姫様と霊鳥
シームルグの言葉に、アンドロスとジュアンは言葉を失う。
魔物にとって、内に秘める魔力とは、その肉体を作り上げる要素の一つ。
それは自らの命と同義――それを、デスティナに渡すと、シームルグは言うのだ。
言われたデスティナは、朱い髪を振り、その言葉を拒絶。
「そ、そんな、私には受け取れません。シームルグ殿、傷が癒えるまで、どこかへ身を潜めて下さい」
デスティナたちがここを訪れたのは、あくまでシームルグの保護。
その命を奪うためではない。
だが、全てを悟りきった”長老種”は、クチバシを左右に振る。
『良いのですよ、姫様。私は長くを生き過ぎました――その最後の仕事を、どうやら魔王様が用意して下さったようです』
言いながら、その瞳で洞窟の闇――なにも無い、冷たい空間を眺める。
『それに、私はもう動けません。アンドロス殿の言葉が確かなら、明日の朝には、私は人間達にあっさりと討伐されるでしょう――なれば、この命を姫様にお預けしとうございます』
「けれど……そんな……」
シームルグを助けに来たはずのデスティナは、逃れようのない事実に顔を伏せる。
その小さな拳は強く握りしめられ、自らの無力さに怒りすら抱いているようだった。
『”蝕み”の力をお使いなさい。使いかたは、私がお教えします』
言われ、デスティナが震える瞳でシームルグを見る。
”蝕み”
魔力を吸い取る、魔王の秘術。
この力ゆえ、魔王は全ての魔物の頂点に君臨し、吸い取った魔力から、新たな魔物を生み出すことが出来るのだ。
しかし、それは幼い少女には過ぎた力でもある。
自ら、感情のある生き物の命を奪う。
そんな恐怖を、デスティナが受け入れる訳が無かった。
そんな時、震えるデスティナのその背を、優しくアンドロスが叩く。
「シームルグ殿は余命いくばくもありません。その最期の願いを、叶えてあげてください」
シームルグと話し、アンドロスは気がついていた。
この”長老種”の寿命が、もう長くは無いことを。
それは数々の死線を戦い抜き、魔物、人間、動物問わず、多くの死を目の当たりにしてきたアンドロスの、確かな直感。
シームルグの微かな息遣い。
弱り切った心音。
そして、自らの死すらも受け入れた、穏やかな言葉。
それらは全て、安らかな最期を迎えるために準備されたものである。
頭を下げるアンドロスだが、心中で苦々しい思いを噛みしめていた。
デスティナは魔王の娘である以前に、人間の少女でもある。
争いを好まず、不器用で武骨なアンドロスにも偏見を持たずに接する、美しい心を持っている。
そんな少女に、目の前の老いた魔物を殺せと言っているのだ。
当然、デスティナはアンドロスの頼みにも、首を横に振る。
「無理だ、私には出来ない――なぁ、ジュアン、お前の回復魔法で、シームルグ殿を助けてやってくれ」
涙を浮かべる瞳で、デスティナが傍らに控えるジュアンを見る。
しかし、ジュアンの顔に浮かんでいるのは、普段の呑気な侍女の笑みではない。
魔物である、冷酷な彼女の薄暗い部分。
「姫様、”蝕み”を習得する良い機会です。シームルグ殿の英知をお借りなさい」
感情の無い声でジュアンに言われ、デスティナが小さく息を飲む。
ジュアンは、アンドロスが言い難いことをあっさりと言ってくれた。
その非情さと合理的な思考――そして、シームルグの最期を悼む優しさにアンドロスは声に出さず感謝。
顔を伏せて逡巡するデスティナだったが、次に顔を上げた時、そこには小さな決意の輝きがあった。
覚悟の良さは、魔王譲りか。
デスティナは、アンドロスとジュアンの願いを感じ取るように、小さく頷く。
死期の迫る魔物、その最後の願い。
それを叶えるのが、自分の役割だと心得たのかもしれない。
「分かった――シームルグ殿、本当に良いのですか」
デスティナが問うと、数千年を生きる魔物は、ゆっくりと頷いた。
◇◆◇
ジュアンの使う灯炎の呪文が、闇の中にデスティナとシームルグを浮かび上がらせる。
デスティナは目を瞑り、シームルグの頭部――その額に触れる。
『集中して、私の鼓動を感じてください』
言われ、デスティナはその黄色い瞳の瞼をおろす。
気持ちを穏やかに保ち、自らの呼吸とシームルグとの呼吸を合わせる。
アンドロスは離れた位置から、少女と巨鳥の別れの儀式を見守る。
「心配ありません、姫様を信じましょう」
顎を撫で、そわそわと落ち着かない様子のアンドロスに、ジュアンが静かな声を返す。
洞窟を吹き抜ける湿った風が、ジュアンの長い黒髪を靡かせる。
ジュアンは指で前髪を整えながら、小さくアンドロスに笑って見せた。
「姫様は賢いお方です――きっと、シームルグ殿の願いを聞き入れてくれますよ」
「……そうだな」
ジュアンの柔らかな言葉には、不思議な説得力があった。
やがて、洞窟の空気が変わる。
風が止み、暗闇はさらに深く――まるで死神の手中に囚われているような、うすら寒さが周囲を包む。
アンドロスの二メートルを超す巨体が、ぶるりと震える。
それは本能。
デスティナが使役する”蝕み”――その力を間近で感じ、アンドロスの身体の中にある魔力が恐怖しているのだ。
そんな死にも等しい力を感じながらも、シームルグの声は穏やかだった。
『そうです。あなたの心の黒い部分と温かい部分、それで私を包み込んでください――お上手ですよ、姫様』
概念的なシームルグの言葉を、デスティナはしっかりと理解しているようだった。
目を瞑り、静かに呼吸を繰り返すデスティナの身体に、魔力が沸き上がる。
デスティナの小さな体にたまる魔力――それが受け皿となって、シームルグの魔力を吸い取っていく。
それは魔王が使っていた、完璧にして、即死を意味する”蝕み”とは、毛色が違うように思えた。
デスティナが使役するそれは、相手の痛みを取り去り、安らかな眠りを与えるような、救いの魔法に見える。
やがて、シームルグの身体がゆっくりと発光。
魔物としての姿かたちを失い、魔力の残滓になろうかとしていた。
『アンドロス殿、最期に一つ、頼みがある』
命を終えようとする魔物が、そのクチバシを小さく動かす。
顔を上げるアンドロスを、その光を失った金色の瞳が見つめていた。
『私の身体の下に、卵がある。それを育ててはくれないか――私の最後の子供だ』
言われ、アンドロスは驚いたように目を見開く。
見れば、消えゆくシームルグの身体の下――そこに、アンドロスの頭よりも大きな卵が転がっている。
それは、シームルグがこの世に生きた証の一つ。
アンドロスは静かに、しかしはっきりとした声でシームルグに答える。
「ご安心ください、この”剛魔天”が責任をもって育てます」
失ったはずの肩書を口にするのは、アンドロスなりの覚悟の現れ。
一匹の魔物としてではなく、魔王に認められた魔物としての責務として、その願いを受け取る。
それをはっきりと聞き届けたところで、シームルグの金色の瞳がゆっくりと笑い。その瞳が閉じられる。
シームルグがこの世での役目をすべて終えた時だった。
極彩色のシームルグの身体が、花火を思わせるように、光の粒子となって爆ぜる。
音は無い。
闇の中に咲く大輪の華――それはシームルグを形成していた魔力そのもの。
美しくも儚い輝きのそれが、差し出すデスティナの手の平へと吸い込まれていく。
”蝕み”の力を使い、デスティナがシームルグの魔力を吸い取っているのだ。
魔王にのみ許される、死と破壊の力。
デスティナは、それを習得した。
しかし、その顔には喜びは無い。
少女の顔には、ただただ悲しみが浮かんでいた。




