死神のアイロニー
自分の物語ですら主人公にはなれない。もしも自叙伝を記す機会が人生のうちにあるならば、猿にタイプライターを渡して代筆を頼もうか。少しひねくれた大学生なら誰しもが考えそうなことを堂々と頭で巡らせて悦に浸る大学生がいた。講義はようやく半分を過ぎた程で、下手をすればこの教室内にも同じような考えの者が幾人かいたかも知れない。一年の浪人期間を経て地方の国公立大学に合格した修二は、入学前の心構えも失くし典型的なモラトリアム謳歌人間に成り下がっていた。何者にもなれない不安と、将来に対する漠然とした焦燥は一人の人間を堕落させてしまうには十分すぎるものだった。
「そう言えば、いつもの交差点で見る首の曲がった男、今日は見なかったな。」
ふと、考えていたことが言葉に変わる。幸い、誰にも聞かれている様子はなかった。今からちょうど一年前の大学入学直後に起こった凄惨な交通事故。噂によると運転手の不注意による単身事故で、即死だったそうだ。若気の至りで夜通し遊んでいた修二は事故の瞬間を直接見たわけではなかったが、現場を一目見ただけでその噂が正しいことを察した。その時に再確認した命を大切にしようというありふれた感情は、満ち足りている風の現代の中でいつの間にか当たり前に戻っていた。講義も終盤に差し掛かった頃、黒板の中からぬっと黒いスーツの男が現れた。修二の指定席である後ろから二列目の窓際の席からではハッキリとは見えなかったが、喪服であったのかもしれない。突然現れたスーツ男は特別何かをするわけでもなく、少し教室を見渡した後、修二とは逆の側、中庭の方に歩いて行った。その際も当たり前のように机や生徒、壁をすり抜けて行った。悲鳴が聞こえないことを考えると、修二以外の生徒や教授には見えていないか、あるいはSNSに必死なのだろう。おそらく前者だが。修二はと言うと、声にこそ出さなかったが驚きは相当なもののようだった。あれほどはっきりとした輪郭を持つ者を見たのは初めてだった事と負の感情が一切感じられなかったことが原因だろう。
「初めてだな、あんなの」
この講義が始まって2度目の発声は、教授の講義終了の合図に掻き消されたが、どうやら隣に座っていた生徒には聞こえていたらしく、如何わしい顔をされた。なんて事はない、どうせこの先の短い大学生活で、この生徒と言葉を交わす事はないだろう。
スーツ男との再会は、別にそれを願っていたわけではないが、案外早いものであった。テストを3日後に控えた修二は大学の図書室で勉強の真似事をしていた。大学にいる目的、学生の本分を忘れかけている修二ではあるが、今までに根付いた習慣は根深く、また、中途半端なプライドがテストで欠点を取ることを拒絶したため、机の上の参考書とにらめっこをする羽目になっていた。講義を真面目に聞いていない修二にとって、参考書は意味のわからない言葉の羅列に等しかったが、浪人時代に鍛え上げた驚異的な集中力を見せ、おそらく不甲斐ない点数は取らないであろうと言うところで、息が詰まって顔を上げた。すると、視界の端に異質な黒い男が映った。見覚えのあるその男は、やはり喪服だったようだ。図書館にいるにも関わらず本には目もくれないでまた辺りを見渡している。少しすると何事もなかったかのように歩き出し、今度は入り口の扉から出て行った。以前と同様にすり抜けて行ったので、扉であったのは偶然かもしれない。修二は後を追うことにした。普段ならそのような事は絶対にしないのだが、勉強から抜け出せるなら何だっていいと思った。
「私が見えるのかい。」
追いついたのは中庭の隅の喫煙所の手前、別に隠れるそぶりも見せなかった修二に気付いたスーツ男は、立ち止まって修二が追いつくのを待ったのちに、言葉を放った。まさか話しかけられるとは思っていなかった修二は面を食らったが、何とはなしに答えた。
「見えているとも、ここは人がいなくてちょうどいい、あなたが何者なのか知りたかったんだ。」
近くで見るとより一層違和感は強まった。顔が綺麗すぎるのだ。整っているわけではない。不細工というわけでもないが、何処にでもいるサラリーマンのようだった。ここが地方の大学ではなく都会のど真ん中であれば、彼の存在には全く気がつかなかっただろう。傷一つない顔にクリーニングした直後のようなピンと伸びた喪服。彼からは正気まで感じられた。
「怖くはないのかい。」
淡々とスーツ男は尋ねる。
「全然。あなたが一番わかるはずだ。あなたからは他の奴らが抱えているような妬みなどの負の感情が一切感じられない。実際今話している間でも死人かどうか疑っているほどさ。もったいぶらずに教えてくれよ、あなたは何者なんだ。」
スーツ男は少し困った顔をしたようにも見えたが、少し間を開けた後、あっけなく答えた。
「その質問には答え辛いのだが、君たちの言葉を借りるなら、死神というものが一番近いのかもしれない。」
「死神ときたか、あまり知りたくはないのだが僕の大切な人か、あるいは僕を迎えにきたのですか。」
敬語の混ざった下手くそな日本語は、余裕のなさを表していた。
「まさか、何もしないよ。」
修二は安堵の表情を浮かべる。続けて死神を名乗る男は言う。
「私達は死してなお彷徨う魂を導くだけなのさ。皮肉なものだろう。死を司る神なのに死には直接触れられないのだよ。」
男は微笑んでいるようにさえ見えた。さらに続けて言う。
「しかし、君は少し気をつけた方が良いかもしれない。私が見えると言う事は、恐らく君は死の近くにいるよ。まぁ、その時はよろしく。」
もはやその男が死神であることには一切の疑いもなかった。そう評価している男から言われた言葉は修二の胸に深く突き刺さったが、何かを聞く間も無く死神は消えていった。目を逸らしたわけでもなく、瞬きをしたわけでもない。言葉の通り、死神は姿を消してしまった。
「どうせ死ぬのなら、苦労する前が良かったな。」
そんなやるせない事を口にした修二であったが、夜になれば死の実感は近づいてきて、半同棲のような状態の彼女と体を重ねた。同い年で偶然同じ講義を受けていた彼女とは、もうすぐ一年になる付き合いで、このままいけば結婚だろうと身勝手に考えていた。愛はあったと思う。今日のことは何も話さず、悲しい思いをさせたくないからと別れを切り出すようなことももちろんなく、隣で眠る彼女を見て、情けなく涙を流した。死が実体を持った後も、真面目の皮の脱ぎ方がわからずに、それなりに勉強をし、3日後のテストではそれなりの点数を取った。目的も何もなかった修二であったが、不意にゴールの存在をちらつかされ、漠然なりにも卒業、就職、人並みの親孝行をし、人並みの幸せを掴むと言う考えが目的として急遽挙げられた。質素ではあるが、有効期限付きならば仕方のないところであった。
季節は巡る。
「おや、久しぶりだね、またここで会うとは思わなかったよ。」
「」
「楽しかったかい。未練があるように見えるが仕方ない。死人に口無しとはよく言ったものだね。」
死神は続ける。
「実のところ、君には謝りたかったんだ。いつか君と言葉を交わした日、私は余計な事を言ってしまっていたかもしれない。いや、きっと言ってしまった。君がそれに縛られているのではないかと気掛かりだったんだ。」
「」
「やはりか、申し訳ない事をしたね。しかし、人というものは少し意味に捉われすぎていると思うのだが、君はどう思う。死の外側から見ている者としては、意味のあることなんて万に一つもないと思っているのだよ。ただ、それを愚かだとは思わないよ。短い時間の中で何かを成し遂げる命はとても輝かしい。そんな命でさえ、短く見ても長く見ても全ては終わりに向かう途中なのだよ。全ては巡る。私達より、よっぽど神様の方が酷いと思うがね。」
死神はやはり少し微笑んでいるように見えた。
「」
「いやすまない、話が長引いてしまったね。立ち話もなんだし歩きながら話そうか。君の物語も聴こう。意味なんて君が付け足してしまえば良いさ。大丈夫、この旅は長い。私はこの時間が一番好きなんだ。」
死神と修二は夜の闇に消えて行った。