大盛りナポリタン
雨が降っていた。
千葉から地元へ高速で帰る途中。
首都高で事故があったらしい。
初めて通過するICを下り、カーナビ通りに進む。
しばらくすると、見覚えのある街になった。
大学入学から二十八歳の約十年間、暮らしていた街だった。
通り過ぎてゆく景色の中、よく通っていたカレー屋がラーメン屋になっていた。
あれから二十年。
あの頃のまま残っているもののほうが、むしろ不自然だ。
信号が赤から青に変わる瞬間、衝動的にウインカーを点けた。
ハンドルを右に切る。
あのコインパーキングは、まだ残っているだろうか。
******
傘を差しながら人の少ない商店街を歩く。
足繁く通っていたゲームセンターは雑貨屋に。
ちょっとした贅沢だった焼き鳥屋はコンビニに。
いつか二人で入ってみようと言っていた焼肉屋はおしゃれなヘアサロンに。
シャッターが下りている店も多い。
だけど、謎の刀剣屋だけ当時のままなのだから、少し笑えた。
ガラス越しに並ぶ刀を眺め、当時と変わらない疑問が浮かぶ。
どんな層が客なのか、どう採算が取れているのだろうか。
刀剣屋の前を離れようとして気づく。
ガラスに映る、傘を差している自分の姿。
年を取った。
腹が出ている。
髪も白いものが混ざり始めている。
昔の自分が見たら、どう思うだろう。
そんな問いが一瞬だけ浮かび、すぐに消える。
傘を持ち直す。
雨の重さが、少しだけ現実に戻してくる。
歩き出そうとしたとき、ふと気づく。
この商店街に来た理由を、まだはっきりとは思い出していない。
ただ、どこかへ向かっている途中だったはずだった。
******
「ここ、まだ残ってたんだな」
駅に近い、カウンター四席、テーブル席が二つの小さな古い喫茶店。
ドアベルが鳴る。
コーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
テレビもなく、音楽もかすかにしか流れていない。
カウンターの奥に、店主らしき老人が一人いる。
こちらを見て、軽く会釈をする。
それ以上の干渉はない。
昔も、こういう店だった。
必要なものだけがあって、余計なものがない。
店内を見渡す。
客は、奥のテーブル席に女性が一人。
コーヒーのカップに手を添えたまま、窓の外を見ている。
その横顔を見た瞬間、息を飲んだ。
「えっ!?」
声になったというより、漏れた、という方が近い。
頭の中で、記憶が勝手に蘇る。
誰もが就職が決まらなかった冬。
どうにもならない話を、どうにもならないまま続けていた春。
あの頃は、未来がとにかく重かった。
それでも、この街にしがみつき、二十八歳のときに全てを諦め、地元へ帰った。
「……えっ!?」
彼女はゆっくりとこちらを見て、目を見開いた。
そして、表情が変わる。
驚きから、確信へ。
少しだけ遅れて、笑み。
「久しぶり……。」
その声は、昔と同じだった。
いや、少しだけ柔らかくなっていた。
******
「こうも偶然が重なると、奇跡だな」
「ほんとにね」
彼女は小さく笑いながら、カップを指先でなぞる。
俺の地元が新潟なら、彼女の山梨だ。
俺も彼女も千葉に出張で来ていた。
それぞれ、同じ理由で高速を降りた。
予期せぬ事故と、迂回ルートの指示だった。
互いに地元へ帰るときに分かれて以来、二十年間。
連絡なんて一度もとったことがなかったのに、ここで重なった。
「元気だった?」
彼女の声は穏やかで、昔と同じ距離感を保っている。
自然と彼女の左手の薬指を盗み見てしまう。
そこには、何もなかった。
その事実に、少しだけ息が詰まる。
安心なのか、安堵なのか、それとも別の何かなのか、自分でも判別がつかない。
俺の視線に気づいたのか、気づいていないのか。
彼女は表情を変えないままカップを置く。
「してないよ」
先にそう言ったのは、彼女だった。
短く、淡々と。
それなのに、妙に重い。
「……そっか」
正社員なんて、夢物語でしかなかったあの頃。
お互い、両親との顔合わせは済んでいた。
いつか、結婚すると約束は交わしていた。
だけど、昇給は望めず、将来は立てられず、色々と後回しにしている内に、その『いつか』は訪れなかった。
訪れなかったというより、諦めた、という方が近い。
どちらがではない。時間だけがそうさせていた。
三十歳を間近に控え、気づいたときには、もう前提が成立しなくなっていた。
彼女は窓の外を見る。
あの頃の自分たちのように、若いカップルが相合傘で歩いていく。
笑いながら何かを言い合っている。
その姿が、ガラス越しにゆっくりと流れていく。
「……あの頃さ」
彼女がぽつりと言う。
だが、それっきり口ごもった。
言葉になりかけたものが、喉のあたりで止まっているのが分かる。
こちらも何も言わない。
言わないというより、言えない。
あの頃、という言葉は便利だ。
何にでも繋がるのに、何にも届かない。
子どもは、二人。
男の子と女の子が欲しい、と言っていた彼女。
大学の頃は、それとなく。
二十半ばの頃は、はっきりと。
それを口にしなくなったのは、いつ頃からだったろうか。
確かなのは、お互いに行き詰まり、別の道を選び、今がある。
それだけだ。
どちらが正しかったわけでもないし、間違っていたわけでもない。
彼女は小さく息を吐く。
「……銀は、取れた?」
胸が跳ねた。
覚えていたのか、と嬉しくなった。
そして同時に、少しだけ苦くもなる。
銅は切ない。
金は駄目でも、銀を目指そう。
当時、開催していたオリンピックの表彰式をテレビで観ながら。
俺は、そんな言葉を吐いて、別れを切り出した。
あのときの銀が、何を指していたのかは、もうはっきりしない。
安定だったのか、妥協だったのか、それとも現実的な幸福だったのか。
たぶん、その全部だった。
今、その『答え合わせ』の問いだけが、テーブルの上に残る。
カップの中のコーヒーは、もうほとんど冷めていた。
「……どうだろうな」
ようやく、そう答える。
彼女は小さく笑う。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、同じ時代を知っている人間の笑い方だった。
「はい、大盛りナポリタン。お待ちどう」
ふとテーブルに山盛りのオレンジが乗せられた。
「えっ!?」
彼女が注文したのだろうか。
そう思い、視線を向けると、彼女も同じ気持ちだったらしい。
お互いに目を見開いた顔を見合わせた。
「昔、二人でよく食べてただろ?
久々に来た常連へのサービスだよ」
店主は、にこりともせず、そう言うとカウンター奥へ戻った。
その背中を見送ったあと、俺たちはしばらく何も言えなかった。
二十年も前の客を覚えていたのか、という感動があった。
どちらともなく、フォークを手に取る。
「この量……。食べれるかな」
「頑張ろ」
ありふれたナポリタンの味。
だけど、あの頃に戻れた気がした。
今の俺たちには、それ以上はいらなかった。
銀でも金でもない。
オレンジ。
ただの食事。
ただの時間。
それでも、今日ここに来た意味は、たぶんそれだけでよかった。




