飛来する影
アンドロスは手にした薪割斧を構えると、真横に一息に振り抜いた。
その太い腕から繰り出される、斧の一撃。
それにより、樹齢数十年はあろうかという大木の根元が、一撃で破砕。
枝の折れる騒がしい音を森に響かせながら、巨木は冷たい土の上に横たわる。
「ふぅ、これくらいでいいだろう」
アンドロスは額に浮かぶ汗を皮服の袖で拭うと、倒れる巨樹に手を伸ばす。
左右の肩に、それぞれ高さ十メートルを超える巨木を担ぐと、森の中を何気ない足取りで進む。
これは、先日デスティナから頼まれた風呂を作るための材木。
木の伐採から加工まで、全てをこなすアンドロス。
その体に秘める圧倒的な力のおかげで、人間が十人がかりで行う仕事を、全て一人で行うことが出来た。
デスティナとジュアン。
二人との共同生活をはじめ、三日が過ぎた。
その間、アンドロスの警戒していた日常が破壊されるような事態は起こっておらず、なんとも平和な毎日を過ごしている。
アンドロスも、二百年を生きる魔物である。
魔物の中ではまだ若い方だったが、このまま本当に隠居してしまおうかと考え始めていた。
木々を伐採し、小屋の前に戻ってくると、ジュアンの真剣な声が聞こえてきた。
眼鏡を持ち上げ、デスティナに何やら指導するジュアン。
動きやすいワンピースの上に、薄手の上着を羽織る姿は、なかなか先生らしい姿に見える。
デスティナも、出会った当初の高級そうなドレスは脱ぎ、今は濃紺色の麻のドレスを着用。
しかし、そんな質素な衣服を纏っていても、燃えるような赤髪の美しさは健在で、その可憐さが色あせることは無い。
ジュアンは口の中で、小さく呪文を詠唱。
足元の地面がゆっくりと隆起し、すぐさま、それは一つの形をとる。
現れたのは、土と落ち葉、小石で作られた、泥の魔法生物。
四本の足で立ち、しっぽを振るそれは、小型犬をイメージしたモノらしかった。
ジュアンは土塊に魔力を注ぎ、生き物のように動かして見せる。
「では姫様、その魔法生物から、魔力を吸い取ってみて下さい」
「むっ、やってみよう」
アンドロスは遠目に、デスティナの訓練を興味深そうに見つめる。
それは、ただの魔法の勉強ではない。
魔王が有する力の一つ。
そして何よりも恐ろしい力の証明。
”蝕み”と呼ばれる能力の特訓だった。
魔王は、この世に存在するありとあらゆる魔力を吸収する力を有する。
ゆえに、魔王を魔法や呪いの類で殺すことは不可能。
そして、吸収した魔力を使い、新たな魔物を生み出すことが出来るのだ。
魔を喰らい、魔を生み出す。
それは、魔王が、魔王たる存在であるための、象徴的な能力。
今、デスティナはその力の特訓をしているらしい。
アンドロスは納屋の脇に切り倒した巨木を置くと、邪魔にならぬように少し離れた位置から見守る。
「う、むむむっ――なかなか難しいな」
ふりふりと尻尾を振る、小型犬に似た魔法生物。
デスティナは手を伸ばし、集中。
小さな額に汗が浮かび、赤髪がそこに張りつく。
それは、十歳の少女とは思えないくらい鬼気迫る表情。
やがて、デスティナの手の先に、小さく魔法陣が浮かび上がる。
青白く、薄ぼんやりとしたそれは、魔力を吸い取る破滅の呪印。
「いい感じですよ、姫様。その調子です」
魔王の力の顕現――それに、ジュアンが嬉しそうに声を弾ませる。
しかし、集中が続いたのも、そこまで。
魔法陣が発動する前に、デスティナは糸が切れたかのように、その場にペタンと尻もちをつく。
「はぁはぁ――ダメだ、集中力が続かない。次に何をしたらいいのか、まるで分からない」
肩で息をするデスティナ。
そんな彼女の傍らに、泥と落ち葉で作られた小型犬が歩み寄り、その手に頬ずりする。
魔力を吸収するどころか、なぜか懐かれてしまったらしい。
「初めてで、あれだけ出来れば合格ですよ。姫様は誰に教わるでもなく、感覚で”蝕み”を発動させようとしたのですから」
ジュアンは言いながら、小屋に戻り、デスティナのためにミルクを持ってくる。
魔法とは、魔法陣の発動から威力の発揮まで、全てが術者の頭の中で形作られる。
言ってみれば、姿かたちの無い『魔法』という力をイメージし、正確に発動することが魔法使いとしての才能とも言える。
デスティナは生まれながらにして、”蝕み”という特殊な力の発動方法を知り、それをスムーズに発動するためにイメージを構築している最中なのだ。
それは、ジュアンをはじめ、どんな高度な魔法を扱う魔物でも教えることの出来ない、特別な力。
「魔法は難しいな――勉強と同じで、その成果を発揮するには、己の力で全て何とかしなくてはならない」
デスティナは無念そうに首を振る。
「まぁ、焦る必要はありませんよ。姫様なら、きっとできます」
赤い眉を下げるデスティナ。
柔和な笑みを浮かべたジュアンが、その肩を慰めた。
◇◆◇
昼食は、ジュアンが作った簡単なサンドイッチで済ませる。
ほとんど料理の出来ないジュアンだが、さすがにパンと野菜とハムを切って挟むくらいの料理は作れる。
アンドロスの家に住むと決めてから、昼はジュアン、夜はアンドロスが食事を作ることになった。
アンドロスは薪割りの傍ら、もそもそとサンドイッチを食べながら青空を見上げる。
風は乾燥し、雨が身を切るように冷たくなった。
もうすぐ、雪が降るかもしれない。
そんな事を考えていると、デスティナと食事を取っていたジュアンの声が聞こえた。
「アンドロスさん、あれ、なんでしょう」
言われ、ジュアンが指さす空の向こうを見つめる。
そこにあるのは、眩い太陽――そして、そこに浮かぶ、一つの影。
「鳥じゃない――あの大きさ、グリフォンだな。時々、この森の奥へ狩りに来るらしい」
何度か、大空を舞う鳥獣の姿を見かけたことがあった。
獣の胴体と大鷲の頭部、大きな翼を持つ、魔物である。
その堂々とした存在は、アンドロスのような小さな人影には目もくれず、森の奥の、獰猛な獣や魔物を餌にしているらしい。
「こちらに来ることは無い。心配するな」
「そうしたいのですが……なんだか、こっちにどんどん向かってきているような――」
アンドロスが食事を続けようとすると、ジュアンは少し引きつった声で続けた。
アンドロスは、再び空を見上げる。
言われてみれば、太陽を背に飛ぶ巨大な影が、ゆっくりと近づいてきているように思える。
言葉にはできない――だが、なにか嫌な予感が、アンドロスの闘争心を呼び起こす。
「ジュアン、ティナを家に入れろ」
巨大な翼を広げ、飛来するグリフォン。
その巨大な影が、アンドロスの頭上へと覆いかぶさった。




