穀潰しのアルバイト 後編
短いスカートの裾を揺らし、ジュアンは薄暗い酒場を忙しなく歩き回る。
木張りの床の上を行きかうのは、同じように、サイズの小さなシャツとスカートを身に着ける、若い女性たち。
「意外と忙しいですね、お昼から、こんなに酒場って賑わうものなんでしょうか」
空になったジョッキを幾つも持ち、厨房と客の待つテーブルとを往復。
酒場と言えば、昼間は簡単な食事を提供するだけの場だと思っていたが、ここは早い時間から、酔っ払いたちの喧騒で満ちている。
窓から差し込む日光を眺めながら、ジュアンは嘆息。
この光景は、明らかに異様。
ここが少し”特殊”な店であるとはいえ、この盛況ぶりは予想外だった。
働き盛りの男達が朝から酒を飲み、若い女性たちが羞恥を捨てて働く――それが、今の人間の社会なのだろうか。
「人間社会も複雑ということですか……いい勉強になりますね」
ジュアンは嘆息しながらも、口元の引きつる笑顔で接客を続ける。
幸い、要領がよく、記憶力も良いジュアンはすぐに店の仕事や接客を習得。
もともと単純作業の連続であるため、二時間も働くと、すっかり店の雰囲気や仕事の量にも慣れていた。
恥ずかしい恰好にさえ目を瞑れば、意外と楽な仕事ではないか。
そう思った瞬間だった。
「ひゃッ!?」
客の帰ったテーブル――その食器を片づけるジュアンだが、その場でぴょんと身体が跳ねる。
テーブルの食器を片づけようと前かがみになった瞬間、その小ぶりなお尻に軽く衝撃を感じたのだ。
慌てて振り向けば、隣のテーブルに座る酔っぱらった中年が、卑下た笑みを浮かべている。
どうやら、前かがみになるジュアンのお尻を撫でたらしい。
「くっ――人間ごときが、私の身体に触れるとは……」
怒りに任せ、店ごと魔法で吹っ飛ばしてやろうかと、その顔に殺意を浮かべる。
「ジュアンさん、堪えて堪えて……あのお客さん、いつもこうなんです、気にしちゃダメですよ」
ジュアンをなだめたのは、一緒に働いている少女――更衣室で知り合ったココである。
ココは大人しそうな瞳の目じりを下げ、困ったように首をかしげて見せる。
こんな子供に諭されては、魔物失格である――ジュアンは仕方なく、その怒りを腹の底へと押しとどめた。
「……まぁ、ココさんがそう言うのなら」
顔を真っ赤にし、ズレた眼鏡の位置をなおしながら、ジュアンが深く息をつく。
怒りを抑えたジュアンに頷きながら、ココはおさげをふりふりと揺らし、また別の客の元へ向かう。
どうやら、ココはこの店の客の対応にも慣れている様子。
まだ十代半ばと思われる少女の大人びた態度に、ジュアンは少し頭を冷やした。
そのまま、気を取り直して接客を続ける。もちろん、先ほどの酔っ払いを警戒しながら。
そうして、小一時間ほど働いた時だった。
「ちょっと――や、止めてください!」
店の喧騒を切り裂き、悲痛な叫び声が響いた。
慌てて声の方向を振り向くと、ジュアンの表情が固る。
「ココさん……!」
先ほど、ジュアンのお尻を撫でた酔っ払いの中年――それが、今度はしつこくココに絡んでいた。
今度はココの身体に手を回し、その体を強引に引き寄せ、抱き着いている。
客と言えども、あまりにも節操のない行為――ジュアンは助けを求めるように店内を見渡す。
しかし、そんな酔っ払いの行為を咎める者は誰もいない。
厨房の男達も、店の奥から顔を覗かせる店主も、そして他の従業員たちも。
誰もココを助けようとはしない――まるでそれが、この店での日常であるかのように無関心。
ジュアンは大きなため息をつくと、その瞳に怒りを宿らせた。
スカートから伸びる、色の白い生足は、まっすぐにココに絡む酔っ払いへと向かう。
面倒くさがり屋で、他人に興味のないジュアンであっても、我慢の限界というものがある。
ココは、何も知らずにこの店に入ったジュアンに、色々と教えてくれた恩人。
人間とは言え、受けた恩に報いるのは、ジュアンなりのプライドである。
「お客様、ちょっとよろしいですか」
落ち着き払った声で、ココに抱き着く酔っ払いに言う。
そして、酔っ払いが顔を上げたタイミング。
ジュアンは男の顔の前に手を差し出すと、息をするように、魔力が発生。
ごく小威力の衝撃魔法、それが男の顔面に炸裂。
男は悲鳴を上げて後ろのめりに転倒した。
男が突き放したココの華奢な体を、ジュアンは優しく抱きとめる。
「大丈夫ですか、ココさん」
声をかけると、ココは何が起こったのか分からず、大きな瞳を瞬かせ、ジュアンを見つめる。
そして、自分がジュアンに抱き留められていると気がつくや、その顔が赤く上気。
まるで王子様とお姫様――そんな体勢に、ココが上ずった声と共に何度も頷く。
「は、はいっ、ありがとうございますっ」
慌てて、自分の足で立つココ。
ジュアンは優しく笑うと、ココを自分の後ろに下がらせる。
「おい、何しやがんだ、小娘ぇ!」
すっころんだ酔っ払い中年が立ち上がると、羞恥と酔いに赤くした顔でジュアンに詰め寄る。
「姉ちゃん、なんか用か? もしかして、また尻でも触ってほしいのかい」
下品な笑い声と、酒臭い息。
しかし、ジュアンは気にしない。
ただ、ジッと男を見つめて、静かにつぶやく。
「謝って下さい」
「あァ?」
「ココさんに謝って下さい。あなたの下品な行為は目に余ります」
「謝る? 俺が何か悪いことしたか!? ふざけんじゃねーぞ!」
言って、男が酔った勢いのまま、テーブルに置かれた酒瓶を取り、ジュアンに向かって振り上げる。
明らかな攻撃の意思。
魔物であるジュアンが、もはや愚かな人間相手に遠慮する理由は無かった。
ジュアンは色素の薄い唇を微かに動かし、呪文を詠唱。
細い指をパチンッと打ち鳴らすと、即座に魔法は発動。
男が握りしめる酒瓶が、音を立てて破裂。
続いてよろけた男が手をつくテーブルが、木っ端みじんに吹き飛んだ。
丈夫な木材を組んで作られたテーブルが、一瞬で木片に変化。
ジュアンの魔力の一端を目にし、酔った男をはじめ、店に居る全員の顔が凍りついた。
「ま、魔法ッ? お前、魔法使いか! なんでこんな店で働いてやがるッ!?」
聞かれ、ジュアンは鼻から「ふん」とつまらなそうに息をはく。
「そんなこと、貴方に関係ありません――それより、謝罪がないのでしたら、この続きをはじめさせてもらいますよ」
眼鏡の奥で、グレーの瞳が冷たく輝く。
ジュアンの静かな、しかし、圧倒的な怒気を前に、中年男性は小さくその身を震わせる。
「か、勘弁してくれ! ちょっとムシャクシャして手が出ちまっただけなんだ――」
「あなた、ムシャクシャしただけで女性に手を上げる不埒者なのですか? でしたら、生かしておく価値はありませんね」
「違うッ! その娘が死んだ女房の若いころに似てて――もう絶対に手は出さない……許してくれ」
男は言うと、人目もはばからず、その場で泣き出してしまう。
自らの情けない姿と、辛い身の上を思い出し、たまらず涙が堰を切ったようだった。
泣いて謝られては、これ以上の攻撃を加える気にはならなかった。
ジュアンは男の前にしゃがむと、その顔を覗き込み、視線を和らげる。
「顔を上げなさい。辛いことなんて、誰にでもあります――しかし、それに他人を巻き込んではいけません。あなたは、その辛さを知る立場なのですから」
人間に優しくするつもりなど、毛頭ない。
しかし、ジュアンはふと、考えてしまう。
自分も一年前、魔王という父親に等しい存在を失ったばかりだった。
大切な人を失い、逃れようのない喪失感に襲われる気持ちが、分かってしまう。
小汚い、酒臭い中年オヤジだが、その瞳が流す涙に穢れがないことを見て、説教じみたことを口にしてしまった。
ジュアンの言葉に感化されたのか、男はすっかり大人しくなり、ぽつぽつと身の上を語り始めた。
男は街道で商売を営む道具売り。
しかし、一年前に魔王が討たれ、冒険者や傭兵の数はすっかり減ってしまった。
運悪く、同時期に妻が流行り病にかかってしまう――しかし、道具売りとしての商売は立ち行かなくなり、薬も満足に買えない状況が続いた。
そして半年前、ついに薬を買えなくなり、妻は衰弱し、亡くなったという。
妻を亡くしたことで男は自暴自棄になり、家財や商売道具の一切を売り払い、その金で酒浸りの毎日を送っているということだった。
男の身の上話を、ジュアンは最後まで黙って聞き続けた。
話が終わると、男はふらふらと立ち上がり、ココに向かって頭を下げる。
どうやら、根から腐った人物ではなかったらしい。
と、そんなやり取りを遠巻きに見ていた男の一人が、叫ぶように声を上げた。
「お、俺の話も聞いてくれ……俺も最近仕事を無くして――ちくしょう、この年じゃあ、もう誰も俺を雇ってくれない」
涙の滲む男の声――それに続くように、続々と男達が声を連ねた。
「そうだ、俺も武器屋で働いていたんだが、最近仕事にあぶれちまって――魔王が死んじまったから、もう武器なんて売れないんだよ」
「鍛冶屋も仕事にならないぜ、魔物どもはすっかり大人しくなっちまって……なァ、姉ちゃん、俺の話も聞いてくれよ」
昼間から酒場に集まる、おっさんたちの視線。
それが、一斉にジュアンに集まる。
どうやら、ジュアンの柄にもない説教が、人間達の心に染み込んだらしい。
ジュアンは額に汗を浮かべ、眼鏡の奥のグレーの瞳を困ったように下げた。
「…………なんだか、妙なことになってきましたね」
◇◆◇
数時間後。
ジュアンは控室に戻り、帰り支度をしていた。
あの後、店の仕事は一切せずに、疲れた男達の話し相手をし続けた。
皆、話し相手が欲しかったのか、ジュアンに自らの身の上を語り、中には泣き出す者までいた。
聞けば、多くは冒険者や、それを相手にした商売を行う者。
魔王が死に、人間社会の経済バランスは激変。
武器、防具、魔法道具――戦闘に必要とされるものは一気に需要が減り、大規模な経済変動が起こっているという。
人間は手に職を持つため、一つの仕事に従事する、職人社会である。
一度、仕事を失った者は次の職を見つけることが出来ず、こうして酒場で時間を潰すしか、やることがないのだとか。
話を聞いてやると、男達は不思議と大人しくなり、暴れ出すことは無くなった。
最後には店の店主からも感謝され、謝礼まで受け取った。
しかし、ジュアンとしてはもう、こんな仕事は御免である。
制服を突っ返し、今日限りで仕事を辞めることを伝えた。
「あ、あの、ジュアンさん!」
店の衣装から、黒い清楚なロングスカートに履き替えたところで、どこか切羽詰まる声がその名を呼んだ。
振り向けば、そばかすが印象的な少女の顔があった。
「あら、ココさん――今日はお疲れ様でした」
ジュアンが疲れた笑みを浮かべる。
男達の話し相手をするのは、酒場の仕事の何倍も疲れる。
ちょっと顔色の悪いジュアンに対し、ココの顔は思いつめたように赤く上気していた。
「ありがとうございました……私、今日はとっても嬉しかったです」
ココが大きく頭を下げると、ジュアンは小さく首を横に振った。
「当然のことをしたまでです。気にしないでください」
「はい……あの、もうお店に来ないんですか?」
聞かれ、ジュアンは困ったように眉根を下げる。
もとはと言えば、アンドロスを見返すために、勢いで始めた仕事。
目的の金銭を得ることが出来れば、もうこの仕事を続ける意味は無かった。
「そうですね、またお金が必要になったら分かりませんが、いったん、これでお終いにします」
「そ、そうですか……残念です」
ココはお下げを揺らし、寂し気に俯いてしまう。
人間相手に感傷的になるつもりなどない――しかし、自分との別れを悲しんでくれる者がいることに、ジュアンは穏やかな笑みを浮かべていた。
「そんな顔をしないで下さい。私はこの街の近くに住んでいるので、きっとまた会えますよ」
ジュアンが言うと、ココは顔を上げ、儚い笑みを見せる。
魔物の中には、こんなに素直な表情を見せる者は少ない。
別に人間のことなど好きではないが、ココの素直な感情表現には好感が持てた。
ジュアンはココと握手を交わすと、そのまま振り向かず、店を後にする。
陽は落ち、街に立ち並ぶ店先には、煌々と輝くランプが吊るされている。
これからが、本当に酒場が賑わう時間。
ジュアンはその賑やかさを背に、闇に紛れるように街を後にする。
なんだか、デスティナの世話をするよりも疲れる一日だった。
しかし、人間という異種族について、少し理解が深まったとも感じる。
その身にたまる疲労が、どこか心地よくもあった。
こんな気持ちは、魔王の側近として働いていた時以来――実に一年ぶりである。
「たまには、仕事をするのも悪くありませんね」
そんなことを呟きながら、ジュアンは空を見上げる。
夜空には大きな月と星が輝いている。
それが疲れ切ったジュアンを慰めるように、帰り道を白く照らしていた。




