黒イモノ
何もない平野。一面に広がる草原。先程までの駅の雑然とした景色の一切がない。
意味が分からない。理解できない。寝ているのか、幻覚を見ているのか、それすらもあやふやで地に足が着いていない不安定な状況の上にいた。
本当にここは、何処なのだろうか。
身体をチェックする。胸、腕、足、腰、首。どこにも異常はない。異常が有るとすれば、それは間違いなく頭の中に違いない。
「持ち物の確認でもするか」
口に出したことに特に意味などはない。意味などはないのだ。
学生服、学生鞄、ローファー。以上。
持ち物の確認は五分もあれば終了してしまった。特に遺失物だとかそう言った類のものはなく、駅にいた時点と全く代わり映えのない格好であったことが知れた。だが、その中でも有益なものを発見することが出来た。それは所謂文明の利器というやつで、現代社会においては必須と言わざるを得ないもの――そう、携帯電話だ。
『高校生にもなるのだから』と無理矢理に持たされてから早六ヶ月、電話帳には両親と自宅、学校への電話番号が登録されているのみで、初日に母親がかけてきた以来電話を取った記憶もない。碌にメールアドレスも変えないまま放置している。そんな携帯電話を自分からかけることになるとは思っても見なかったが、まあいいだろう。
そう思いながらも番号を押してみるが、うんともすんとも言わない。一体どうしたことだと思ってみればなんてことはない、ただの充電切れだったのだ。それもそうか。一ヶ月以上触った記憶がないのだ。充電が切れていても不思議なことはない。
となればとる手段は既になかった。
あとはこれが夢落ちでしかなかった、という結果を望むしかない。だがそれはもっともつまらない結末だ。それならば何かしらの行動でも取って見せるのが最良ではないかと思ってはみたものの、かと言って何かをする気力があるわけでもない。
あたり一面平野なのだから、見渡したところで新たな情報が入ってくるわけでもない。
不意に空気が重くなった気がした。辺りを見渡せど、そこにはなんの変哲もない草原しか視界には入らない。となればこの不調は自身のものなのだろうか。そう思いはしても俺自身が医者でも精神医でもないのだから診断の仕様もない。そして結局は分析を諦めるしか選択肢はなかった。
正直、そのようなことなどはどうでもいい、というのが本音と言ったところか。
そしてそれは唐突に現れた。
なんとなしに濃厚な気配を感じ取り視線をやった先に、巨大な黒い馬に乗った全身漆黒の騎士が居た。音もなく現れたそれに俺は畏怖を覚えた。
――どうやって。
――いつの間に。
――どうしてここに。
一瞬で複数の思考が走る。けれどそれはやはり意味のない思考でしかなかった。
そいつは何故か醜悪な気を放っており、決して友好的とは言えない存在だ。むしろ、俺に差し向けたその槍は鋭利な光を反射し、今にも射殺されかねない様子だ。
現代社会においてこのような格好をしている人間が居たらまずはコスプレを疑われるか、警察の厄介にでもなっているところだろう。そんなことは小学生でも知っている。しかし、敢えてこのような格好を取るのは、また別の何かの意思があるのかもしれない。それは何よりも目の前の存在が証明していた。
その格好にもたついたところはなく、逆にその格好をすることが平常であるかのように揺らぐこともなく立ちはだかる。その圧倒的な威圧感は、そこらの軍人であろうと平然と屠り去ってしまいそうな気配を発していた。当然、俺が生き残れるような感覚もなかった。
ゆらり、と黒騎士が動いたような気がした。
「あんたは……」
発した声は掠れていた。
ああ、なんだ。
――俺も、死ぬのが怖いのか。
「ひひひひひひひひっ!!」
哄笑が聞こえた。まるで人の不幸を嘲笑うかのような耳障りな声。俺は思わず黒騎士から目を逸らして周囲を伺った。だがそこには人の影すらもありはしない。
それは当然だった。その笑い声は、俺の口から零れていたのだから。
滂沱の涙を零しながら、口からは嗤笑が止まらない。
「ひひひひひひひ」
黒騎士が馬を駆り立てる。それを見ても俺は動くことが出来なかった。馬鹿みたいに笑い続け、怯えたように涙を零すだけ。
加速が早い。既にすぐそこ。もう間に合いはしないだろう。俺はここで死ぬのだ。
「ひひひひひひどぅっ!!」
息が詰まった。胸に黒い槍が生えていた。そこからは恐るべき勢いで血が溢れ出している。心臓がやぶれたのだろうか。肺が破れたのかひどく息苦しい。数刻遅れの痛みが全身を襲う。思わずもがき苦しみに耐えようとするが、既に腕も足も動かせる力は残っていなかった。全身を覆う倦怠感。
急速に意識が離れていく。今まで見えていた草原や黒騎士、そして噴水のような血の景色がブツリと消えた。
* * *
気がつけば視界の隅に黒い影が揺らめいていた。
はっきりしない意識でそれを見やれば、あの女子高生が今にも倒れそうな様子でレールへと向かって歩いていた。
あれは一瞬の幻だったのだろうか。――それは断じて違う。胸に感じた痛みは決して幻覚や妄想の類ではなかった。そもそもそれを想像しうる経験などしたこともない。急速に消える意識もそうだ。あれは間違いなく死だった。間違いなく俺は死んだはずだった。それがどうしたことか、こうして俺は生きていて、現に駅へと戻ってきて落ちそうな女子校生を眺めている。
そんな思考をしていると、やはりあの女子高生はホーム下へと転落した。
相変わらず何が起きたのか理解していないような表情で俺のことを見ている。
そうだよな……。死ぬのは、怖いよな――
俺はそう思い、涙を流しながら高らかに嗤った。まるで少女を送るように、祝福するように。
そして再び、視界は暗転する。
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