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第四話:春木野

 青春とはなんだろうか。その定義はきっと人によって違うだろう。しかし、俺は断言できる。それは、今俺が置かれている状況とは真逆のところにあるのだと。少なくとも、男たちに囲まれて詰問されている現状には絶対当てはまらないと思う。

 授業終了と共にご飯を買いに行こうと席を立ちあがった俺だったが、突然、目の前に四人の男子が立ちふさがった。

「純、少し時間を頂こう」

「話があるのでござる。大人しく質問に答えるのでござるよ」

 険しい顔で、山本と田辺が俺に話しかけてくる。

「ごめんな。少し付き合ってやってくれ」

 なぜか長谷川が申し訳なさそうに苦笑いしながら、俺に謝ってきた。俺も苦笑いで「分かった」と答え、最後の一人に話しかける。

「お前は何の用なんだ、真一」

 俺が呆れながら聞くと、真一は、

「別にない!」

 と、力強く答えた。

「お前暇なのか?」

「うん」

 はぁ、もう何も言いたくない。相手するのも面倒くさくなった俺は、この馬鹿は放置しようと心に決めた。

「分かった。とりあえず飯を買ってくるよ」

 山本たちはうなずいた後、思い思いに昼食の支度を始める。その様子を見届けてから、俺は購買へ向かって歩みを進めた。


 購買から戻り、いつものメンバーのいる机に、自分の机をくっつける。

「それで? 一体何の用なんだ。俺は早く飯を食いたいから、手短にしてくれると助かる。あんまり時間かかるならまた今度にしてくれ」

 俺が面倒くささを隠さずに問うと、田辺は真剣な眼差しで俺を見つめ、ゴクッと唾を飲み込むと、緊張した面持ちで質問を口にした。

「純殿は……純殿は、リア充なのでござるか?」

「……はぁっ!?」

 突然何の話をしているんだ、こいつは。俺にはこいつらの真意がまったくもって分からなかった。

「何を根拠にそんな話になるんだよ。俺には女子にモテた記憶なんて皆無だし、第一、彼女だっていた覚えがないぞ」

 俺は今までの灰色の青春を思いだして、非常に悲しくなりながらもなにか勘違いをしている田辺たちに弁解をする。中学からの付き合いである山本は、

「っふ。やはりな。純がリア充なわけがないさ」

 と、若干イラッとくることを言うと、黙々と弁当を食べ始めた。しかし、田辺はまだ納得がいかないらしく、なおも食い下がってきた。

「だが、こないだ藤岡殿が『純は、俺たち非リア充とは別の世界に行ってしまったから』とおっしゃっておりましたぞ! これはどういうことでござる。藤岡殿が嘘をついているとでもおっしゃられるのか!」

 田辺は唾を飛ばしながら、ほとんど怒鳴るような口調で俺を問い詰める。俺はそんな田辺の様子に一瞬怯んだが、話しの中に知ったやつの名前が出ていたことに気付き、真一を睨みつける。

 すると奴はビクッと身体をこわばらせた後、人差し指をクネクネさせながら、

「だ、だってお前、最近智香とすごい仲がいいだろ? だからもしかしたらと思ってさ。僕は僕なりにお前たちを祝福してくれる相手を増やそうと頑張ったんだよ」

 と、まるっきり怒られた子どもが言い訳をするようなことを言ってきた。そんな真一の様子になんとなく怒るのが馬鹿らしくなってきた俺は、このままだと智香にも迷惑がかかるかもしれないと考え、田辺の誤解を解いておくことにした。

「あのな、田辺。俺は別にリア充になったわけじゃ――」

「なに!? なに!? どうしたの? なんかすごく楽しそうな話をしているみたいじゃないのぉ。私たちも混ぜてよ~」

「……混ぜてよ~」

 俺が田辺に真実を伝えようとしていると、なぜか横から双葉と岡部が割り込んできた。

「おいおい、なんでお前たちが入ってくんだよ」

「だってすっごく面白そうな話しをしているんだもの。恋バナはね、女子の活力なんだよ~。ねぇ、さやか」

 双葉が横にいる岡部に同意を求めると、岡部はコクコクと頷きながら、

「その通り……活力…なのだよ。パクパク」

 と、よくわからないことを抑揚のあまりない声で語った。

「なんだ、パクパクって?」

 俺が疑問を口にすると、岡部は、

「この場に充満している活力を食べているのだよ……フフフ」

 と、またも抑揚の少ない声で答えた。うん。今ので分かった。これは気にしたら駄目なパターンだ。こういうときは放置するに限る。

「それでそれで? 一体誰の話をしていたの?」

 双葉がキラキラした瞳で田辺に聞くと、

「じゅ、純殿の話しでござるよ。じ、じじ、じ実は、純殿がリア充になったとの情報が入ったのでござる。そのた、ため、今、ほほほ本人に確認を取っているのでござる」

 女子と喋り慣れていない田辺はキョドリながらも、必死に説明をしていた。そんな田辺の横で、山本は黙々とご飯を食べている。だが、よく見てみると目に見えてイライラし始めていた。山本はこういった野次馬的な人間を嫌っているふしがある。このままだと大変なことになる。俺は危機感と焦燥感に押しつぶされそうになりながら、なんとか早く事態を収拾させようと話し出す。

「その件だが、田辺。それはお前の誤解だ。俺と智香はそんな関係では――」

「え? 智ちゃんと純って、やっぱり付き合ってたの!?」

 あぁ、明梨。なんだってこんな時にお前まで来るんだよ。余計話が拗れてしまうだろ。

「いや、だから違うんだって」

 そんな俺の様子から、何を深読みしたのか双葉たちがはしゃぎだす。

「もう、純君。照れなくていいのに~。それで、智ちゃんって誰? 何年生の子? 二年生ではないよね。聞いたことないし。一年生かな」

「いや、三年生の可能性も……ある!」

 女子二人が心底愉快そうに騒ぎ出す。しかし、俺にはそんなことは全く気にならず、恐る恐る山本の様子を見ると、今にも爆発しそうな活火山のように真っ赤になっていた。

 そして、ついにその時が来てしまう。

「それで? 純君はその智ちゃんと付き合ってるのかな?」

「君たち少し黙っていてくれないか!」

 山本が机を叩いて声を荒げながら立ち上がる。その瞬間、騒がしかった教室が、時が止まったように静まり返った。

 そんな時が止まった教室を再び動かしたのは、止めた張本人の山本の一言だった。

「……すまない」

 山本の声は、本来の教室では全く聞こえないであろう位に小さかったのだが、静まり返った教室の中では、そんな小さな言葉すらはっきり聞こえてきた。その場の雰囲気にいたたまれなくなったのか、山本は早足に教室を出てどこかにいってしまった。

「あ、おい山本!」

 その後を、長谷川が追いかける。俺も一瞬追いかけようと考えたが、あいつを怒らせた張本人である俺が行くのはまずいかもしれないと考え直し、本日三度目の弁解をする。

「とにかく、俺と智香はそんな関係じゃない。分かったら席に戻れ。いい加減、俺に飯を食わせてくれよ……」

 俺がお腹を押さえながら懇願すると、流石にこれ以上聞くのは気が引けると考えたのか、「ちぇっ、折角男の子の恋愛事情を知るチャンスだったのになぁ~」

「残念……」

 と、文句を言いながらも双葉たちは席に向かって歩き出した。その様子をみて、俺は疲労感から一度ため息をついた後、田辺のほうへ視線を向ける。

「お前も、もういいだろ? 俺はお前の考えるような状況にはなってないよ。もしそうなったら、ちゃんと報告するからさ」

「……分かったでござる。今日のところは諦めるのでござるよ」

 田辺はまだ納得のいかない顔をしていたが、とりあえず今日のところは諦めてくれたようだった。やれやれ。やっと飯にありつけるよ。……山本たち、大丈夫だろうか。気にはなったが、考えたところで俺に出来ることはないと考え直し、俺の学校生活の中で唯一といえる至福の一時を過ごしたのだった。


 昼休みが終わるころすっきりした顔の山本と苦笑いの長谷川が教室に帰ってきた。その様子を見た双葉と明梨が、何故か俺のところに来てひそひそと話し出す。

「ねぇねぇ、純君。山本って昔からあんな感じだったの?」

 双葉の質問から、何故双葉が俺のところにきたのかを察した。おそらく双葉は、先ほどの山本の様子について、中学からの付き合いである俺に説明を求めにきたのだろう。

「あ~。山本は昔から興味本位で群がってくるような相手が嫌いなんだよ。中学の時も、たまにあんな風に暴走していたな」

 俺は双葉たちに説明をしながら、山本の暴走した時の姿を思い出し身震いした。普段の落ち着いたあいつが怒り出すと、手が付けられないのだ。中学時代の俺は、その状態の山本を『バーサク山本』と命名した。

「ふ~ん。確かに山本って、頭はいいし落ち着いているけど、なんか私より馬鹿っぽいよね」

「「それはない」」

 明梨と俺が同時にツッコむ。

「えぇっ! なんでよぉ。二人して私を責めなくてもいいじゃないよぉ」

 双葉は泣きべそをかきながら、廊下に走って行ってしまった。

「行っちまった……」

「ちょっとやりすぎちゃったかな?」

 明梨は少しオロオロした様子で廊下と俺を交互に見ながら呟いた。

「まぁ、双葉ならあれ位平気だろ」

 俺が苦笑しながら言うと、明梨は「そう?」と不安げに聞き返しながら、まだ廊下のほうを見ていた。

「それより、俺今さっき思ったんだが、山本と真一ってなんか似てないか?」

 次の授業の支度をし始めている山本を見ながら問いかけると、明梨は笑いながら

「確かになんとなく似ているかもね。でも、どこがって言われると分からないのよね。性格も、立ち振る舞いだって違うのに。なんだか不思議」

 と、首を傾げながら言った。

「そうなんだよな。うーん……。なんとなく隠し切れないどこかねじが抜けてる雰囲気が似ているかもしれない」

 俺が「クック」と笑いをこらえながら言うと、明梨は「失礼でしょ!」と言いながらも否定はしなかった。

「ん? ということはさ、もし山本と親しくなったとしたら、お前はあいつにも真一のように接するようになるってことか?」

 俺がふと浮かんだ疑問を口にすると、明梨は「うーん」と言いながら腕を組み、すぐに答えた。

「多分そうはならないんじゃないかな。真一は特別だし」

「え? それってどういう――」

 その時、チャイムが鳴りだしたため、明梨の言葉の真意について、俺は聞くことが出来なかった。


☆ ☆  ☆


 その日の放課後。俺が部室へ来ると、いつもは俺より先に来ているはずの後輩の姿が見えなかった。

「真一、智香がまだ来てないみたいだが、何か聞いてないのか?」

「ん? 僕は何も聞いてないぞ。でも確かにあいつが遅刻なんて珍しいなぁ。……純。あいつの教室まで行って様子を見てきてくれないか?」

 俺は答える代わりに頷くと、智香の教室に向かって歩き出した。


 俺は足早に智香の教室に向かって歩く。なんだか変な胸騒ぎがしたからだ。そのおかげか、思ったより早く教室にたどり着くことができた。放課後であるため、俺はノックなしでドアを開ける。するとそこには、ごみ箱に何かを捨てている智香の姿があった。

「智香」

 俺が呼びかけると、智香はビクっとした後、俺の顔を見ていつものニヤニヤ顔を浮かべる。そして、

「おや? 先輩どうしたのですか? もしかして私が居なくて寂しくなったのですか? 先輩は子どもですか! ふふ、しょうがないですね。ささ、部室に行きましょう」

 と言いながら、妙にテンション高く俺の手を引っ張り歩き出す。

「おいおい。そんな焦るなよ」

「遅くなってしまったので急がないと」

 早歩きで廊下を歩いていると、放課後になってだいぶ時間が経っているはずなのに、智香の教室から数人の女子の笑う声が聞こえてくる。そのことが気になり一瞬だけそっちに意識を向けたのだが、智香の柔らかく冷たい手の感触にドキマギしている俺はそんなことはすぐに忘れてしまったのだった。

 部室に着くと、いつの間にかさっきまでいなかった明梨が来ていた。明梨は俺と智香の姿を見つけると、横にいる俺を無視して智香に駆け寄り、

「智ちゃん。遅かったじゃない! 変な人に捕まったんじゃないかって心配だったんだよ。大丈夫?」

 と、心底心配そうに聞いていた。明梨の奴、まるで保護者だな。俺はそんなことを考えたが、勿論口には出さない。女子二人のやり取りの終了と共に、ずっと黙り込んでいた真一が、声を張り上げて叫ぶ。

「よし、お前たち。部活動を始まるぞ。今日は、二次元画像探しだ。ネットを使って自分の可愛いと思う画像を探して発表すること。制限時間は一時間だ。では、よーい――ドン!」

 俺たちは思い思いの画像を探しに、パソコンがある教室に向かって行った。



 事件とは唐突に起こるものである。土曜日。俺は折角の休みを大いに満喫しようと、いつもなら絶対に起きない時間に俺の宿敵が鳴り響くのを止め、ベッドから立ち上がった。昨日の天気予報で、あらかじめ今日の天気は快晴であることを確認していたため、俺は既に今日の予定を決めている。

 長らく触ってなかったテニスラケットとボールの入ったリュックサックをクローゼットから取り出して背負い、リビングに向かって階段を降りる。すると何やらリビングから、普段は聞くことのない野太い男の声が聞こえてきた。その声を聞いた途端、俺の中に妙な緊張感が生まれる。この家には現在、男は俺一人しかいない。そのため、この状況について俺が想像できる可能性はたった一つだった。

「すぅ、はぁぁ」

 俺は一度深呼吸をして、一気にリビングへのドアを開ける。するとそこには、俺の予想通りの出来事が待っていた。それは――。

「ん? おぉ、純! 起きてきたか。早くお前に会いたくて、父さんウズウズしてたんだぞぉ。いやぁ、やはり我が家はいいなぁ。仕事は嫌いじゃないが、お前たちや母さんに会えないのは辛くて辛くて」

 俺の顔を見るなり、その男はずっと我慢してきた鬱憤を晴らすように、怒涛の勢いで話し出す。この日、我が家にとって一大事な事件が起こった。そう。我が家に一家の大黒柱、つまり親父が帰ってきたのである。


 俺の親父――渋谷清隆は、劇団『水面』の主演男優だ。背は180前半と高め。髪の色は美愛姉より少しだけ暗い黒で、目つきはどちらかというと鋭く、クールなイメージである。我が家の中で親父に似ているのは優枝だけだ。ちなみに俺と美愛姉は母親似だとよく言われる。

 親父の所属している劇団『水面』は、知る人ぞ知るとても大きな劇団であるが、大劇団にしては珍しいことに一か所に居を置かず、いろいろなところに移動しながら劇をやる。そのため、いきなり現れたかと思うと、急に消えるなんてことも珍しいことではない

 そんな神出鬼没さからか、『水面』は幻の劇団と呼ばれ『この劇団の劇を見ることができたものは幸福になる』とまで言われている。その噂の真偽はわからないが、レベルの高さは並大抵ではないのは事実だろう。インターネットでは『水面』を探す人たちが作ったコミュニティーサイトまであるらしい。

 とにかく、そんな劇団に所属している親父がずっと家にいることが出来るわけがなく、ほとんど休むことなく全国を回っているために一年に片手で数えられるほどしか帰ってこないうえに、その時期もバラバラだ。だが、俺たちがそんな親父を嫌いになれないのは、ひとえに親父が俺たちのことを心底愛していることがわかるからだろう。年に数回しかない休みを、自分のためでなく俺たちのために使ってくれる親父を見ていたら、嫌いになんてなれるわけがないのだ。


 ひたすらに話し続けている親父をいい加減止めようと、俺は親父の前の席に座って、会話を遮るように話し出す。

「ところで親父。今回はどうして急に戻ってきたんだ? いつもなら『休みが取れたぞ! みんなでどこかに行こう』とか連絡してくるだろ」

 俺が聞くと、親父はバツが悪そうに頬をかきながら、

「いやぁ、実は空港から電話しようと思っていたんだが、携帯電話の電池が切れてしまってな。仕方なく公衆電話からかけようとして、ふと、突然帰ってお前たちを驚かせてみたくなってしまったため、何も連絡せずに帰ってきたのだよ。あはははは」

 と、しばらく笑っていたが、俺の顔が笑ってないのを見るとすぐに「すまん」と謝りシュンとしてしまった。

「まぁ、いいけどさ。それで、今回はどれ位こっちに居られそうなんだ? 当たり前だけどずっといられるわけじゃないんだろ?」

 俺はカップを二人分取り出してきて、そばにあったインスタントコーヒーを入れ、親父の前に置いた。

「おぉ、ありがとう。そうだな。大体一週間くらいだな。来週の土曜の夜には飛行機に乗らんと間に合わんから」

 親父は言い終わると、コーヒーを一口飲み、渋い顔をしてすぐにコーヒーミルクを二つ入れた。相変わらず苦いのは苦手なのか。そんな風にしばらく二人で話していると、リビングのドアが開き、美愛姉が目を擦りながら入ってきた。

「おはよー。良い朝だね……って、えっ、えっ! パパ!」

 最初は普通に挨拶していた美愛姉だったが、親父を見つけた途端、満面の笑みで顔を綻ばせて親父に向かって飛びつく。

「あはは、美愛! 大きくなっ……たかわからないが、いきなりとびついてくるなんて元気だな。父さん安心したよ。どうだ? 身長は伸びたか?」

 親父が子どもをあやすような優しげな声で聞くと、美愛姉は目じりに涙を浮かべながら首を横に振る。

「全然伸びないんだよぉ……。いまだに中学の制服が着られちゃうんだ」

 美愛姉の衝撃的事実に俺が唖然としていると、親父は自分の手を彼女の上に置いて、とても優しい手つきで撫でる。そして、

「美愛。そんなに嘆く必要はないだろう。確かにお前は、他の人に比べて小柄なほうかもしれない。だが、それがお前の魅力を下げるものか? 父さんはそうは思わない。勿論、家族としての贔屓目はあるだろうが、それを抜きにしてもお前は十分に可愛く育っている。なにより、人の魅力とは外見より内面だと父さんは思うぞ」

 と言い、にっこりと笑った。それを聞いた美愛姉の顔にもう涙はなく、嬉しさで顔を真っ赤にしながら「パパ、大好き!」と抱き付いていた。俺はそんな様子を見て微笑ましい気持ちになりながらも、

「親父。忘れているかもしれないが、美愛姉はもう大学生だ。流石に抱き付くのははしたないんじゃないか?」

 と、言わずには入れなかった。そう。この光景がもし、小学生か中学生くらいの娘と父親の間で交わされていたなら、そこまで違和感はないだろう。しかし、美愛姉は(たとえ見た目が中学生くらいだとしても)大学生だ。流石にまずいのではないだろうか。いや、何についてとは言わないけれど。

 俺の意図が伝わったのか、親父は少し焦り気味に美愛姉を離す。すると美愛姉は、頬を膨らませて「もう少しパパにくっついていたかったのに」と拗ねていた。

「本当に美愛姉はファザコンだな」

 俺が呆れながら呟くと、どうやら聞こえたらしく、

「えへへ、そうだよ~」

 と、惚けた顔で肯定した。

「ところで、優枝と母さんはどうした。中々起きてこないようだが」

 親父が天井を見ながら心配そうに聞いてくる。親父の指摘で珍しく優枝が起きてきていないことに気付いた俺は、二階の優枝の部屋へ呼びに行こうと立ち上がり、ドアのほうへ向かう。しかし、いざドアを開けようとしたとき、「待って」と後ろから美愛姉に呼び止められた。

「優枝ちゃんは今日から二日間、友だちの家でお泊り会なの。パパが帰ってくるなら呼び止めたんだけどね。私が今日早く起きてきたのは優枝ちゃんの代わりに料理を作ろうと思ったからだよ~。お母さんはいつも通り」

 優枝がお泊り会? 俺は同じ家にいながら、そんなことは全く知らなかった。とりあえず優枝がいない間は俺が家事をしなくてはならないため、早起きしなくてはならないことが分かった。なぜなら美愛姉に任せられないからだ。あの家族大好きな親父が、この世の終わりとばかりに絶望した顔を見せたのを、俺は見逃さなかった。美愛姉の家事スキルは絶望的なのである。


 この日の夜。俺は優枝がいないことで溜まっていた食器を洗っていた。

「おお、純。お疲れ様。オムライス美味しかったよ。後はやっておくから、お前は部屋に戻っていいぞ」

 美愛姉の「食事は私がつくるから大丈夫!」という意見をなんとか取り下げて作ったオムライス。それを食べ終わり、親父は満足そうに腹をさすりながら台所にやってきた。

「いや、いいよ。もうじき終わるし。親父こそ、めったにない休みなんだからもっとくつろいでいろよ。母さんにでも会ってくればいいんじゃないか? まだ話せてないんだろ?」

「いやいや、たまの休みだからこそ普段迷惑をかけている家族に尽くすのだよ。それに、母さんは仕事をしているのだ。邪魔してはいけないからな。まぁ、最終日まで会えなかったら声だけはかけにいくことにしよう」

 親父はそう言うと、洗った食器を食器用のタオルで拭いていく。親父が手伝ってくれたおかげで、食器洗いはすぐに終わった。

「あ、ありがとうな親父。おかげで早く終わったよ」

 慣れないお礼を言うと、親父は笑いながら、

「家族なんだから当たり前だ」

 と言って、リビングに戻っていく。俺もその後ろに続いた。

 リビングに戻ると、美愛姉が電話をしていた。美愛姉が親父が戻ってきたのに気付く。普段なら電話しながらでも親父に向かって歩いてくる美愛姉だが、なぜか今日に限って、そそくさと部屋を出て行ってしまった。そんな美愛姉の姿を見て、親父が目に見えてショックを受けていた。

「な、なぁ、純。私はあの子に何かしたのだろうか? もしかして! まさか! 嫌われてしまったのだろうか!? あぁ、美愛。私が悪かった。お願いだ、許してくれぇ」

 美愛姉がいつもと少し違うだけでめちゃくちゃうろたえている。どれだけ家族のことすきなんだこの人は。

「だ、大丈夫だって。多分彼氏との電話だから、流石に聞かれたくなかったってだけだよ」

 俺がそう答えると、うろたえていた親父がピタッと止まる。

「な、なぁにぃぃぃぃぃっ! 美愛にかかか彼氏だとぅっ!」

 あ、やばい。墓穴掘ったかも。気付いたときには時すでに遅し! ってな。……全く笑えない。さて、親父の怒鳴り声を聞く前に退散するか。俺はUターンして、リビングを去ろうとする。しかし、急に親父が後ろから肩を掴んできたため逃亡に失敗した。

「……親父。離してくれ」

「……純。話してくれ」

 なんか言葉をオウム返しされた。いやまぁ、言っていることの違いくらい判るけどね。仕方ない、観念して話すか。


            ~30分後~ 


「そうか。美愛に彼氏が……」

 予想に反して親父は静かに話を聞いていた。そのため、説明は思ったよりすんなり済み、俺は親父の暴走に巻き込まれないですんだと内心胸を撫で下ろす。

「親父。……大丈夫か?」

「ん? 何がだ?」

なんとなく俺が聞いてみると、親父はいつもと変わらない様子で問い返してきた。

「いや、まぁほら……最愛の娘が親父の知らない間に、知らない相手と付き合い始めたって聞いて、納得できているのかなぁ……とか思って」

 刺激しないようになるべく声を抑えて聞いてみる。すると、親父は俺の頭に手を乗せ、

「その相手になら美愛を任せてもいいと、お前はそう思えたのだろう? なら私も信じてみよう。それが親ってものだ。子どもを信じて見守る。親が出来る一番の特権だよ。だから美愛のことも、お前のことも、勿論優枝のことも信じる。お前たちの選択は間違ってないよ。私はただ見守り、そして支えるだけだ。どんな結果になってもな」

 と、とても暖かな目をしながら答えた。俺はこの時、改めて親父の――いや、親の偉大さを認識したのだった。



☆ ☆  ☆


 ついにやってきた智香との約束の日曜日。俺は約束の一時間前に駅の改札前にいた。勿論女の子を待たせたら悪いというのも理由もあるが、一番の理由は楽しみで眠れなかった……だ。お前は遠足前日の小学生か! と言われても反論はできない。しかし、考えても見てくれ。今日はただの遊びではない。相手は女の子、しかもかなりの美少女なのだ。  

 確かに彼女は世間一般の『普通の女子高生』という枠には当てはまらない。それに今日これから向かう場所は、お世辞にも普通の男女が行くような場所ではないのも確かである。

 しかしそのマイナス面を引いても、今日の智香との外出は、ずっと灰色の青春を過ごしてきた俺にとって、楽しみで眠れなくなるくらいに心躍るイベントだといえるのだ。

 俺がドキドキしながら待っていると、服が後ろに軽く引っ張られた。こんなことをしてくるのは一人しかいない。俺が緊張しながら後ろを向くと、予想通りそこには俺の約束の相手が柔らかい笑みを浮かべながら立っていた。今日の彼女は、白い服の上に水色の丈の短いシャツを羽織り、膝下くらいまでの長さの黒いスカートをはいていた。首にはこの間つけていたハートのネックレスを着け、手にはリスのワッペンが付いた手提げ鞄を持っている。

「おはようございます先輩。お待たせしてしまいすみません」

 智香はそう言ってペコリと頭を下げる。そして、顔を上げると俺に向かってニヤニヤ顔を浮かべながら、

「今日の服装は明梨先輩に教わったことを活かし、この間着てきた服と一緒に譲って頂いた何着かを私なりにコーディネートしてみました。いかがですか?」

 と、自信ありげに俺に聞いてきた。正直なところ、俺の好み直球ど真ん中だった。前に見た智香の服装もかなり可愛かったが、今回のほうが智香の人形のような白い肌や、彼女の清純な雰囲気といった魅力を引き立たせる似合った色の服装だといえる。それに鞄についているリスが智香の女の子らしさを表していて、俺は彼女から目を離せなくなってしまった。

 完全に木偶の坊と化した俺が智香の姿に見とれていると、流石に恥ずかしくなってきたのか、智香は後ろに組んだ手をモジモジしながら、俺に向かって、

「そ、そろそろ行きましょう。春木野が逃げてしまいますよ」

 と、意味わからない事を言ってきた。

「いや、逃げないだろ。お前はあそこを未知の生命体とでも思っているのか」

 智香がボケて、俺がツッコむ。そんないつも通りのやり取りのおかげで、俺はなんとか平常心を取り戻すことができた。

「よし。じゃあ、行くか」

 俺がそう告げると、智香は満面の笑みで力強く首を縦に振った。こうして俺たちの春木野デート(?)の一日が始まった。

 休日だからか、電車の中は思った以上に人でごった返していた。しかし、俺と智香はうまい具合に席につけたため、暑いだけで意外に快適に過ごせている。

「ところでさ、智香。お前、お父さんには俺と出かけること言ってきたのか?」

 ふと、智香がちゃんと俺と出かけることを親に言ってきたのか気になった。仮にも年頃の女の子が、知り合いとはいえ男と一日過ごすのだから、親――特に父親は心配するのではと考えたためだ。

「え、えっと、言って……ません。実は最近、お父さんと会ってないのです。だから、言う機会がなくて」

 そう言った智香の顔は、少し寂しげに見えた。

「そっか。お母さんには?」

「お、お母さんは――」

 智香が答えかけたとき、『春木野~、春木野です』というアナウンスが流れた。その瞬間、智香の顔がパァっと明るくなる。

「じゅ、純先輩。早く降りましょう! 春木野ですよ~!」

「ちょ、ちょっと待てって!? 焦るなよ!」

 ドアが開くとともに、俺は智香に引きずられるように、春木野の電気街側の改札口まで引っ張られていった。


☆ ☆  ☆


「ふぁああ、久しぶりの春木野ですね。みなぎってくるですよ、デュフフ」

 智香は春木野に着くなり、春木野の街を見回しながら心底嬉しそうに言った。

「いや、この間メイド喫茶に行くために来たばかりだろ? まだ二週間も経ってないぞ」

 俺が呆れながら言うと、智香は俺のほうへ向きなおり、俺に向かって胸を張って自信満々に、声を張り上げていった。

「チッチッチ、先輩。舐めてもらっては困るのですよ。私にとって、ここに来ない二週間は二年、二十年にも匹敵するんです。つまり久しぶりなのですよ、デュフフ」

 智香のそんなワケの分からない返答を聞いてもそれほど気にならなくなってきたことに、内心驚きながら智香の言葉にどうツッコみを入れるべきか考える。その間に彼女は我慢できなくなったのかアニメ宝庫と書かれたショップに走って行ってしまった。

「あ、おい! はぁ、あいつは子どもか。無事なんの問題もなしに帰れるといいんだけどな」

 そう考えながら、俺も智香が走って行った建物に入る。するとそこには、ショーケースに張り付く智香の姿があった。

「おい、お前は何をしているんだ。そんなところに張り付いていたらほかの客の邪魔になるだろ。早くそこをどきなさい」

 俺はそう告げ、智香をショーケースから引っ張り剥がそうとしたのだが、離してもすぐにまた磁石のように張り付いてしまうので、仕方なく剥がすのはやめて智香に張り付いている理由を聞いてみた。

「なぁ智香。お前はなんでショーケースに張り付いてるんだ?」

 俺が疲れながらそう聞くと、智香は張り付いたまま、

「このショーケースの中に、『放課後の鐘の鳴るころに』に出てくるひなりちゃんの、限定版サイン付ぬいぐるみがあるんです。これは極秘に行われたとあるイベントで、限定数百名様にだけプレゼントされた超プレミア物なのですお。こんな素晴らしいものが売っているなんてここは天国でしょうか。う~欲しい! けれど、高いのです……。だから、せめてしばらく眺めていようと思ったのですよ」

 智香はそう言うと、値段を見ながら、「ぐぬぬ」と唸っていた。俺も横から値段を見てみると、値札には七万と書いてあった。

 ――確かに高い。いつもの俺ならこんなにお金を払って何か買おうなど思わないのだけれど、横のいる智香のもの欲しそうな顔を見ると、俺の中の何かが揺れた。俺は財布の中身を確認する。去年やっていた短期バイトのおかげでお金はある。しかし、ここでこんな大金を使ってしまってはこれからの俺の生活に響く可能性は大きい。

 俺はもう一度、横にいる後輩を見る。フィギュアを片手に小踊りしている智香。約束を破られて、部室で一人寂しげに笑う智香。そして――この人形を抱いて笑っている智香。それらを想像した時、俺は覚悟を決めた。こんなときに行動できなくて何が男だ! 意を決し、俺は店員を呼んだ。

「すみません。このショーケース開けてもらえますか?」

 俺が呼びかけると、店員はすぐにショーケースを開けて俺が指示した例のぬいぐるみを取り出してくれる。その様子を見た智香は、呆気にとられてしばらく放心状態で立っていた。しかしすぐに申し訳なさそうな顔になり、

「先輩! いいんですよ。そんな高いもの買わないで。私は大丈夫ですから」

 と、いつもとは全く違う真剣な声で俺に向かって訴えてきた。しかし、それを無視して俺は店員にお金を払い終え、手に入れた人形をそのまま智香に渡す。

「先輩、こんなの貰えませんよ……。なんで私のためにこんな高いお金を払ってしまうんですか!」

 智香は心底困ったような顔をして俺に抗議してくる。そんな智香に、俺はいつもみたいに照れ隠しせずに、自分の気持ちをちゃんと話そうと決めた。

「今回はお詫びもかねてここに来たんだ。それにな、これはお前の為だけじゃない。俺がお前に喜んでほしかったから買ったんだよ。だから遠慮なんてするな。むしろ貰ってくれないと困るぜ? 俺がその人形抱えてる姿を想像してみろよ。……笑えるだろ?」

 俺が軽く笑いながらそう伝えると、智香は震えた声で、

「……先輩は本当に馬鹿ですね。私を喜ばせたいって理由だけで大金をはたいてしまうなんて。本当にもう……。ありがとうございます。一生大事にしますから!」

 と、俺に告げて人形を抱きしめながら、満面の笑みでお礼を言ってくれた。その笑顔は俺が今まで見たどんな笑顔より可愛かった。俺はしばらく智香の笑顔に見とれていたのだが、ふと気が付くと周りの視線が痛いことに気が付いた。所々から「リア充、消えろ」という呪いに似たようなことを呟く声が聞こえる。智香もそれに気づいたらしく、顔を真っ赤にしながら俯いてしまった。俺はその場を脱出するために、智香の手を引いて外に向かって歩き出した。


 腹が減った。時刻は十三時。お昼時だ。あれから智香に連れまわされて、ゲームセンターやらフィギュアショップやらを二時間近くかけて回った。普段の体育ですら倒れそうになっている智香のどこにこんな体力があるんだと心底不思議で仕方ない。

「お前の身体はどうなっているんだよ。どうして明らかに俺より体力のなさそうなお前のほうが元気なんだ?」

 肉食獣が獲物を探しているような様子で周りを見回していた智香に、呆れ果てながらそう問いかけると、

「キャラクターへの愛のおかげですよ!」

 と胸を張りながら答えてきた。本当に意味が分からない。いつか俺にも理解できる日がくるのだろうか? ……いや、出来る気がしないし、理解したくない。

 とりあえず、そんなこんなであっという間に昼を越えた。俺がへばりながら智香の後ろについていくと、急に前を歩いていた智香が後ろを振り返る。

「なんだか飢えた獣のような目をしてるですね。デュフフ、もしかしなくてもお腹空いていますか?」

 智香がいつもどおりのニヤニヤ顔でそう聞いてきた。ここで「腹減った」と、素直に思っていることを言うのも癪に障るため、

「べ、別にそんなにお腹減ってないから食わなくても平気だぞ?」

 と、見栄を張ってみる。しかし、その後に鳴り響いた「グ~」という音によって俺の見栄は一瞬にして意味を失った。

「……はぁ、私相手に見栄を張っても意味ないですよ。ふふ、仕方ないですねぇ。私の、特製智ちゃん弁当『おふくろの味』を分けてあげるですよ。ありがたく食べてくださいね」

 智香はそう言うと、持っていたカバンからわりかし大きめの弁当箱を取り出して、俺に渡してきた。なるほど。最初から鞄が膨らんでいたのは弁当が入っていたからか。……というか、持っていたなら早く出せよ。そんなことはおくびにも出さないのが大人というものだ。

「いいのか? お前の昼ご飯なんだろ?」

「全部はあげませんよ。私一人では食べきれないので分けてあげるのです。半分っこ、といこうではありませんか」

 智香はそう言うと、近くにあった公園に向かって歩き出した。俺も素直にその後に続くことにする。

 公園に着くと、智香は先にベンチに座って、俺が来るのを待っていた。待たせるのも悪いので俺も隣に座る。智香に弁当箱を開ける許可をもらい勢いよく蓋を取ると、そこには唐揚げや卵焼き、ほうれん草のバター和え、タコさんウインナーに大粒のいちご、そしてキャラクターの顔に見えるようにふりかけで色付けされたごはんなど、色鮮やかにたくさんの具材が綺麗に詰められていた。凄くうまそうだな。これのどこが『おふくろの味』なのかは分からないけど。

「それでは、食べましょう」

 作った本人が先に食べるべきという俺の提案が採用され、智香が先に半分食べる。そして弁当箱と箸を俺に渡してくる。

「デュフ、はいどうぞ」

 俺も食べようと、具材に箸をつけようとしたとき俺は大変なことに気付いた。

 これって間接キスじゃないか?

 そう考えたら、箸が進まなくなった。横のいる智香を見ると、彼女は気付いていないようで、俺が食べないことを不思議に思っているようだった。この子、警戒心無さすぎじゃないか? このまま何も言わず食べるのは、なんとなく男としてやってはいけない気がしたので、俺は智香に確認を取る。

「あのさ、智香。俺はこのままこの箸を使っていいのか?」

 俺が箸を持ちながらそう告げると、一瞬キョトンとした後、急激に智香の顔が赤くなる。そして、俺から箸を奪い取ると近くの水道に洗いに行き、綺麗になった箸をまた俺に渡すと、まくしたてるような早口で俺に抗議してくる。

「せ、先輩も意地が悪いですねぇ。わ、わ、私に言わず間接キスをしようとするなんて。そんなことが許されるとでも? いや許されるわけがないのです。いくら先輩が女の子に興味がある年頃だとしてもですね。こ、後輩の女の子が使った箸をなめ、なめまわそうとするなんてダメなのですよ。ダメなのですよ! 大事なことなので二回言いました。キリ」

「あの~、智香さん。早口すぎて何言っているか分からないですよ? それになめまわそうとなんかしてないだろ。むしろ逆に、ちゃんと口をつける前にいっただろうが。というか、箸一本しか持ってきてないのかよ!」 

 俺は智香の言い分に反論するが、混乱している智香にはまったく聞こえていないようだった。仕方がないから、目の前の弁当を食べ始める。おぉ、この卵焼きかなりうまい。

 しばらくして智香が落ち着いたのを見計らって、弁当箱と箸を洗って返す。智香は恥ずかしさからか、俯きながらそれを受け取って鞄にしまう。

 それにしても智香の弁当は予想以上に旨かった。智香の弁当のおいしさにかなり感動した俺は、彼女にちゃんと感謝の気持ちを伝えておくことにした。

「智香。弁当を分けてくれて本当にありがとうな。本当においしかったよ」

 俺がお礼を言うと、智香はやっと顔を上げていつものニヤニヤ顔で頷いた。

「満足していただけたなら本望ですよ」

 智香は弁当を褒められたのが嬉しかったのか、終始笑顔だった。そして、

「このお弁当の具材の作り方は、母のレシピで勉強したのです」

 と、とても誇らしそうに言った。

「そうなのか。今でもお母さんに教わっているのか?」

 俺が何気なしに聞くと、智香の顔が急に曇る。俺はそんな彼女の様子を見て聞いてはならないことを聞いてしまったことに気付いたが、すでにもう遅かった。智香は口をギュッと結んで、少し黙り込んだ後、

「母はかなり前に亡くなりました」

 と呟くような小さな声で答えた。

 気まずい雰囲気が流れる。

 俺が謝ろうと口を開きかけたとき、眉をへの字に曲げながら、困ったように笑っている智香が、急にベンチから立ち上がる。

「別に気にしなくて平気ですよ。もう、昔のことですし。そろそろ行きましょうか」

 智香はそう言うと、先に公園の出口に向かって歩き出す。

 俺も慌ててその後についていくが、先ほど見た、彼女の泣きそうになるのを耐えるような顔が、しばらく俺の脳裏から離れなかった。


 電気街に戻ってきた俺たちは、次に智香おすすめの『アニマニア』という少し小さ目の、人どおりがあまりない場所に建っている、所謂『穴場』と呼ばれるアニメグッズ専門店に行くことにした。穴場と呼ばれるだけあって、そこに行くにはかなり入れ組んだ道を通らなければいけなかったのだが、特に行きたいところが浮かばなかったため、智香の意見を採用することになった。

 智香は店につくなり、店の奥のほうへどんどん進んで行く。またもや置いてきぼりである。

「本当にあいつは好きな物のことになると猪突猛進になるなぁ。まぁ、楽しそうで何よりだけど」

 俺が呆れながらそんなことを考えていると、先に行っていたはずの智香が進んだときと同じ速度で戻ってきて、

「なにしてるですか、純先輩。早く奥に行くでござる。ハァハァ、流石私が見つけた天国。他では売っていない良品を数多く揃えていますね。ここが穴場と呼ばれる理由がよくわかるですよ、デュフフ。この場所で私に勝てるものはいない! さぁ、いざ我がユートピアに行きましょう」

 と、鼻息を荒くして興奮しながら呟くと、またどんどん奥に入って行ってしまった。

「はぁ、もうとにかく行くしかないか」

 俺はため息をつきながら、智香に続いて店の奥に入って行った。

 一時間後、智香は満足したのか、急に「もう出ましょう。熱くなってしまいました」と言ってきた。そりゃ、この狭い店の中に一時間もいたら熱くなるだろうよ。智香が出にくそうにしていたため、また手を繋ぎ、引っ張りながら店を出る。

 外に出ると、来た時より人がたくさんいて道がごったがえしていた。

「うわっ、結構人が増えてるな。休日だからか?」

「いえ。ここは昼を過ぎると人が増えるのですよ。結構昼夜逆転の生活を送っている人がきますからね、このお店。とにかく次の場所に向かいましょう!」

「あ、ああ。しっかり俺の手を握ってるんだぞ? はぐれたら大変だからな」

「はい!」

 ごった返している大通りをみる。正直あの中に突っ込んでいくのは遠慮したいが、あそこを通らないと次の場所にはいけない。智香にアイコンタクトで「いくぞ?」と伝えると、彼女は笑って頷いた。

 大通りに出る。そこは思っていたよりも人通りが激しく、道行く人に何度もぶつかる。

「あ、すみません」

 少し小太りした男性に衝突する。

「気を付けるんだな! 美都ちゃんのフィギュアが壊れてしまうんだな!」

 もう一度謝ると、何も言わずズンズンと歩いて行ってしまった。その後も、何度も何度も道行く人に肩やら腕やらをぶつけてしまう。隣を歩く智香も非常に窮屈そうだ。

 次の瞬間、横断歩道の向こう側から歩いてきた男性にぶつかり、思わず智香の手を離してしまう。俺はしっかり智香の手を握っていたのだが、何度も人にぶつかっているうちに彼女の手を握る力が弱まっていたのだ。「先輩!」という声とともに智香がどんどん人の流れに流されていく。

「智香!」

 最悪だ。こんなに人がたくさんいる中で、女の子一人を見つけるのはかなり困難だといえる。追いかけようとするが、とてもじゃないが追いつけない。とにかくこの波から抜け出さなくてはと思い、人の少ないほうに進行方向を変える。

「どこだ、智香!」

 泳ぐように人をかき分け急いで波から抜け出すと、俺は智香の名前を叫びながら周りを見回す。しかし俺の周囲はせわしなく動き回る人と、勧誘で声をかけてくるメイドの声で埋め尽くされていて、その中から智香の声を聞き分けることなど到底不可能であった.

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