傷跡
「なぁ、アンドロス、キズは傷まないか?」
アンドロスの腕に抱えられるデスティナが、心配そうに黄色い瞳で見上げる。
「心配ありません、これくらいすぐに治ります」
答えるアンドロスは、デスティナを心配させまいと、太い眉の下で蒼瞳を笑わせた。
一つ目の巨大な狼、キュクロプス。
森の深部へと迷い込み、キュクロプスの群れに囲まれたデスティナだが、アンドロスの手によりその全てが撃退。
アンドロスの強さはすさまじく、自分の体躯よりも巨大な魔物を、ことごとく拳で殴り飛ばした。
しかし、アンドロスはキュクロプスを一匹も殺していない。
致命傷を与えないように手加減し、相手にこちらの強さをストレートに叩き込み、撤退させたのだ。
野生の生物相手にそこまでできるのは、単純にアンドロスの力量が圧倒していたから。
血肉に餓えた魔物であっても、絶対に勝ち目のない相手と戦いを続けるほど無謀ではない。
デスティナはアンドロスの強さと、そして魔物らしからぬ優しさを見たような気がした。
「森の危険さが、よくお分かりになったでしょう」
歩き疲れ、アンドロスの腕に抱かれるデスティナ。
てっきり叱られるかと思っていたデスティナだが、アンドロスの優し気な声に、小さく視線を上げる。
「うむ……森は美しいが、それは表の顔だ。裏の顔は、とても恐ろしい」
「そうですね。それを理解して下されば、怪我をした甲斐があったというものです」
アンドロスの豪快な笑い声が、森に響く。
あまり騒がしいことを好まないデスティナだったが、その快活な笑い声は、不思議と嫌いでは無かった。
「やっぱり、座学だけではダメだな。もっと外の世界を見て、見聞を広めなければ」
「それは良いお考えです。でも、次からは私も連れて行って下さい」
「わ、分かった、そうしよう。よろしく頼む」
デスティナは伏し目がちに答える。
自らの過ちを素直に認めること。
それも、人の上に立つ者に必要な資質。
少々、危ない目にあったが、結果として森へ入ったことは正解だったと、アンドロスは小さく笑みを浮かべた。
◇◆◇
「あら、お帰りなさい」
小屋に戻ると、寝起きのジュアンが小屋の前で背伸びをしていた。
どうやら、今の今まで、ずっと昼寝していたらしい。
「心配しましたよ、私が瞑想から目覚めたら、誰もいないんですから」
「ただ寝てただけだろ」
アンドロスが呆れて言うと、「えへへ」と恥ずかしそうに笑うジュアン。
「ところで、お二人はどこに行っていたんですか?」
「狩りに行っていた」
「狩り、ですか――肝心の獲物はどこに?」
「……色々あって、無い」
「なんですかそれ、あるんだか無いんだか、釈然としない答えですね」
黒髪を揺らして、首をかしげるジュアン。
「まあ、姫様、泥だらけじゃないですか!」
そこでジュアンが、アンドロスの腕に抱えられるデスティナに、ようやく気がつく。
デスティナの着ていた毛皮のコートも高級そうなドレスも、泥と枯葉で残念にデコレーションされている。
アンドロスの腕からデスティナを抱き下ろすジュアンは、コートを脱がせるとその泥を払う。
「泥などどうでもいい。それより、アンドロスの手当てをしてやってくれ」
デスティナは大きな瞳を困ったように下げ、ジュアンに言う。
ジュアンが見れば、アンドロスの右腕――そこに巨大な噛み痕があり、血が傷口から滲んでいた。
「どうしたんですか、その腕。なんか赤い汗が出てますけど」
「これは血だ……森の中で、キュクロプスと戦った」
アンドロスは、森の中での出来事をジュアンに説明。
「森で迷子!? アンドロスさん、姫様から目を離すなんて論外ですよ!」
「すまん――と言うか、お前だってティナの勉強中に寝てただろうが!」
喧々と言いあうアンドロスとジュアン。
それでも、一応アンドロスは怪我人。ジュアンは小言もそこそこに、アンドロスの腕に手を伸ばす。
「仕方がありませんね、手当てくらいしてあげますか」
「手当などいらん、放っておけば治る」
「そう言っている間に、治っちゃいました。アンドロスさんもオジサンなんですから、無茶してはダメですよ」
本格的にオッサン扱いされ始めたアンドロス。
面倒ごとを持ちかけられたのに、なんだか納得の出来ない立場だった。
しかし、そんな事を考えている間に、ジュアンは回復の魔法を施し、アンドロスの傷を一瞬で塞いでみせた。
さすが、”スペルデーモン”と呼ばれる高位の魔物である。
その呪文の性能は折り紙付きだった。
「すまんな、助かる」
「別にいいですよ、私もたまには魔法を使っておかないと腕が鈍りますし――それで、ご相談があるんですが」
「なんだ」
「今日の夕ご飯、どうします?」
真顔で、そんなことを聞いてくる。
アンドロスは頬をかきながら、チラリと小屋と納屋を眺めた。
アンドロス一人ならパンでも齧っていればいいのだが、デスティナはそうはいかないだろう。
しかも、アンドロスもデスティナも、森での一件で汗をかき、顔には薄く泥までついている。
「仕方がない――近くの村に出て、食事でもとるか。ついでに、風呂にも入ろう」
あまり人の住む場所には踏み入りたくないアンドロスだが、食べ物が無いのでは仕方がない。
それよりも心配なのは、お金である。
薪売りと炭焼きを生業にするアンドロスは、その蓄えも一人分。
しかも、生活に必要なものは森で収集できるため、手元にはあまりお金を置いていないのだ。
「まさか、懐事情まで気にすることになるとは――他の魔物に知れたら、沽券にかかわるな」
はぁ、と深くため息をついたところで、アンドロスは巨大な背を丸め、財布を取りに小屋へと戻った。