第七話:想い
次の日の放課後。俺が部室に向かって歩いていると、前を見知った背中が歩いているのが見えた。
「おーい、智香」
俺が呼びかけると、前を歩いていた智香が立ち止まって後ろを振り返った。彼女は俺に気が付くと、引きつった笑みを浮かべながらジリジリと後ずさりを始めた。
「おい、どこ行くんだよ。これから部室に行くんだったら一緒に行こうぜ」
俺が慌ててそう言うと、智香は、
「嫌です!」
と叫んで、全速力で走って行ってしまった。なんだあいつ。……まさか昨日の部室の件をまだ引きずっているんじゃないだろうな。ちゃんと説明はしたはずだが、たまにあいつは暴走して人の話を聞かないことがあるし、もしかしたら俺の説明をちゃんと聞いていなかった可能性がある。俺が「うぅん」と唸りながら考え事をしていたら、後ろからトントンと肩を軽く叩かれた。一旦思考を中止させて後ろに振り返ると、そこにはスーツをきっちりと着こなし、まっすぐと背筋を伸ばした、おそらく40代後半であろう男性が立っていた。なんだか見たことのある顔だと思ったが、このくらいの年代の知り合いなんて親父くらいしかいないはずなので、気のせいだと考え直す。
「君。ちょっと聞きたいことがあるのだが」
男性はそう言うと、俺の肩に置いていた手の力を強くした。そして、ドスの利いた低い声で、
「うちの娘に何をした。返答次第ではただではおかんぞ」
と、言ってきた。いたっ、痛い! なんで俺、初対面のおっさんに肩を掴まれているんだ? ……ん? まてよ? 今うちの娘って言ったか? もしかしてこの人――。
「あ、あの。もしかして智香のお父さんですか?」
俺は、痛みを我慢しながらなんとか質問する。俺の質問を聞いた男性は、顔をさらに険しくさせながら、
「いかにも。私は智香の父、水無月雄吾だ。そういう君は智香のなんだ。どうして智香は逃げていったのだ?」
と、さらに声に怒気を孕ませ、俺に聞いてきた。俺はその声に怯みながらも、なんとか誤解を解こうと思ったのだが、いかんせん今の状態だとちゃんとした説明を出来なそうだったため、場所を変えることを提案することにした。
「あ、あの、ここで話すのもなんなんで、俺たちの部室まで行きませんか?」
痛みを我慢しながら案を持ち掛けると、雄吾さんは顔をしかめて、
「逃げるつもりなら無駄だぞ」
と、俺に向かって言ってきた。
「そんなことしません。やましいことなんてしてないですから。それに逃げるなんて男のすることじゃないです」
俺が雄吾さんの顔をしっかりとみてそう答えると、彼は渋々納得してくれたみたいで俺の肩から手を離してくれた。
「……案内してもらおうか」
雄吾さんはそう言うと、黙り込んでしまった。俺は緊張しながらもなんとか部室に向かって歩みを進め始めた。
部室に着くと、すでに俺以外のメンバーは全員来ていた。
「どうぞ」
「うむ」
一応礼儀として、雄吾さんを先に部室に通す。雄吾さんの姿を見た三人は、三者三様の反応をしてくる。
「お父さん!?」
これは智香の反応。
「お、おおお親父さん!?」
これは真一の反応。真一が顔を強張らせながら立ち上がったのを見た俺は、もしかしたらこいつは俺と同じ状況になったことがあるのかもしれないと、そう予想する。
そして、明梨の反応なのだが、これが一番俺を驚かせた。
「理事長!? どうしてここに……」
明梨の言った理事長という言葉に俺は驚きを隠せなかった。そういえば、今思い返してみると、学校紹介のパンフレットに雄吾さんの顔写真が載っていた気がする。どうりで初対面のはずなのに、見覚えがあるはずだ。
「おぉ、君は夏目さんか。この間はうちの娘がお世話になったようだね。あの日帰ってきてから、智香は君にもらった服を大事に抱きかかえて喜んでいたよ。あんなに嬉しそうにしている智香を見たのは久しぶりだった。父親の私からもお礼を言っておく。ありがとう」
「お、お父さん! 見ていたのですか!? いや、この際それはいいです。なぜ秘密にしていてくれないのですか!」
智香は恥ずかしさからか、顔を真っ赤にしながら怒っていた。すると、雄吾さんは急に顔をしかめる。
「人から物を貰っておいて、感謝の意を表さないとは、礼儀に反するだろう。お前はそんなことも分からないのか。そんな風に育てた覚えはないぞ」
雄吾さんが、顔をしかめながら智香に向かって怒鳴る。部屋中に雄吾さんの低い声が響きわたった。その途端、智香の様子が目に見えて変わる。
「ご、ごめんなさい」
智香が沈んだ声で謝る。すると、明梨が焦ったように雄吾さんに向かって話し出す。
「い、いえ。あれは勝手にあたしがしたことですから。お礼を言われることじゃないです。だから智ちゃんを叱らないでください」
明梨の言葉に、雄吾さんは困ったように苦笑いながら、
「そうかい? なら良いのだが」
と言った。俺はそんな三人のやり取りを緊張して見ていたのだが、雄吾さんの次の言葉でさらに緊張を強めることとなる。
「それで君、どうしてさっき智香は逃げていったのかね。説明してもらおうか」
雄吾さんは和やかな顔から一変して、険しい顔になっていた。緊張で口の中が乾く。しかし、俺は別になにか悪いことをしたわけではない。そう考えた途端に、緊張が和らげることが出来た。
「この間、この部室でそこに居る男――彼は藤岡真一と言います――彼を慰めるために背中をさすっているのを智香に見られてしまいまして、変な誤解させてしまったのです。でも、その後弁解はしましたし、智香も納得したはずだったのですが……なぜか今日話しかけたら逃げられました」
雄吾さんの質問に毅然とした態度で答える。すると雄吾さんは「ふむ」と言い、智香に視線を移す。そして、今度は智香に向かって、
「本当か?」
と確認した。智香は雄吾さんに訊ねられて、しばらく思い出そうと頭を抱えたあと、
「本当……です。どうやら私が話を聞いていなかったみたいです。確かに聞いた気がします」
と、申し訳なさそうに言った。ふぅ。誤解が解けてよかった。雄吾さんも顔の表情を緩めて、俺に向かって軽く頭を下げながら、
「いやぁ、誤解してしまい申し訳なかった。親子ともども、少し人の話を聞かない部分があるのだよ。妻にも言われていたため、気を付けるようにはしているのだが」
雄吾さんは話し終えると豪快に笑った。
そんな雄吾さんの姿に少し呆れながらも、彼の話しに一つ気になる事柄があった。それは彼が口にした『妻』についてだ。妻ってことは、智香の母親のことで間違いない。春木野の一件で、智香の母は既に亡くなっていることは知っている。しかし、彼女の母はなぜ幼い智香を残して亡くなったのかまでは聞いていないのだ。もしかしてそこには、少し前に智香が言っていた『私は父に憎まれている』という言葉に対してのヒントが隠されているのではないかと、俺はそう考えた。
「あの、ゆ、雄吾さん」
智香のお父さんのことを『理事長』と他人行儀に呼びたくはないし、『水無月さん』では紛らわしいので俺は彼のことを雄吾さんと呼んだ。馴れ馴れしい呼び方をしてしまったかと思い恐る恐る彼の顔を見ると、以外にもあっさり
「なんだね? えーと……君の名前を聞いていなかったね。教えてもらえるかな?」
と、親しげに答えてくれた。俺はそんな雄吾さんの反応に安堵しながら、姿勢を正して自己紹介をする。
「俺の名前は渋谷純って言います。この学校の二年生です。あなたのお子さんとは真一の紹介で出会いました」
なんとなく、結婚の許しをもらいに来た恋人みたいな紹介になってしまったとも思いながら、自己紹介を終える。いずれ本当にこんな挨拶をする時が来るのだろうか。そんなことを考えて気が重くなっているとき、急に智香が近づいてきた。
「違いますよ」
彼女が俺にしか聞こえないほど小さく、耳元で呟く。「何が違うんだ?」と、智香に聞くために俺が口を開けたときには、智香はすでに俺から遠ざかってしまっていた。
「そうか。それで渋谷君。私になにか聞きたいことでもあるのか? さきほどのお詫びもかねて、なんでも答えようじゃないか」
雄吾さんはそう言うと、話が長くなることを予期していたのか椅子を出してきてみんなに座るように言ってきた。何でも聞いてくれと言われて、一瞬、智香が前に言っていた『お父さんは私を憎んでいますから』という言葉について直接聞いてしまうほうが手っ取り早いか……なんてことを考えたが、流石に張本人である人のこんなことを聞くのは違うだろうと考えなおし、先ほど気になった彼女の母親について聞いてみることにした。
正直、こんなことを他人の俺が本当に聞いていいのかと悩んだが、俺は躊躇いながらも、失礼は承知で訊ねることにした。……柄にもなく緊張で手が震えてくる。
「非常にお尋ねしづらいことなんですが、あなたの奥さん――つまり、智香のお母さんは何故亡くなったのですか?」
俺が意を決し雄吾さんに聞くと、雄吾さんはしばらく黙り込み、腕を組んで考え込む。しばらく考え込んでいた雄吾さんだったが、俺たちを見回した後、
「そうだな。もうそろそろ話してもよいかもしれんな」
とポソッと小さく呟いて、ゆっくりした口調で話し始めた。
「君の質問に答えるには、智香の出生について話さなければならない。なぜなら……智香の母、さくらは――智香を産んで死んだのだから」
雄吾さんの衝撃の告白に、俺たち三人は驚きを隠せなかった。そんな俺たちの様子に構わず、雄吾さんは話を続ける。
「私の妻、つまり智香の母であるさくらは体が弱かった。だから智香がお腹にできたとき、私は中絶も選択の一つに入れていたのだ。だが、さくらはそれを絶対に許さなかった。『この子は私たちのために生まれてくるのです。そんな優しい子を殺すなんて許しません』ってな。それでもしばらくは妻の反対を押し切ってでも危ない場合は中絶させるつもりだった。しかし、妻の幸せそうな姿を見ると、結局それは出来なかった。そして、ついに出産のときが来た。……一言でいえば長かった。本当に長かったんだ。結論から言おう。さくらは智香を抱いた少しあと、眠るように息を引き取った。そんな長い出産にあいつの体が耐えられるはずがなかったのだ」
雄吾さんはそこまで話して一度、深呼吸をする。俺たちは何も言えなかった。明梨にいたっては既に泣いている。俺は智香の様子が気になって彼女の顔を見たが、俯いてしまっていたためまったく表情が読めなかった。少しの沈黙の後、再び雄吾さんは話し始める。
「私は激しく後悔した。なぜ止めなかったのか。こうなるかもしれないことは分かっていたのに……とな。私はさくらを愛していた。あいつのためならこの命を差し出してもいいと思えるくらいに。さくらが死んだあと、私もあいつのもとに行きたいと何度思ったか分からない。だが、私はあいつのもとに行くわけにはいかなかった。なぜなら――」
雄吾さんが智香を見る。
「さくらと同じくらい大切な存在があったからな」
俯いていた智香が顔を上げ、目を目一杯見開いて心底驚いた表情で雄吾さんの顔を見る。雄吾さんは穏やかな表情で智香に近づき、話を続ける。
「さくらを愛していた。だからこそ私たちの授かった大切な命を――智香のことを、さくらが得られるはずだった分も幸せにしてみせる。そのためなら鬼にでも、悪魔にでもなろうと、そう誓ったのだ」
雄吾さんが智香の両手を握る。
「私はお世辞にもいい父親ではないと思う。お前を苦しめてしまうこともある……いや、そのほうが多いだろう。だが、これだけ知っておいてほしい。智香、私はいつだってお前の味方だ。お前が生まれたあの日、私は最愛の人を亡くした。それはお前を産んだためだ。だがな。最愛の人を失った私を――悲しみに暮れる私を救ってくれたのもまたお前なのだ。お前がいたから私は今、ここで生きていられる。お前がいてくれたから、再び人生を楽しむことが出来るようになった。だからお前が私に対して負い目を感じる必要はない。私は、お前が私の娘に生まれてくれたことが――こんなどうしようもない父親を『お父さん』と呼んでくれることが、堪らなく嬉しい。お前の日々成長する姿を見ることが堪らなく幸せなのだ。確かに私は最愛の人を亡くしたが、それと同時に最愛の娘を得た。だから、これだけははっきり言える。お前は私にとって大切な宝物であり、かけがえのないたった一人の娘だ。智香……生まれてきてくれてありがとう」
雄吾さんは智香を優しい目で見つめる。そうか。雄吾さんは自分の気持ちまでは話してなかったのかもしれない。だからさっき、「話すべきか」と呟いたのか。俺はやっと本当に気持ちを通じ合わせられた親子を見て、体の芯が熱くなるのを感じた。
「っ、お、お父さぁん」
智香は、そう叫ぶと雄吾さんに思いっきり抱き付いた。雄吾さんもそんな智香の頭をなでながら、
「さくら。私たちの宝物はこんなに優しく立派に育ったよ」
と言い、泣いていた。その光景を見ていた俺たちは、そっと部室を出ていった。
しばらくして部室に戻ってみると、もう雄吾さんの姿はなかった。
「智香。雄吾さんは?」
俺が聞くと、智香は目を腫らして笑いながら、
「えっと、『お前の大切な場所にこれ以上お邪魔するのは申し訳ない。そろそろお暇することにするよ』だそうです」
と、答えた。明梨は「そんなこと気にしなくていいのにね」と言っていた。俺はおそらく自分の隠していた想いを語ったばかりで気恥ずかしかったのだろうと考えた。これまですれ違っていた二人だ。しばらくは距離感を掴みづらいことだろう。しかしこの二人ならきっと、気恥ずかしさなく話せるようになるまで、それほど時間はかからないだろうと俺は確信していた。
「よし。部活を始めるか。今日の活動は『キャラクターの絵を書いてみよう☆』だ。僕の結芽ちゃんへの愛を込めた絵に、果たしてお前たちは勝てるかな?」
真一が急にテンションを上げてそんなことを言い出した。絵を書くのに勝ち負けなんてあるのか? 俺がそんなことを考えていると、
「真一。今日はもう時間ないわよ」
と、明梨が呆れた声で真一の言葉に口をだす。
「なにを言っている。まだ五時ではないか」
真一がそう言うと、明梨はため息をついて、真一に自分の時計を見せる。
「それはあたしのセリフよ。もう六時になるわ」
明梨が肩をすくめながら言った。そういえば前に真一の時計って遅れていたな。俺は二人のやり取りを見て、前に部室で智香と真一がやっていた『俺たちの戦場~コミケ争奪戦~』とやらのことを思い出した。もしかしてあれから直してなかったのか。
……こいつ馬鹿すぎる。
「っく。仕方ない。今日は勝ちを譲ってやる。覚えていろよ! あと、各自キャラクターの絵を書いてくるように」
真一は意味が分からない負け台詞を叫ぶと、すごい勢いで走って行ってしまった。俺はそんな姿に呆れながらも、明梨にフォローを入れることにした。
「まぁ、なんにも考えていないようでいろいろ考えてるやつだからさ。大目に見てやってくれ」
俺がそう言うと、明梨は顔を赤く染め、そっぽを向きながら、
「そんなの分かってるわよ」
と、呟いた。そんな明梨の様子が予想外だったため、俺が何も言えず黙り込んでいると、明梨は俺の様子に気づき、「な、なによ」と言って先に行ってしまった。うーん。俺の幼馴染みたちはたまによく分からなくなるなぁ。それにしても片付けもせずに帰るなよ。
俺が仕方なく机の上にあるお菓子のゴミ(主にボーメしかなかった)やペットボトルを捨てていると、後ろから急に聞きなれた声が聞こえてきた。
「あの~、先輩。私たちもそろそろ帰りませんか?」
「ん? 智香まだいたのか。てっきり先に帰ったかと思ったよ」
俺が出しっぱなしの椅子を片付けながら答えると、智香は少し頬を膨らませて、
「ずっといましたよ。なのに、先輩まったく声をかけてくれないんですもん。放置プレイをして楽しんでいるんだと思いました……。はぁ、ほんとに先輩はまったくどうしようもない人です」
智香はため息をつきながら、肩をすくめて呆れていた。それにしてもなんで智香はまだ残っているんだ? その理由を予想しながら手を動かしていると、あっという間に片付けが終わる。さんざん考えたが、結局分からなかったため、本人に聞いてみることにした。
「ところで、なんで智香はまだ残ってるんだ?」
俺の質問にを聞いて、智香はそんなことも分からないのかと言いたげな顔で俺を見る。しばらくの間沈黙が続き、本気で俺が理解していないことが分かったらしく、ため息をつきながら、
「純先輩と一緒に帰るために決まっているではないですか! まさかそんなことも分からないなんて、本当に純先輩は鈍すぎです。そんなことじゃ誰かに好意を持たれても気付けませんよ。むしろ傷つけてしまうのです。気を付けなければいけないですよ。私だから平気なものの」
と、あきれ顔で言ってきた。うん? それは聞き方によっては智香が俺のことを好きなように聞こえるのだけど。俺がそんなことを考えていると、智香もそのことに気づいたらしく、
「え、えっと、今のは私が先輩を好きだってことではなくて、いや、勿論嫌いじゃないですよ? むしろ……あぁぁぁーーーー! もうこの話は終わりです!」
と、耳まで真っ赤にしながら叫んだ。そんな智香の様子が可愛くてもっと見ていたかったが、肝心の彼女が、「ほら、掃除が終わったのなら帰りましょう!」と言って、先に部室を出て行ってしまったため、仕方なく俺も部室の電気を消し鍵を閉めて、下駄箱に向かって歩き出した。
下駄箱に着くと、智香が外にいるのが見えた。智香は一年生だから、下駄箱の位置が少し遠いはずなのだが。
「走ってきたにしても早いな」
なんて思いながら靴箱を開けると、そこに俺の靴は無かった。……おい、どういうことだよ。なんで俺の靴がないんだ。もしかして……イジメか? 俺が靴を探して周りを見回すと智香と目が合う。なんであいつはあんなにやけた顔をしているんだ?
……あぁ、なるほど。そういうことか。
「おい、小娘。なに俺の大事な靴を履いて、悠々と外に立ってんだよ。返答次第ではきついお仕置きを課すぞ」
俺が額に皺を寄せながらいうと、智香は恐怖で顔を引きつらせながら、
「お、お仕置きとか。先輩の変態! で、でもそんな先輩も……」
はぁ、駄目だこいつ。早く何とかしない……おっと、乗せられてしまうところだった。
とりあえずこのままでは帰れないので、仕方なくお仕置きは止めてやる。
「分かった。何もしないから早く靴を返せ。このままじゃお前を送っていけないだろ」
俺の言ったことが予想外だったのか、智香は俺の靴を投げつけて、すぐに自分の下駄箱に向かって走って行った。おい、靴下汚れるぞ。あと人の靴を投げるな。
数分後、智香が靴を履いて戻ってきた。今度は随分と時間がかかったな。まぁいっか。
「せ、先輩も素直じゃないですね。それを言ってくだされば、すぐに靴をお返ししたのに」
智香は帰ってくるなりそんなことを言ってきた。いやいや、お前が勝手に履いていったんだろ。そうツッコんでやるのにも疲れたため、無言で歩き出す。
「ま、待ってくださいよ。置いてかないで。 あぅっ!」
その声を聞いて後ろを向くと、智香が見事にこけていた。
「……はぁ。おい、大丈夫か?」
俺はため息をつきながら手を差し出してやる。智香はしばらくその手をじっと見てから、少し頬を赤くしながら手を伸ばして掴み、立ち上がる。まぁ、今のは流石に恥ずかしいよな。俺だったら恥ずかしさからこの場から逃げ出しているだろう。
帰り道。俺は気まずさから智香に話しかけられなかった。もう半分は歩いてきたのに、その間俺たちはなにも話さないでただひたすら家に向かって歩みを進めていた。なんだ、この気まずい下校は。こんな予定じゃなかったはずなんだが。くそ、いい加減話しかけなくてどうするんだ。こんなんじゃ真一に笑われちまう。
俺が覚悟を決め、話しかけようと横に顔を向けると、智香も俺のほうを向いていたため、お互いの視線があった。
「す、すみません!」
智香は慌ててそう言い、顔を背けてしまう。なんだこの可愛い生物は。くそ、また話しかけづらくなってしまった。
「はぁぁ」
俺は自然とため息をついていた。自分の不甲斐なさに反吐が出るな。そんなことを考えていると、急に横を歩いていた智香が立ち止まる。
「どうした智香。何かあったのか?」
俺がそう聞いても智香は俯いたまま黙っていたが、しばらくして小さく「よし」と呟くと、俺のほうにお辞儀をしてきた。
「純先輩、今日はありがとうございました。先輩のおかげでお父さんの本当の思いを聞くことができました。私、お母さんが私を産んで亡くなったって聞いた時からずっと不安だったんです。お父さんが一番大切な人を無くしたのは私のせいだから……私は愛されていないのかもしれない。私は生きていてはいけないのかもしれないって。でも、お母さんの分も生きなければいけないとも思っていたから、もしかしたらお父さんを苦しめ続けるのかもしれないとか考えてしまって……。でも、今日先輩が、お父さんにお母さんのことを聞いてくれたおかげで、私、これからは胸をはって生きていけます。本当に……本当にありがとうございました」
智香はそう言い、涙を流しながらも笑顔を見せてくれた。その時の夕暮れに照らされた彼女の笑顔はとても美しかった。
そうか。だから前に、『私はお父さんに憎まれている』と言っていたのか。思わぬところで疑問が晴れたのだった。
「あぁ、お前の人生はまだまだこれからだ。安心しろよ。今のおまえには俺たちがいる。必ずお母さんの分もお前を幸せにするから」
俺は自分の素直な気持ちを智香に向けて言う。
「ん? これ聞き方によっては告白にも聞こえる気がするんだが。言ってしまってから気が付くなんて俺、馬鹿すぎるな。あ、あはは、これは本当に惚れちまったな。まぁ、仕方ないか。あの笑顔は反則的だったし」
と、俺が自分の単純さに呆れていると、さっきから黙り込んでいた智香が顔を真っ赤にしながら、
「はい!」
と、笑いながら答えた。少しの間、俺たちはお互いの顔を見つめあう。そして自然と手を繋ぎ帰りの道を歩き始めた。再び沈黙が流れる。しかしさっきと違い、この沈黙はとても心地よいものだった。
「純先輩。少し寄り道をしても良いですか?」
智香の家に近づいてきたとき、急に智香が聞いてきた。俺が頷いて返答すると、智香は近くの公園に向かって歩いていく。俺もその後について歩き出した。
公園につくと、智香は鞄から一通の手紙を取り出した。
「これは、さきほどお父さんが部室から去る際に私に渡してきたものです」
「へぇ、そうなのか。それで送り主は誰なんだ?」
俺が聞くと彼女は緊張した面持ちで、
「お母さんです」
と、重い雰囲気を漂わせながら答えた。
「お母さんからの手紙か……それで、お前はなんでそれを俺に見せたんだ? お前のお母さんからの手紙と俺にはなんの関連も――」
俺は話しながら、ハッとする。智香が俺に手紙を見せた理由なんて、少し考えればすぐに分かることだった。
「もしかして、俺にその手紙を読んでほしいのか?」
智香を産んですぐに亡くなってしまった母からの手紙。それはきっと、俺の想像以上に智香にとっては恐怖の対象になるんだろう。何故ならあの手紙には、必ずしも良いことが描いてあるとは限らないからだ。場合によっては、彼女にとってつらい言葉が並んでいる可能性だってある。そのため――いくら先ほど雄吾さんの話を聞いたといっても――彼女は自分では封を開けられずにいるのではないかと俺は考えた。どうやら俺のそんな予想は的を射ていたようで、智香がゆっくりと首を縦に振る。
「お願い……できますか?」
彼女は弱弱しい声で呟くように言うと、俺のほうに例の手紙を差し出してくる。俺は一瞬だけ、
「これを俺が読んでしまっていいのだろうか」
と受け取るのを躊躇したが、智香の思いつめた顔を見て、結局手紙を受け取って読み始める。
――拝啓、これから生まれてくる私の愛する娘へ。お元気ですか? 風邪をひいていたりはしませんか? 私はとても元気です。これからあなたに出会うのですから、元気いっぱいでなくてはなりませんものね。貴方に会う日が待ち遠しくてなりません。きっとすごく可愛いのでしょうね。
さて、貴方がこの手紙を読んでいるということは、きっと私はもうあなたのそばにはいないのでしょう。最初に言います。
……ごめんね。貴方のことを抱きしめてあげられなくて。ずっとそばにいてあげられなくて。きっと寂しい思いをしたでしょう。悲しい思いをしたでしょう。どうして私にはお母さんがいないのかと泣いてしまった日もあったかもしれません。本当にごめんなさい。
お父さんに、もしもの時は貴方のことを任せてあるけれど、きっと不器用なあの人のことだから、貴方に窮屈な思いをさせることがたくさんあると思うわ。けどね、お父さんも貴方のことが大好きだから……幸せにしてあげたいから、貴方に厳しくするってことをわかってあげてね。
『智香』
貴方の名前です。この名前はね? 私が付けたのよ。貴方の名前にはね、『色々な物や出来事の美しさに気付き、理解できる子に育ちますように』と言う意味があるの。気に入ってくれていると嬉しいな。
貴方のことをずっとそばで見守っていたい。けれど、それは叶わないかもしれない。そう考えると、とても胸が痛みます。初めて自分の体の弱さを恨みました。だって、大切な娘の成長を見続けられないかもしれないのだから。これほど辛いことはありません。
生きていたい。
生きて、貴方の七五三姿が見たい。
運動会で一生懸命走る様子が見たい。
卒業式で貴方の立派な姿を見て泣いてしまったり、悪いことをしたら怒ったり、家族で花見に出かけて一緒に笑いながらご飯が食べたい。
好きな人が出来たら、お父さんに内緒で、三人で食事に行って、貴方の照れる姿をからかったりしたい。……ずっと貴方の成長を見届けたい。
大好きな貴方とお父さんと私でずっと幸せに過ごすため、私は戦いました。でも、駄目だったみたいだね。本当に残念だけど、私の希望は叶わなかったのでしょう。貴方とお父さんに辛い思いをさせてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。
…あ~ぁ、貴方の頭を撫でてあげたかったなぁ。一緒にお風呂だって入りたかったのに。膝枕だってしてあげたかったのになぁ。本当に残念。
ねぇ、智香。この手紙を読んでいる貴方は一体どのくらい大きくなっているのかな。中学生? 高校生? もしかしたら、もう大学生になるのかもしれないね。貴方の成長した姿見られなくて残念だよ。本当に……本当に寂しいけど、大きくなった貴方のそばに私はいられませんでした。貴方の晴れ舞台で、『おめでとう』って言ってあげることも、抱きしめてあげることも出来ません。
でもね、貴方には見えないと思いますが、私はいつだって貴方を見守っています。私は貴方の母親です。愛する娘のためならば、なんだってやって見せます。たとえわが身が滅びようが、我が子のためならなんだってしてあげられる。それが母親ってものです。だから、安心してください。貴方をけして一人にはしません。どんなに辛い時も、貴方にはいつだって一番の味方が付いていることを忘れないでください。安心して――私の分も幸せに生きてください。私の最愛の娘、智香へ 水無月さくら
手紙を読み終えると、丁寧に畳んで智香に差し出す。それを受け取った目の前の彼女は静かに泣いていた。手紙の内容は、最後まで智香を案じたものだった。
きっとさくらさんは分かっていたのだ。自分がいなくなった後、智香を取り巻く環境がどうなるのかを。雄吾さんの話を聞いた時から思っていたが、本当に優しい人だったんだなと、そんなことを考えながら、俺はしばらく智香の頭を撫でていた。
「優しいお母さんだったんだな」
「はい。自慢の母です」
しばらくして泣き止んだ智香は照れながらそう言って笑う。その顔は、なんだか晴れ晴れとした顔だった。
「純先輩。今日は本当にありがとうございました。私、今日はここで帰りますね。早く帰って、お母さんについて、お父さんと話したいので」
「はは、そっか。また明日な」
智香は一度お辞儀をしたあと、家に向かって走って行ってしまった。
「良かったな、智香」
俺は気付くと、そんなことを呟いていた。
その日の夜中。勉強をいったん中断させて、嫌々ながらも今度の部活に持っていく絵を書いていると、携帯電話が鳴りだした。
「一体誰だ?」
集中し始めた矢先の電話に、少しイライラしながらディスプレイを見ると、そこには水無月智香と表示されていた。
こんな時間に電話してくるなんて何かあったのか? と心配になった俺が急いで通話のボタンを押すと、いつも通りの智香の声が聞こえてくる。
『こんばんはでござる先輩。ご機嫌いかがですかな?』
智香のいつも通りの様子から、どうやらなにか事件に巻き込まれたようではなさそうだと、内心安堵する。
「こんばんはじゃないだろ。こんな遅くになんの用だ? 俺が起きていたからいいものの、もし寝ていたら安眠妨害だろうが」
俺が少し怒りながら咎める様に言うと、
『先輩に限ってこんな時間に寝ているわけがないのですよ。それと最初の質問に答えてないのではないですかに? デュフフ、こんな時間に電話しておいていろいろ要求している私って鬼畜ですね。こんなんじゃ先輩に蔑んだ目で見られちゃう……。でもそんな先輩もいいかも。ハァハァ』
こいつ絶好調だな。深夜だからか? いつもより変態発言が活発な気が……。とりあえずそこにツッコむときりがないため、さっさと用件を聞きだすことにした。
「それでなんでこんな時間に電話してきたんだ? 用がないなら切るぞ。じゃあな」
俺がそう言い、携帯の通話を終了させようとしたとき、『ま、待ってください。私が悪かったのです』という智香の声が聞こえたので仕方なく聞いてやることにした。
「初めから普通に話せよ。これでも色々忙しいんだ」
俺がそう告げると、智香は電話口なのにそのにやけた顔が浮かぶような面白がった声で、
『それはもしかして、男の欲求をはき』
それ以上聞かずに、通話を切った。あいつは何を言おうとしているんだ。あいつと話していると、たまに真一と話しているみたいに感じる時がある。これはゆゆしき事態だと、俺は危機感にも似た何かを感じた。
少しの間、俺が呆れながら携帯電話を見ていると、案の定すぐに智香から電話がかかってきた。俺はそれを、ため息をつきながらでる。
「なにか言うことは?」
『……ごめんなさい。調子に乗り過ぎました。初めての純先輩への電話だったのでテンションが上がってしまいまして』
智香は申し訳なさそうに沈んだ声で、小さく漏らすようにそんなことを言ってくる。
はぁ、そんなこと言われたら怒るに怒れないだろうが。仕方なく、今回の件は不問にすることにした。
「もういいよ。それで? なんの用件だったんだ?」
俺が聞くと、智香はさっきの沈んだ声が嘘のような明るい声で、
『明日の朝、部室に来てほしいのです。みんなで絵の見せ合いっこをしましょう。もう真一先輩には許可をいただきました。明梨先輩も了承済みです』
と、楽しげに言ってきた。
「それは別にいいけど、なんでこんな時間にわざわざ電話してきたんだ? それくらいメールでもいいだろ」
俺がそう口にすると、智香は歯切れの悪い話し方で答えてきた。
『え、え~と、部活の件を聞くのは実は建前で、先輩に電話したくなったのです。先輩の声って、聞いていると落ち着くんですよ。だから、えっと、迷惑でしたよね? すみません』
智香は申し訳なさそうに謝ってきた。その声から智香が落ち込んでいるのが目に見えるように分かった。
「あはは、まぁ、別に平気だよ。お前の言う通り、どうせまだ寝ないんだ。電話なんて迷惑でもなんでもない。むしろ、智香と話しているおかげで勉強の疲れも吹っ飛んだよ。ありがとう。でもな、智香は女の子なんだからこんな遅くまで起きていたら駄目だぞ。そろそろ寝ろよ」
俺がなるべく声を柔らかくしながら伝えると、智香はとても安心した声で、
『純先輩、ありがとうございます。本当に先輩は優しいですね。ふぁぁ、私、なんだか眠くなってきました。先輩また明日部室でお会いしましょうです。おやすみなさい』
とあくびをしながら言ってきた。
「あぁ、お休み。また明日な」
俺が別れの挨拶をすると、『はい。また明日です』という声と共に通話が切れた。
「ありがとうな、智香。俺も今日はよく眠れそうだよ」
さて、もう一頑張りするか。俺は机の上の参考書を開く。俺の長い夜はまだ続く。