第 一 話
エッフェル塔を見上げていた。2015年12月31日の大晦日、私は一人でパリの街をさまよい、新年を祝う年越の日を少しでもイベントらしくするためにここまで来た。
さもなければいつものように家でパソコンを見たり、煙草を吹かしたりするだけで一日が終わってしまうからだ。年越しくらい何か特別なことをしたかったし、外に出るのも良い。何もしないよりは「何かするための理由」が欲しかった。
午後六時過ぎに家を出た。私が住んでいるのはパリの郊外、パンタンである。18世紀には、良い空気のあるパンタンは上流階級の人々をひきつけたそうだが、現在ではパリからあふれ出てきた移民、主にムスリム系、インド系、アジア系、アフリカ系などの人種が多い。簡単に言うと「ゲットー」だ。異邦人の俺にはゴロツキやアウトサイダーが多いこの町は心地よい。
年が変わるまで五時間はある。エッフェル塔の立つパリ7区まで歩けば一時間ほどなのだが、年末の特別な日、家にいるのも居心地が悪かったので、早めに出発することにした。
早めに出発すれば、もし道に迷っても年越しまでにはエッフェル塔にたどり着けるだろう。歴史的な建築物が並ぶ、パリの美しい町を歩くのは楽しい。
私は過去と決別して今を生きたかった。過去の栄光にすがりついたり、昔の自慢話をする大人はとてつもなくカッコ悪い。そんなことを考えながらジャン・ジョレス通りを西に向かってまっすぐ進んだ。
「なぜここに居るのか、この先どうなるのか、あの日の思い出はいったい何だったのか。愛とは何か。腹が減る。」あらゆる思考が流れては消えていく。それでも今を生きる、そのことに集中していた。
私の持論は「現象が感情を作るのではなく、感情が現象を生み出す。」
人々は起こった現象に対して、感情で反応する。しかし単に個々のものが変化していくだけとするなら、世界には時間は無く個々が変化していく「今」しか存在しない。
ならば現在存在する感情と、起こる出来事、現象は同時に存在することになる。だとすれば、「良い出来事が起こるから嬉しい」のではなく「嬉しいからよい出来事が起こる」とも考えられる。
起こった出来事に、感情のまま反応することは愚かに見えた。だから今を生きて、自分自身の選んだ意識で世界を創造するのだ。
町は年越しイベントでに賑わっている。さまざまな人種の美しい女たち、うさんくさい男たち、ウサギ耳や光る飾りをつけた子供たち。この日のために世界中から観光客が集まってきていた。