此我は斯く語りき
淫獣枠(?)
草原。見渡す限りの草原だ。
それはつい先程も見た景色で、一片の変わりもない。ただ違うと言えば、あの黒騎士はおらず、血痕すらも残っていないことだ。実に奇妙な現象で興味がそそられないでもないが、どんなに不幸が好きでも死にたがるほど自虐的ではないつもりなのでその場を早急に立ち去ることを決めた。
正直現状がどうなっているのか全く理解出来てはいないのだが、少なくともあの場に居座っても良いことなど一つもないだろう。それだけは確かだ。それが分かっているならば、あとは逃げるだけだ。
何処へ向かえばいいのか、見当のつけようがない。この場を早急に離れなければいけないことも分かっているが、だからと言って無闇に無鉄砲に歩き回るのも宜しくはない。
そんなことは分かっている。分かってはいるのだが、足が小刻みに震えていた。
この場には居たくない。居られない。身体が死への恐怖を拭い去ることが出来ず、打ちのめされたようにその感覚を伝えるのみだ。その感覚を堪えきることが出来ず、俺は脱兎のごとくその場を逃げ出した。
走れど走れど、視界に入るのは青々とした草木のみで、人の住む街どころか、森や川さえも見当たりはしない。
走っても。走っても。走っても。
何もない。何も変わらない。何も起こらない。
吸った空気が重い。それはとても重く、取り込んだ肺を圧迫するように膨張しては吐き出される。それと同じように足は次第に重みを増し、やがて足を上げることすら重労働にも思え始めてきた。そんなポンコツな身体を引き摺るように前へ前へと押しやっていたのだが、意識の薄くなっていた足元に現れた何かに躓いて転倒する。
「あいたーっ!」
「ぐっ!」
転倒する際に疲労のためか咄嗟に腕が出ず、それでも正面から倒れることを避けたために肩から草地へと倒れこむ。下が柔らかかったために大した怪我をすることもなかったが、予想だにしない転倒で少し頭がふらついていた。
どこか剽軽で尚且つ人の感情の表面をざらざらと逆撫でするような悲鳴が漏れていたのを聞き逃さなかった。その原因となった何かを睥睨すると、妙にちんちくりんな変な生物が足掻いていた。
「あつつー……あっ!あんさん!あっしを助けてくだせぇ!」
どこか江戸っ子とでも言いたげなべらんめえ口調で話す奇妙な喋り方。そしてそれがいやに人を腹立たせる。態とやってるのか?
「あっしを足蹴にしといて放置とかしやせんよね?」
「あ?」
「ひいいいぃぃぃぃ!」
何だこいつ。自分で嫌味言って来て睨まれたらビビってるんだが。喧嘩を売ってくる割に弱気が過ぎるんじゃないだろうか?
そもそもこれは何なのか。とても分かりやすく表現すると鹿。角と蹄が特徴的な見た目をしている。しかし、鹿にしては非常に小さく、両手で掬えるような大きさだ。突然変異と言ったところだろうか。まるでぬいぐるみにでもしたように見事にデフォルメされた鹿にしか見えない。なんだか存在自体胡散臭い。
「今のは冗談です!殆ど本音ですが冗談でやす!」
「……」
「ひいいいぃぃぃぃ!鍋にはなりたくねえでやす!」
俺自身何も言っていないのだが、一人でやけに盛り上がっていて正直鬱陶しいことこの上ない。
「生まれて此の方4年と8233日、嘘も吐くことなく真面目に生きてきやした!冗談はしょっちゅうでやしたが!」
何とも回りくどい年齢の紹介なのか。……こいつの方が俺より年上じゃねえか!って鹿が喋ってる!?本当今更だけど!
「え?お前喋れんの?」
「見ての通り、寡黙なあっしでも喋ることくらい出来まさぁ。そこいらのシグミーと一緒にして欲しくねえです」
「シグミーって何だよ」
「えっ?あんさんシグミーご存じない?こんな愛嬌ある存在をご存じないと?」
「あ?」
「ひいいいぃぃぃぃ!すいやせん!冗談がすぎやしたね!愛嬌あるのは本当ですがそんな有名な存在じゃあありゃしやせん。希少民族でやす」
「知らねーよ」
正直そんな存在聞いたこともない。実際目の前にいる存在のことも受け入れることは出来ず、納得することなど出来ない。納得することが出来ないと言えば、あの黒騎士のことも――
ブルリ、と身体が恐怖に震えた。
「あ、今あんさんビビりやしたね?」
「うん?」
「ひいいいぃぃぃぃ!つい見たまんまのことをおおお!すいやせん!流してくだせえ。あんさんがビビってたことはあっしの心のうちに隠しときやすので!」
なんだろうか、尽く鬱陶しい。と言うよりも、ウザイ。
「あっしの秘めたる才能に恐れ慄いてても仕方ねえですよ」
「もう一度言ってみろ」
「ひいいいぃぃぃぃ!すいやせん!あんさんがビビってるのは【影絵】っすよね!」
「……【影絵】ってなんだ?」
「あんさん【影絵】もご存じない!?どんな人生歩んできたんでさあ!」
「おい」
「ひいいいぃぃぃぃ!――」
とまあ、以下このようなやり取りを繰り返すこと十数分。必要な情報をどうにか得ることには成功した。それにしてもこの生物は本当に鬱陶しい。嫌味や皮肉を口に上らせるは、無駄に謝る。目敏くどうでもいい場所を見つけてはつつく。態と話の論点をずらす。
話し相手としては最悪の部類だろう。
ちなみに【影絵】とは影のあるところに現れる"神"らしい。その名の通り、影のように姿形を変えて人前に姿を現すと言う。基本的に無害な存在であるらしいが、時には都市を壊滅させる程の力を振るうという。過去に二度、実際にそうした事実があるらしい。しかし、その理由は明白になったことはないらしい。総括すると不気味と言われるような存在だ。
ここでようやく、俺はここが地球ではないことを認めた。荒唐無稽にも程がある。馬鹿な。あり得ない。否定する言葉はいくらでも出てくる。幻覚だ。夢だ。幻だ。その一言で全てを言い切ることも出来るだろう。だがそれはつまらない。どんな因果かは知らないが、この顛末もそう簡単に見逃せるほど些細な事象ではない。
これはつまらない人生に終止符を打ついい機会ともなるやもしれない。そう考えると無性に感情が沸き立ち、身体に震えが走る。
下らない世界と俺に別れを告げる。
何とも魅力的なことか。
「あんさん!聞いてやすか?あっしを助けて欲しいんでやすが」
「なんで助けなきゃなんないのさ」
「いやいや、それは人情ってやつでさあ」
「でも俺にメリットはないだろ?」
「デメリットもありゃしやせんやないですか!」
「いや、必死なお前見てると面白いし」
「鬼がいやした!!」
やっぱり鬱陶しいな、こいつ。黙らせてしまうのも、この際ありだと思う。
「ひいいいぃぃぃぃ!あんさん目が人殺しの目でやんす!」
「……ちっ」
無駄に勘がいいな。
それにしても本当にどうしようか。助けようとも思わなければ助けたくない訳でもない。正直どうでもいい。
「物知らずのあんさんのお助けをいたしやす!これはメリットになりやすよね!?」
ちゃっかり嫌味を混ぜてくるのはやっぱり天然か?生きるか死ぬかの瀬戸際っぽい状況でそんなことを言っていられるとはなかなか図太い神経をしていると思う。
だからと言って助けるつもりにもならないが。むしろ助けてやる気も失せた。
「あっしもいれば【影絵】も寄って来にくいでやんす!」
今こいつなかなか重大なこと言わなかったか?と言うよりも態と伏せてた?
「……話を聞こうか」
こうして俺はまんまと、鹿野郎の口車に乗るハメになった。
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