端書
僕は今までに二人の人間を殺した。十三歳のときに一回、十六歳のときにもう一回だ。嘘はない。たしかに、この手で二つの、いわゆる「尊い命」とやらを奪ったのだ。明確にしておかなければならないのは、小説やドラマでよくあるような、たとえば別の人に何かを買いに行かせたり、仕事を頼んだりといった使役によって事故が起き、その人間を死に追いやった登場人物が、ドラマチックに悲劇のヒーローぶって「俺が殺した」とクソみたいなセリフを吐くのとはワケが違うということだ。僕はそういうくそったれな三文芝居が大嫌いだ。興ざめもいいところだ。
だから先に、嘘偽りなく、自分は殺人者であると宣言しておく。
二度目の殺人から、もう四年が経つ。現時点で僕という人間の存在に、警察はまったく関心を寄せていない。気づかれていない。なら世間的に見れば、僕は殺人犯ではないのだ。発覚しなければ犯罪ではない。それが世の常だ。
残念ながら、フィクションによくあるような、良心の呵責や葛藤といったものとは無縁で、殺した相手が夢枕に立ったり、殺人の記憶がフラッシュバックしたりということは、実際、皆無で、夜はぐっすり眠れる。正直いちいちそんな些末なことを思い出していられるほど暇ではないのだ。大学生という身分を手に入れると、世間はゆとりだのモラトリアムだの囃し立ててくれるけれど、うちの大学で、教員免許と、それに加えて図書館司書の資格を取ろうと考える大半の勤勉な学生は、ほぼ毎日、講義を朝から夜まで受けつづけ、そして講義のない日には生活費を稼ぐためにせっせとアルバイトをする。僕もその例に漏れず、そんな連綿と続くスケジュールをこなしていたら、そんな余分なことはどうだってよくなってしまう。能動的にそういった回想をして楽しむほど僕は悪趣味ではないし、またマゾヒストでもない。
では、なぜこの端書で、わざわざ己の過去の殺人について触れたのか。
僕はこれまでだれにも、「尊い命」とやらが人間の中からなくなっていく様を話さなかったし、「あなたは人を殺したことがありますか」と尋ねてくるような常識外れの人間とは仲良くならなかったから、「イエス、アイハヴ」と答える機会もなかった。
まず、僕はかつての殺人をひけらかしたいわけではないということをアピールしておきたい。近ごろ、殺人犯の手記が話題になったが、あのテの人種は本当に人の気分を害するだけの存在でしかない。自分がどれほどひどいことをし、(彼らの言う)普通の人間とはどれほどかけ離れているかをずらずらと並べ立てて、快感を得るような連中は、本当に吐き気を催すくらい醜悪だ。僕はそこまで堕ちていない。
先ほどの問いへの返答――それは、昨年の冬、はじめて雪の降った夜に起きた殺人事件を述懐するためである。僕のかつての殺人に直接的な関わりはないものの、この事件を契機に、警察との接点を持たないように努めてきた僕の主義を変えざるを得ず、また結果的に、警察に目をつけられるようになってしまった。本当にはた迷惑な事件だった。無論、僕ではない他人の起こしたものである。
そう、だからこれはきっと、愚痴を書きなぐる日記のようなものなのだ。
前置きが長くなったが、事件の概略を記載しておきたい。
僕が大学二年生の十二月、大学の近くのS橋から、江守真弓という女性が飛び降りた。
結局、巻き込まれた愚痴になってしまうが――彼女の周縁にいたために、皆野町守という、ずいぶんと皮肉めいた名前を持つ僕は、ある学生街を席巻した事件の登場人物にならなければならなかったのだ。