「私と死んでくれますか」
街灯の下であなたを待つ。
もう春も過ぎて夜半も暖かく、微温湯の微睡みが肌を触ってゆく。
見上げれば夜空に星はなく、街灯のライトに少なくない虫がこびりついていて季節が巡ったことを実感させた。
向かいの電柱には交通事故抑制を促す看板が括られていて、隣の電柱には通り魔を注意するようにと貼り紙がしてある。
一昨年の今頃、ここを二人で彼と通った頃には無かったように思う。
思い出は日々、現実との齟齬を拡大してゆく。
ここを通ったあの日は確か遊園地に私が行きたいと駄々をこねて、彼が少し困り顔で笑って予定を変更してくれたのだったっけ。
記念日でもなんでもない日。
友達は「付き合って二週間記念日」だとかいろいろな記念日があると言っていたけれど、そんなにたくさんの記念日がある人は少数派だと思う。
私は多数派。
するとしても誕生日とクリスマスくらいかな。
私達のそんな普通の一日を、二人で遠出しないで、近くのそんなにしっかりとしていない遊園地へのお出かけに使った。
あの遊園地の名前はなんだったか。
確かハッピーだかラッキーとかの、間の抜けた書体のついていた入り口の看板を見たような覚えがある。
使い古されたコピー機を使い、黒インクのみで刷られた色つきの紙の乗り物券の綴りと、お駄賃くらいの入場料をやる気のない窓口のおばさんに払い、入り口を抜ける。
入り口を抜けた先は寂しさの匂いのする、ほどほどに整えられたよくある広場で、白茶けた案内板を二人で見た。
そのくらいの遊園地だから乗り物も大したことはない。
二人で最初に乗ったのは、円周上に椅子をずらっと外向きに固定されたサーカスのテントのような柄のグルグル回るコマみたいな乗り物。
椅子に座って回るだけだったけれど、靴が飛んでいきそうな程の遠心力にキャーキャー言って彼と二人、手を繋いではしゃいだ。
メリーゴーラウンドや鯉のいる真緑の池。
お昼はお弁当を食べた。
年季が入って塗装が所々剥がれた軽そうなジェットコースターは点検中で乗れなかったけど、彼は全然残念じゃなさそうに「あー、乗りたかったのになー」と強がっているのが可愛かった。
夕暮れまで二人で遊んだあの日は楽しかったね。
あなたが来るまであと二十分。
あなたはまだ来ない。
目の前を通り過ぎる仕事帰りのOLさんが小さくくしゃみをした。
夏風邪をひいているのかな。
夏風邪といえば去年、熱帯夜の日に彼が熱を出して看病したっけ。
あの日、帰ってくるなり調子が悪いとご飯もお風呂も入らずに横になったから、心配して熱を測ると八度七分もあってびっくりしたな。
すぐおデコに冷却シートを貼って、ぬるま湯で絞ったタオルで体を拭いた。引き出しを引くと、薬の買い置きがなかったからとりあえず何かお腹に入れてもらおうとおかゆを作ったのだけれど一口も食べられなかったね。
その後寝かせてから薬を買いに行ったんだっけ。
帰ってくると彼は熱に魘され苦しそうに息をしていた。
すぐに靴を脱ぎ手を洗うと、またタオルを絞って汗の浮かんだ首元を拭いた。
彼が少しだけ落ち着いたことにホッとしてつい頬を撫でると彼が目を覚ましてしまった。
バツが悪そうにしていた私に「手が冷たくて気持ちいい」と言ってくれたね。
横になっている彼は心なしか顔色が良くなったような気がした。
少しだけ落ち着いた様子な彼がまた静かに寝息をたているのを見ていたけれど、それでも何も食べないのは良くないと台所に向かう。
薬と一緒に買ってきたリンゴをナイフで剥き、すりリンゴが好きじゃない彼の為に小さく切って枕元まで持って行った。
「起きて少し食べとこ?」との私の言葉に再び目を覚ました彼は「起きるのがつらい」と言ったので、私が寝ている彼の口に持っていってリンゴを食べさせてあげたんだ。
ただのリンゴだけど、美味しいと言ってくれたのはやっぱり嬉しかったな。
すっかり良くなった三日後。
考えたら病院に連れてったほうが良かったことに晩ご飯の時に気づいて、二人で笑っちゃったよね。
あなたが来るまであと十二分。
あなたはまだ来ない。
立ち惚ける私の目には薄暗い汚れた街灯と民家から漏れ出る室内灯、そして数えられそうなほどの星の明かりだけが温もりを感じさせる。
確かあの日はあなたが急に連れ出したんだったっけ。
「今日は流星群が見られるよ、少し見に出かけない?」
晩ご飯の焼うどんを食べ終わると彼がそんなことを言い出した。
「いいけど、どこまで出かける気なの? うちのそばじゃあ星なんて見えないんじゃないかな」
腹ごなしに歩くのは私も嫌いじゃない。
「まかせろ」
それから向かった彼の観測ポイントは空に近付けるタワーだったのだけれど、調べてみれば星の群れのご到着は真夜中の一時。
残念ながら高いタワーは営業時間が過ぎてしまうようだ。
「どうしよっか」
「流星群ってくらいだ、そんなにたくさん見られるのなら、星の見えづらいここからでも少しは見られるんじゃないのかな。流れ星ってのは今あんまり見えないこの星たちよりも、ずっと近くにあるのだし」
「じゃあ公園に行く? ん、でもうちのベランダからでもいいか」
「うちにベランダなんてないぞ」
「私の中ではあの窓はベランダなんですー」
わたしの無理やりなごまかしに彼が笑ってた。
結局あの晩に流れ星なんて全然見えなかったけれど過ごす時間はとても楽しかった。
あなたが来るまであと六分。
わたしの手はトートバッグの中にあるナイフに触れて、存在を確かめる。
あなたはまだ来ない。
人の通りがなくなって、ひっそりと静まる住宅地の路上。
この時間は壁一枚に隔たれて、人の気配は感じられない。
あなたが来るまであと二分。
あなたはもうすぐやって来る。
私はかかとを踏み鳴らす。
「こんな夜更けにどうしました。女性が一人では危ないですよ」
街灯が作る光の円柱の外から、私に声が掛かった。
闇色のコートの裾が、暗がりから浮かび上がる。
革靴に、手袋。
双方ともに黒く、見上げるハットは顔を隠す意味などない位置で浅く被られていた。
「あぁよかった、大丈夫です。よかったらこれ、見てもらえますか?」
わたしはトートバックから黒くゴツい裸のナイフを出して、愛想よく笑う顔へと見えるように差し出す。
よかった。
本当によかった。
あなたはちゃんと来てくれた。
顔から笑みを消し、真顔になったあなた。
その顔はわたしの差し出したナイフを見ている。
「見覚え、ありますよね」
わたしはナイフをあなたの足元へと放る。
「あなたの、忘れ物ですよね?」
私はゆっくりと足を向ける。
拾い上げるために屈むあなたの首元を見つめて、トートバッグ越しに外側から柄をぎゅっと握る。
そしてあなたの耳元へ、小さく思いを声にした。
「私と死んでくれますか?」
この声があなたには聞こえているのだろうか。
私の手はあなたの首元へと添えられ、大切なものを断ち切ろうと、柔らかいところへ食い込む。
半ば裏返されたトートバッグの布一枚越しに握られた手には、柄が滑り人差し指の中ほどに跡を残す。
指はもう要らないと心が判断し、力加減をせずに喰い込む、刃のつかないナイフの顎元。
手の中にあるのは、あのリンゴを剥いた果物ナイフ。
私の肘をつたった袖を濡らす赤の雫がアスファルトに落ちて弾けた。
カラリとアスファルトを擦る軽い音が鳴る。
あなたが蹈鞴を踏み、爪先で弾いたのは、黒くゴツい、彼の胸にあなたが残した繋がり。
私の佇む街灯の明かりのもとには少し萎れた花束が供えられ、風もないのに花を包むセロファンがカサリと音を立てた。