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迷子と単眼の狼

 小さな鼻から思い切り空気を吸い込む。

 鼻孔を通じ、肺の中へ取り込まれるのは、磨き上げられた、澄んだ森の精気。

  

「すごい、これが森――生まれて初めて来た」


 デスティナの十年間の人生のおいて、それは初の体験。

 押し寄せる深緑の香り。

 そして頬を撫でる、冷たい風。

 冬を前にした自然を、その身に感じる。


 靴の底が土と落ち葉で作られた茶色い地面を踏みしめると、ふわりと土の匂いが香る。

 赤く、艶のある長髪を揺らしながら、デスティナは森の息遣いを感じる。


「感じる。魔力も溢れている――王都とは大違いだ」


 デスティナはまるで、導かれるように、森の奥へと進む。

 先行するアンドロスが、何か言っている気がしたが、そんなことは耳に入らなかった。

 緑の匂いが濃くなるにつれ、そこに満ちる魔力もまた、純粋な物になる。

 先へ先へ。

 デスティナの足は、自らの意思とは関係なく、歩き続ける。

 と、森の香りを楽しむデスティナは、そこで気がついた。


「むっ……ここはどこだ? それにアンドロスは――」

 

 気がつけば、デスティナはアンドロスの元を離れ、森の深部へと踏み込んでいた。

 どれくらい歩いたか、自分でも覚えていない。

 十分か、二十分か――ひょっとしたら、一時間かもしれない。

 

 周囲を見渡すが、そこに色黒の大男の姿は無い。

 日も陰りはじめ、森の中は早くも薄闇に包まれていた。

 毛皮のコートに包むデスティナの肌に、うっすらと汗が浮かぶ。

 これは、いわゆる遭難ではないか。


「私としたことが、人生初めての迷子が、よりによって見知らぬ森とは……」


 巷でよく聞く死亡パターンを、うっかりと演じてしまったデスティナ。


 呟きながら、丸い顔が徐々に青ざめていく。

 そんなことを考えていると、デスティナの背後でガサガサと何かが枯葉を踏みながら歩いてくる音が聞こえた。


「ァ、アンドロス!?」


 慌てて振り向くデスティナだったが、すぐに、その顔の笑顔が凍りつく。


「…………おっと」


 そこに居たのは、アンドロスではない。

 低く唸り声をあげ、縄張りに入り込んだ獲物を威嚇する、狼。

 しかも、それはただの狼では無い。

 体胴長二メートル以上、足から肩にかけての高さは一メートル五十センチ。

 体毛は雪のように白い。

 四足歩行なのに、目線の高さはデスティナよりも、さらに高い。

 そして異様なのが、その頭部に鎮座する瞳。

 そこには、巨大な単眼が一つだけ。

 巨大にして、単眼の牙獣。


 キュクロプス。


 それは狼に似たモンスターであり、肉ならばなんでも捕食する貪欲な存在。

 しかも、一匹ではない。

 二匹……三匹……。

 先に現れた群れの長に従い、五頭ものキュクロプスが出現。

 

 キュクロプスはツンと突き出す鼻を下げ、巨大な瞳で睨むようにデスティナを威嚇。

 口からは腹の底が冷えるような唸り声が漏れており、それを前にするだけで、デスティナの膝は小さく震えだす。

 デスティナは察する。


 こいつは、間違いなく自分を喰おうとしている。

 

「ひ、控えろ、獣よ! 私はデスティナ、魔王の――」


 自らの身元を名乗ろうとした時だった。

 犬歯を剥きだす牙獣が、怒りをあらわにするような咆哮を放つ。

 デスティナは思わず数歩、後ずさり、そのままぺたんと尻もちをつく。

 尻を伝い、ヒヤリと土の冷たさを感じた。

 先ほどまで隣にあった暖かな自然は、今は、どこまでも遠いものに感じられる。

 

「く、来るな! 炎の魔法をくらわせるぞ! 火傷ではすまないぞ!」


 獣型のモンスターに、人語など通じるはずは無い。

 とにかく、デスティナは手を前に掲げ、口の中で小さく呪文を詠唱。

 しかし、恐怖に奥歯が震え、ろくに呪文など詠唱出来なかった。

 

 魔王の娘などと呼ばれてはいるが、その中身は、育ちが良いばかりの十歳の少女。

 モンスターを前に、無力であることは明白。

 頭の中が白くなっていく。

 もう、恐怖以外の何も考えられない。

 生まれて初めて、デスティナは”死”という物の恐怖を、肌で感じていた。


 そして、動かなくなった格好の獲物を目掛け、キュクロプスがその牙を光らせる。

 頭を低く、単眼の獣が地を蹴る。

 牙が狙うのは、デスティナの細い喉仏。

 

「く、来るなぁッ!」


 迫る獣臭。

 デスティナは咄嗟に体を丸め、強く目を瞑る。

 しかし、その牙がデスティナに触れることは無かった。


「えっ――?」


 顔を上げるデスティナは、そこに巨大な背中が立ちふさがっていることに気がつく。

 粗末な毛皮の上着と、そこから覗く色の黒い肌。

 アンドロスが、デスティナの前に飛び出し、その盾となっていた。


「アンドロスッ!」

「ティナ、申し訳ありません。探すのに時間がかかってしまいました」


 背後を振り向き答えるアンドロスだが、その顔が微かに歪む。

 デスティナに飛びかかったキュクロプス――その牙が、アンドロスが身体の前に構える腕に喰らいつき、そこで止まっていた。

 太く鋭い牙がアンドロスの浅黒い肌へとザックリと埋まり、鮮血が零れ落ちる。

 

 しかし、アンドロスは牙の一撃など物ともせず、噛みつかれる腕を大きく振るうと、キュクロプスの巨体を持ち上げ、そのまま地面へと叩きつける。

 体長二メートルの巨獣の体重は、良く肥えた家畜よりも、さらに重たいだろう。

 だが、アンドロスは子ウサギでも相手にするような軽々とした動作で、キュクロプスを振り回す。

 

 当たり前だが、森のモンスターごときがアンドロスに勝てる訳はないのだ。

 魔王の側近。

 最強の一体と呼ばれた”剛魔天”

 見た目はただのオッサンだが、アンドロスこそ魔物の中の魔物。


 アンドロスは自身の筋肉質な腕ごと、キュクロプスを何度も地面に打ちつける。

 やがて、アンドロスの腕に喰らいついていたキュクロプスは気絶。

 アンドロスは荒々しく首根っこを掴み、巨大な魔狼を森の奥へと投げ捨てた。


「少し、下がっていてください。すぐに終わります」


 アンドロスはキュクロプスの群れから視線を外さず、声だけをデスティナに投げる。

 デスティナは慌てて立ち上がると、近くの倒木に身を隠した。

 ドレスと毛皮のコートが汚れてしまったが、関係ない。

 アンドロスの暴力的な強さに、その眼は完全に奪われていた。


「消えろ、俺が誰か分からんのか」


 感情のない、威圧的な声。

 離れて見ているデスティナでさえ、アンドロスの怒りに身が震える。

 しかし、当のキュクロプスの群れは、唸り声を返すばかりだった。

 

「やはり、魔王様が亡くなってから、魔物たちの様子がおかしい――同族にまで、牙を向けるとは」


 言葉こそ通じない獣型の魔物だが、仲間である他の魔物を襲うようなことは、滅多にない。

 しかし、アンドロスはこの一年で、『魔物が魔物を襲う』という奇怪な事件を幾度か耳にしていた。


(生き残った魔物の間で、何が起こっている……統率する者がいなくなったことと関係があるのか?)


 そんな疑問が頭をよぎるが、獣の唸り声に、思考を引き戻される。

 アンドロスは怒りに燃える蒼瞳で、四頭のキュクロプスを睨む。


 腕に力を込めると、それだけで、噛み痕からの出血は止まる。

 攻撃力だけでなく、再生力までも備えた不死身の化け物。

 それを前にしては、森の魔物など、ただの子犬同然。


「来るなら来い。まとめて相手をしてやる」


 アンドロスは言葉と共に、その眉を吊り上げ、不敵に笑う。

 新たな主君の危機――そんな緊急事態だというのに、アンドロスは一年ぶりの戦闘に血が騒いでいた。

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