雪の日
昨晩から降り続けた雪が、世界を白一色に変えていた。
デスティナは窓の外に広がる雪景色を眺め、その黄色い瞳を輝かせる。
「なあ、アンドロス! 今日は狩りに行こう!」
窓の縁につかまり、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら言う。
赤銅色の長髪がふわふわと宙で楽し気に揺れ、デスティナが好奇心を露わにする。
暖炉の前に座り、弓の矢じりを研ぐアンドロスは、そんなデスティナを見て太い眉の下で瞳を笑わせた。
「そうですね、山鳥でも取ってきて夕飯にしましょう」
ちょうど、弓の手入れが終わったところである。
アンドロスはその巨体で立ち上がると、窓を開け、天気を確認する。
ここ数日、夜は外気マイナス二十度を下回る日々が続いていた。
森の冬は厳しく、それを補うためのエネルギー摂取は不可欠。
アンドロスは新鮮な肉を求めて、なおかつデスティナの要望に応えるため狩りに出ることに。
デスティナ達と生活をはじめて、一か月が経った。
今ではすっかりデスティナも森の小屋暮らしに慣れ、よくアンドロスに連れられて森の中で狩りや散歩を楽しんでいる。
森での生活は、不便を極める。
飲み水、食料、暖を取る燃料、野生動物の脅威、トイレの問題――およそ、魔王の娘であるデスティナと縁があるとは思えない問題が、山となって押し寄せる。
しかし、デスティナは一度も文句を口にしたことは無い。
むしろ、アンドロスやジュアンとの自由な生活を楽しみ、出会った時よりも、よく笑うようになったと感じる。
魔王と同じ瞳を持つ少女が、屈託なく笑う。
そんな笑顔を見るたびに、アンドロスは失いかけていた魔物としてのプライドを、少しずつ取り戻しているように感じた。
(ただ狩りに行くだけなのに、何を感傷的になっている……俺も、もう年か)
口の中で呟き、苦笑する。
ウサギの毛と丈夫な皮を縫い合わせたブーツを履き、弓と矢筒を担ぐと、狩りの準備は完了。
家を後にしようとしたところで、アンドロスはもう一人の同居人に視線を投げる。
「おい、お前はまた寝ているのか。たまには一緒に狩りにでも来い」
暖炉の前で、溶けるような寝顔で昼寝をするのは、ジュアン。
朝が弱い彼女は、午前中のほとんどを昼寝で過ごし、デスティナの勉強の面倒と魔法の練習を行うのは、きまって後から。
本来なら一喝し、無理やりにでも起こしたいところのなのだが、最近のアンドロスはジュアンに頭が上がらない。
つい先日、ジュアンはたった一日で大金を稼いできた。
それは三人で冬を越すには十分な金額――今、アンドロスが食べ、時々嗜む嗜好品の類は、全てジュアンが稼いできたお金で賄われている。
仕事の内容を話したがらないジュアンだが、大方、街でインチキ占いでもやって儲けてきた金だろうと推測。
とはいえ、少しだけ彼女を見直したアンドロスだった。
「むにゃ――外は寒いじゃないですか、私は家を守っていますよ」
ジュアンはトロンと蕩けた瞳でアンドロスを見つめ、大きく欠伸。
インテリメガネに暖炉のオレンジ色の炎を映し、またその瞳を閉じてしまう。
「なんてずぼらなヤツだ。魔王様の傍で働いていた時とは別人だな」
「まぁ、今はそれだけリラックスしているということです。アンドロスさんを信頼している証ですよ」
ジュアンの言う『信頼』という言葉に、紙ほどの薄っぺらさと軽さを感じつつ、アンドロスはため息だけを返す。
そうしている間に、デスティナは外出用のコートに着替える。
暖かそうな、清楚な白い毛皮のコート。
そして頭には、猫耳のあしらわれたニットキャップを深くかぶる。
この帽子も、ジュアンが謎の仕事で儲けてきたお金で買ったもの。
歩くたびに猫耳がふらふらと揺れる、なんとも気の抜けた――しかし、なぜかデスティナによく似合う可愛らしい帽子である。
「よし、行こう!」
そう言って、小屋を飛び出すデスティナ。
しかし、アンドロスは困ったように太い首をかしげてしまう。
「分かりました……ですが、卵は置いていった方がいいと思いますが」
もこもこの毛皮で全身を包むデスティナ。
しかし、その首に巻くマフラーだけが、そこに存在しない。
見れば、デスティナの抱える巨大な卵――シームルグの残した白いそれに、ぐるぐるとマフラーが巻き付けられていた。
「それはダメだ。この子は私が育てると決めた。片時も離れないぞ」
巨大な卵をギュッと抱きしめ、デスティナが嬉しそうに瞳を和ませる。
こんな幼い少女にも母性があるのかと驚きつつ、真っ直ぐな道徳観と責任感に、アンドロスは深く感心。
「ご立派です。どこかの腑抜け悪魔にも見習わせてやりたいですね」
「……聞こえてますよ」
アンドロスの言葉に、ジュアンがバツの悪そうな顔で見上げた。
そんな気だるげな視線を背に、アンドロスとジュアンは白い森へと踏み出した。
◇◆◇
皮のブーツが淡雪を踏みつける、柔らかい感触。
白い地面を踏むたび、ギュッと雪を押し潰す音だけが森に響く。
木々の間から差し込む陽ざしは温かく、キラキラと輝く雪面は、久方ぶりの日差しに大地が喚起しているようにも見えた。
「雪は面白いな。街の子供は、きっと雪で色んな遊びを思いつくんだろうな」
「ティナは、あまり雪遊びをされたことがないのですか?」
「うん、私、ここに来るまであまり外に出たことが無かったからな」
少し寂し気な視線で遠くを眺め、デスティナは靴の先で雪を蹴る。
一か月という期間、生活を共にしたとはいえ、まだアンドロスはデスティナの詳しい境遇を聞いていない。
ジュアンも頑なにそれは語ろうとはせず、何か深い事情があるのだろうと察する。
しかし、アンドロスは無理にデスティナの事情を知ろうとは考えていない。
困ったことがあり、アンドロスを頼ってやって来た――そんなデスティナを預かるのは当然であり、理由はいらないと考えていたから。
と、アンドロスが優れた五感を頼りに獲物を探している時だった。
不意に、アンドロスの足が止まる。
アンドロスの青い瞳が見つめるのは、前方五十メートル先。
それは、見落としようのない姿。
白い雪の世界の中にポツンと、黒いローブに身を包む人物が居た。
一瞬、地元の狩人かと思ったが、違う。
アンドロスは、その太い眉をひそめ、青い瞳に獰猛な輝きを宿す。
「アンドロス、どうしたんだ?」
立ち止まったアンドロスを見上げるデスティナも、目の前に忽然と現れた人影に気づいたようだった。
「ア、アンドロス――あれは、この近くに住む人か?」
まるで案山子のようにその場に立ち続ける、黒いローブの人物。
寒風の吹き抜ける森の中、ジッと佇むその姿に、幼いデスティナも不信感を抱いた様子。
「いえ狩人ではありません――おそらく人間ですらないかと」
「じゃあ、魔物か?」
「そうかもしれません。が、何か様子がおかしい……」
アンドロスは警戒心を引き上げる。
ローブの人物――そこから、生き物としての息遣いが感じられなかったから。
アンドロスは人間の数十倍も五感が優れており、相手の心音や微かな息遣いまでも聞き取ることが出来る。
しかし、目の前のローブの人物からは、それらの生物としての活動が一切感じられなかった。
「ティナ、家には一人で帰れますか」
「う、うん」
「なら、先に帰っていてください。狩りはまた、明日にでも行きましょう」
背後に立つデスティナに振り向き、アンドロスはその頭をよしよしと撫でる。
デスティナは小さく首肯すると、すぐに踵を返し、小屋への道を戻っていった。
デスティナの足音が遠ざかる。
アンドロスはゆっくりと歩みを進め、間近で黒いローブの人物と向き合う。
フードを深く被っており、その顔を確認することは出来ない。
アンドロスは胸の中で、忘れていた闘争心を呼びおこした。
「さて、貴様は何者だ」
アンドロスが口火を切ると、黒いローブがゆらりと揺れた。
「ヒ、ヒメ……」
「ん? なんだ」
「ミツケタ、ヤット……」
しゃがれた声。
微かに笑みが含まれるその声を聞くと同時。
ローブの人物の身体が前のめりに倒れると、地を蹴り、アンドロス目掛け、一気に飛び出す。
ローブの人物はダラリと垂れさがる手を振り抜く。
その手に、輝く刃が握られていた。
狙うのは、アンドロスの太い首筋。
白刃が振り抜かれると、輝く雪面に、赤黒く、ねっとりとした血が飛び散った。




