタント時代の話も、友達の事、親のこと、恋人の事。大沢が湖山のことで知らないことなんて殆どないのではないかと思うくらい。でも、あの個展は菅生さんへのラブレターだった。自分一人でやろう、と思った。だから言わなかったのだ。そこまで考えてもう一度考え直す。学生時代の友人には手伝いを頼んだのに?どうして大沢にだけ頼めなかったんだろう・・・。
よく分からない。近すぎて、何となく、そう・・・、なんとなく。