一年後、静かな森の中
いつもと変わらない朝だが、今日は少しだけ、空気が冷たい。
木々の間から降り注ぐ朝日に、アンドロスは小さく溜息をついた。
吐く息は白く、しばし宙を漂った後、吸い込まれるように空へ消えていく。
「魔王様……見ておられますか。今日も世界は、変わらず美しいです」
そう告げると、朝日に向かって目をつぶり、しばし黙とうを捧げる。
信心深い光景だが、アンドロスはれっきとした魔物である。
身長二メートル。
浅黒い肌に、伸び放題の髭と黒い頭髪。
筋肉質な肉体を薄手の皮服で包んでおり、その頭に角が二本生えている。
見た目だけは人間と大差ない姿ではあるが、その体は魔王の魔力と穢れた血肉で形成されている。
一年前。
”転生者”と名乗る少年と、魔王の戦い。
それに魔王が敗北してから、アンドロスは魔物としての全ての肩書を捨てて生活していた。
ここは名前も無い、人里離れた森の中。
鬱蒼と木々の茂る、自然と動物の息遣いが交わる、森林地帯。
アンドロスはそんな場所に、ひっそりと居を構えていた。
そこは、身を隠すにしても、静かすぎる場所だった。
◇◆◇
アンドロスは片手で薪割斧を振り上げると、息をするように振り下ろす。
乾いた音と共に薪は割れ、また新たな薪を割る――それを黙々と繰り返す。
アンドロスは、魔王の側近でも最強と謳われる、”剛魔天”の称号を持つ、最高位の魔物だった。
しかし、一年前に”転生者”との戦いに敗れ、深手を負い、この地へと逃げ延びたのだ。
「お前は――まだ死ぬな、人間の治めるこの世界を見届けよ」
それが、魔王がアンドロスに向けた最期の言葉。
薪割斧を握る手に、熱が籠る。
やり場のない怒りは、この一年、ずっと苛まれてきた、自らの無力さに起因する。
魔王の最期の言葉――それが、『死ぬまで戦い続けろ』だったら、どれだけ楽だったろう。
主君と共に散ってこその忠君ではないか。
しかし、アンドロスへ向けられた最後の命令は、『生きろ』というもの。
”転生者”に敗北を喫して以来、アンドロスはその命令を律儀に守り、目立った行動は慎み、こうして山での生活を続けてきた。
人間への復讐など考えてはいない。
魔王が居なくなったことで、世界は良くも悪くも、人間が収める『平和』を手に入れた。
人は平穏に暮らし、無駄に魔物を殺すことも無くなった。
もう、アンドロスが戦う理由は無い。
このまま、人間の真似事でもしながら生涯を終えるのも、悪くはないと考えていた。
黙々と薪を割り続ける。
もうすぐ、冬が近い。
この薪を窯で焼き、木炭にして近隣の街へ売りに出る――いわゆる炭焼きが、今のアンドロスの仕事。
そのまま薪として売っても良いのだが、木炭にしたほうが良い値段がつくのだ。
魔物とは言え、飯を食わなくては生きてはいけない。
人間に媚びを売って生きるなど、情けない。
そんな言葉が、この生活をはじめてから、幾度も喉から飛び出しかける。
しかし、魔王が残した最期の言葉が、その一言を飲みこませていた。
「アンドロス様」
薪を割り、納屋の脇に積むこと、半日。
朝、祈りを捧げた太陽が山の後ろに隠れようとした時、アンドロスは一年ぶりに、その名を呼ばれた。
アンドロスが顎鬚を撫でながら振り向くと、そこには懐かしい顔が立っていた。
それは大柄で筋肉を服のように纏うアンドロスとは真逆の存在。
暖かそうな毛皮のコートと、歩きにくそうな、足首まで隠れる黒いスカート。
頭には白いハンチング帽を被り、レンズの薄いメガネを着用。
小さな輪郭の上に、左右に垂れる大人しそうな瞳と、色素の薄い唇が並ぶ、大人しそうな女性が立っていた。
「ジュアンか、久しぶりだな」
アンドロスは太い眉の下で、青色の瞳を微かに笑わせる。
夕日を背に立っていたのは、アンドロスより頭二つ分ほど小さい、小柄な女性。
丁寧な所作でお辞儀するのは女性は、ジュアン。
長い黒髪が、森を吹き抜ける風に乗って揺れる。
聡明な人間女性を思わせるジュアンも、アンドロスと同じ、魔物。
今は服の下に隠しているが、その背中には小さな羽が生えており、お尻からは尻尾も伸びている。
魔法を多用する魔族、”スペルデーモン”と呼ばれる種族。
まだ十代後半に見える若い見た目だが、これでも百年以上を生きる存在であり、一年前まで、魔王城で書記官として働いていた優秀な魔物である。
「お前も生きていたか。嬉しいぞ」
そう言うアンドロスだが、そこに感情は籠っていない。
かつての仲間は、もう誰が生きていて、死んでいるかも分からない。
敬愛する魔王が討たれてから、アンドロスはそんなことも気にしなくなっていた。
言葉ばかりで気持ちの籠っていないアンドロスに、ジュアンは少し眉根を下げて笑って見せる。
「アンドロス様もお元気そうで何よりです」
ジュアンは言いながら、小さく笑って見せる
こんな森の奥に、手にはバッグを一つ。
魔王が死んで一年目のタイミングでアンドロスを訪ねてきたのは、何か理由があるのか。
そんなことを考えながら、アンドロスはジュアンを見る。
「もうすぐ陽が落ちる。寒くなるから、家に入るぞ」
野太い声で言うと、ジュアンは素直に従った。
アンドロスは薪割斧を肩に担ぎ、すぐ後ろの粗末な小屋へと戻った。
◇◆◇
アンドロスが住むのは、森の中に自分で建てた小屋。
内装は貧相で、アンドロス用の巨大なベッドが一つ。テーブルが一つ、椅子が二脚、そして暖炉が一つ。
暖炉の脇には食料などを仕舞う棚が一つあるだけ。
壁には、寒さをしのぐための毛皮の上着が一枚だけ吊るされていた。
代えの服や日用品は、全て小屋の隣にある納屋にしまわれている。
小屋から椅子まで、全て、アンドロスが手でこしらえた物。
こんな生活をはじめるまで、自分がこれほど器用だったとは気がつかなかった。
アンドロスは暖炉に火を入れると、そこに吊るされる鍋を使って夕食を作る。
作るのは、乳製品と食材を一緒に煮ただけのもの――簡単なシチューだった。
チーズや調味料は、街で買ってきた。
しかし、具材はすべてアンドロスが山を歩いて集めてきたものである。
キノコと山菜、そして弓で仕留めた山鳥の肉。
それらをナイフで切り、鍋にまとめて放り込み、山の冷水を注ぎ、茹でる。
料理というには、シンプルというか、恐ろしいほどの手抜き加減。
無言で待ち、時々、鍋の奥をヘラでかき混ぜる。
ぐつぐつとシチューが煮えたところで、納屋から皿とスプーン、そして長期保存の効く硬いパンを持ってくる。
アンドロスが夕食の準備をしている間、ジュアンは椅子に座り、一言も発さず、その仕事ぶりを眺めていた。
(今の俺は、惨めな姿と思われているだろうか)
アンドロスはそんなことを考えるが、それをジュアンに聞く気にもなれず、黙って作業を続ける。
具材が柔らかくなったところで、シチューを木の器に盛り、テーブルに並べた。
「森の中は冷えただろう、喰え」
「あ、ありがとうございます」
アンドロスが顎でしゃくると、ジュアンは恐る恐る、シチューへスプーンを伸ばす。
そのまま、よく煮えた野菜を口に運ぶと、その頬がゆっくりとほころぶ。
「とても美味しいです……意外ですね」
ジュアンは言いながら、目を丸くする。
今まで難しそうに眉を寄せていた顔が、笑顔になった。
本当に、アンドロスの料理が旨いとは思っていなかったのだろう。
食事を続けていると、いよいよ陽が落ち、小屋の中が薄暗くなる。
アンドロスは天井にぶら下げたランタンに火を灯す。
ぼんやりとした灯りの下で、二匹は黙ってシチューをすすった。
「なにがあった」
切り出したのはアンドロス。
元々、口数が多くはないアンドロスだが、別に沈黙を好むわけではない。
しかも、目の前で何か言いたそうにモジモジされては、こちらから切り出すほか無かった。
聞かれ、ジュアンは顔を上げると、メガネの奥にある澄んだグレーの瞳をアンドロスへと向ける。
「アンドロス様に、お願いがございます」
「言ってみろ――それと、”様”はつけないでくれ。もう、俺に肩書は存在しない」
魔王の側近と呼ばれる”剛魔天”。
だが、その肝心の魔王は、もう世には居ない。
どこか感情が抜け落ちた声のアンドロスに、ジュアンは申し訳なさそうに首肯を返す。
「お願いというのは、しばらくの間、人を預かって頂きたいのです」
ジュアンの口から出た言葉。
それに、アンドロスは輝きを失った瞳を、僅かに見開く。
「人――人間を俺に預かれと?」
「はい、これは魔王様からの遺言です。『自分の身に何かあったら、アンドロスを頼れ』、と」
「魔王様から? まさか、そんなことが……」
シチューの湯気に眼鏡を曇らせながら、ジュアンが言う。
アンドロスは深く椅子に腰を掛けると、ぼさぼさに伸びた髭をゆっくりと撫でた。
「話が見えんな……なぜ俺が、人間を預からねばならない」
「失礼、少し言葉が足りませんでしたね。ただの人間ではありません」
ジュアンは小さな手を口に当て、「こほん」とそれっぽく咳払いして見せる。
「預かって頂きたいのは、子供……魔王様と、人間の間に出来た子です」