湯気の向こう
ジュアンからの合図があり、アンドロスはようやく風呂場に入ることが出来た。
「やはり、広い風呂はいいな」
立ち込める湯気と、その奥に見える木製の巨大な湯船。
ふわりと香るのは、優しい木材の香り。
普段は風呂などめったに入らず、川で水浴びする程度のアンドロスは、その湯船の大きさに感心するような声を漏らす。
洗い場で体を洗うと、さっそく湯船へと足を運ぶ。
体を湯にしずめ、肺の奥から息をゆっくりと吐き出す。
蓄積された疲れが、ゆっくりと溶けていくようだった。
そこで、湯気の奥に人影を発見。
「ジュアンか」
「はい――あまりこっちに来ないでください」
湯船のはじっこ。
そこにデスティナを胸に抱いて座るジュアンの姿があった。
頭の後ろで黒髪をまとめ、湯気に眼鏡を曇らせている。
体にはタオルを巻き、ガッチリとその素肌をガードしていた。
しかし、タオルでは隠しきれない胸元や肩口が露わになっており、その肌の白さに目を奪われてしまう。
慌てて視線を外すアンドロスは、何気ない言葉を投げ、やましい気持ちを誤魔化した。
「風呂の時くらい、眼鏡を取ったらどうだ」
「慣れないお風呂で、転ぶと危ないじゃないですか――そんなことより、じろじろ見ないでください」
「すまんすまん」
言いながら、アンドロスも頭に巻いていた頭巾を取ると、その頭に生える角を露わにする。
黒髪に紛れ、あまり目立たない二本の角。
見た目がほとんど人間であるアンドロスの体の中で、唯一魔物っぽい部分である。
アンドロスは風呂の湯を手にすくうと、入念に角を磨く。
そうして広い風呂を楽しんでいると、湯気を掻き分けるように、デスティナがすいすいと風呂を泳いでアンドロスの前に現れた。
デスティナも体にバスタオルを巻いてはいるが、アンドロスを警戒するような素振りは見せない。
「お風呂は気持ちいいな、アンドロス」
「そうですね。日々の疲れが湯に流れ落ちるようです」
アンドロスは言いながら、濡らした頭巾で角を擦る。
角がピカピカになったところで、アンドロスはデスティナを見る。
「ティナ、一つ聞きたいことがあったのです」
「なんだ?」
「なぜ、あんなことを言ったのです――私たちが家族だと」
宿の店主に、家族連れと勘違いされたアンドロス。
しかし、デスティナはそれを否定せず、店主に三人が家族であると伝えた。
ただ、デスティナが気を使っただけだと思っていたアンドロスだが、どうにも、その真意が気になって仕方がなかった。
そんなアンドロスに、デスティナが頭髪と同じ、赤毛の眉を下げて俯く。
「嫌だったか?」
「いえ、そんなことは――ただ、少し驚いただけです」
アンドロスが首を振ると、デスティナはいくらか嬉しそうに顔を上げる。
「深い理由は無い、私の昔からの願いだったのだ――いつか家族で、どこかに出かけてみたいと」
「家族で……ティナは、魔王様と出かけたことは無いのですか?」
「そうなんだ。私は物心ついた時から、外部との接触を絶った、狭苦しい場所で生きてきた。父上には、会ったことすらない」
「なんと、会ったこともないとは……」
その時のことを思い出しているのか、デスティナは湯気で白む天井を、遠い目で眺める。
デスティナの黄色い瞳。
澄んだ夜空に浮かぶ月のような、美しく、神秘的な輝きを見せるそこに、フッと悲しみがよぎる。
「だから、私は一度でいいから外へ出かけ、公然と家族と出かけていると口にしてみたかったのだ――今日は嘘をつく形となってしまったが、それでも、良い気分だった」
「なるほど……それはお辛かったでしょう」
デカい図体のわりに、涙もろいアンドロス。
人間と魔王のハーフであるデスティナ――彼女が辛い日々を送ってきたことは想像に難しくない。
「すまん、なんだか湿っぽい話になったな――ちょっと頭でも洗ってくる」
しんみりとした空気を払拭するように、デスティナは小首を傾げて笑って見せる。
行動と言動は大胆で大人びた彼女だが、その笑顔には、年相応の屈託の無さがあった。
湯船から上がり、洗い場へ向かうデスティナ。
その後を追って、風呂の隅っこにいたジュアンも立ち上がる。
「アンドロスさん、姫様について、あまり詮索しないでください」
「……どういうことだ、何か不都合があるのか」
「その言葉の通りです、あなたが多くを知る必要は無いという意味です」
ジュアンは言いながら、ゆっくりと湯船から出ようとする。
少し棘のあるような言い方のジュアンだが、その顔は辛そうに歪んでいる。
きっと、こんなことはジュアンも言いたくは無いのだろう――しかし、何か理由があって、アンドロスに言わざるを得ないらしい。
「そうはいかんだろう、待て、詳しく教えろ!」
そういって、ジュアンの手を掴もうとアンドロスも手を伸ばす。
しかし、その手は空をきり、ジュアンの身体に巻きつけるタオルの一端を掴む。
そして前のめりなったアンドロスが、力任せにタオルを引っ張ると、ジュアンがバランスを崩して転倒しそうになる。
「きゃあ!」
転びそうになるジュアンを、アンドロスは慌てて抱きとめる。
そのまま、二人仲良く、風呂の中へ頭からすっころぶ。
「すまない――大丈夫か、ジュアン」
湯船から、ジュアンを抱きとめたまま起き上がるアンドロス。
そこで、その武骨な表情が凍りつく。
ジュアンは、その身体を預けるように、裸のまま、正面からアンドロスに抱き着いていた。
むにゅっと、アンドロスの胸に、ジュアンの慎ましやかだが、形の良い乳房が押し当てられる。
その柔らかさと温かさ――そして間近で見る、ジュアンの上気した顔。
ジュアンの大きな黒目と、アンドロスの蒼瞳が交差すると、なぜか胸がドクリと高鳴ってしまう。
互いの胸の鼓動が、皮膚越しに伝わり合う。
何が起こっているのか分からないアンドロスだったが――これは、とてもよろしくない状況だということだけは理解。
「ジュ、ジュアン、すまん――手を掴もうと思っただけなんだが……」
アンドロスの言葉を聞いているのか、いないのか。
ジュアンは顔を下げ、小さく震えている。
これは、羞恥心に震えているのではない。
様々な感情を通り越して、激怒しているのだ。
何か、相手の気持ちをなだめることを言わなくてはならない――アンドロスは必死に考え、ジュアンが少しでも喜びそうな言葉を選ぶ。
「お、お前、意外と胸があるんだな――貧乳といったのは取り消そう、いやぁ、すまなかったな」
男らしく素直に謝り、事態の終息を図る。
これ以上、アンドロスが思いつく謝罪の言葉は無かった。
しかし、それ以上に、ジュアンを怒らせる言葉も存在しなかった。
小さな宿屋が、怒りの魔力に震える。
アンドロスは生まれて初めて、スペルデーモンの本気の魔力をその身に浴びた。
風呂の中を吹っ飛ばされながら、アンドロスはなぜか、その胸に奇妙な柔らかさが残っていることに困惑した。