第1話 処刑台の悪女
雨の匂い。
まだ一滴も降っていないのに、空気だけが重い。
処刑台の床は冷たく、膝が震える。
私は今日、ここで死ぬ。
「悪女め!」
誰かの声。
それを合図に、広場の罵声が膨れ上がる。
「妹君を殺そうとしたんだろう!」
「婚約者を奪われた腹いせだ!」
「地味な顔をして、恐ろしい女だ!」
言葉が肌に刺さる。
縄で縛られた手首が痛い。
擦れた皮膚は熱いのに、指先だけが凍ったように冷たい。
私は何もしていない。
何度もそう言った。
けれど誰も信じなかった。
父も、使用人たちも。
そして、私の好きだった人も。
「アリシア」
顔を上げると、エドガー様がいた。
金糸の刺繍が入った軍服。
整った顔。
かつて、私に微笑んでくれた人。
私の婚約者だった人。
けれど今、その目にあるのは軽蔑だけ。
「最期に言い残すことはあるか」
最期。
その言葉が、胸の奥に沈む。
喉が乾いて、うまく息が吸えない。
「私は……やっていません」
絞り出した声は、風に消えそうだった。
エドガー様が鼻で笑う。
「まだそんな見苦しい嘘をつくのか。お前のような地味な女が、義妹のリリアに嫉妬していたことなど明らかだ」
嫉妬していなかったと言えば、嘘になる。
でも、奪われても黙っていた。
「姉なのだから」
父にそう言われるたび、私は笑って頷いてきた。
それなのに、私の我慢はすべて意味がなかった。
「身の程を知れ、アリシア」
その隣で、義妹のリリアが震えていた。
白いレースのショール。包帯を巻いた細い腕。
涙に濡れた瞳。
まるで可憐な被害者。
でも私は知っている。
あの傷は、リリアが自分でつけたもの。
甘い薔薇の香水が満ちた部屋。割れた瓶。赤く染まった腕。
そして、彼女の叫び声。
――お姉様に殺される。
あの瞬間から、私は悪女になった。
「お父様……」
父を見る。助けてほしかった。
せめて、一度だけでも信じてほしかった。
けれど父は、私から目を逸らした。
その瞬間、胸の中で、何かが折れた。
もういい。もう、疲れた。
誰にも信じてもらえないなら。
この世界に、私の居場所などない。
誰かの靴音が近づく。
広場の喧騒が遠のき、その音だけが耳に残る。
顔を上げた瞬間、息が止まった。
黒衣の男。
冷たいほど美しい横顔。
王国唯一の死刑執行人。
カイル・ヴァン・レイヴン公爵。
彼は私の前に立ち、静かに剣を抜いた。
怖い。
死ぬ覚悟をしたはずなのに、体は勝手に震える。
嫌だ。
死にたくない。
けれど声は出ない。
最後くらい、堂々として終わりたかった。
公爵が剣を振り上げる。
私は目を閉じた。
けれど、痛みは来なかった。
「……え?」
切れていた。
私の首ではなく、私を縛っていた縄が。
広場が静まり返る。
次の瞬間、ざわめきが爆発した。
「どういうことだ!」
「処刑は!?」
「レイヴン公爵、何をなさる!」
エドガー様が前に出る。
「公爵閣下。その女は罪人です。リリアを殺そうとした悪女で――」
「黙れ」
大声ではない。
それなのに、広場の空気が凍った。
公爵はエドガー様を見もせず、私だけを見ていた。
刃よりも冷たく、夜よりも深い。
まるで、私の心の奥を見透かそうとしているような瞳。
「アリシア・ベルフォード」
「君の刑は、私が預かる」
意味がわからない。
「本日この時刻をもって、君の身柄はレイヴン公爵家の保護下に置く」
公爵は剣を鞘に収めた。
硬い金属音。
それが、私の運命を切り替える音に聞こえた。
「この処刑は中止だ」
息を呑む声。
怒号。
悲鳴。
けれど公爵は揺るがない。
エドガー様の顔が歪む。
「お待ちください! その女は罪人です! 王命に背くおつもりか!」
公爵がようやく彼を見た。
ただ、それだけ。
それだけで、エドガー様の肩が強張った。
「私には、貴族犯罪の再審査権がある」
「しかし……!」
「不服か?」
静かな声。
穏やかで、恐ろしい声。
エドガー様は何も言えなくなった。
リリアが小さく泣く。
「お姉様が怖いです……」
その声は震えていた。
けれど、私を見る瞳の奥だけは、少しも怯えていなかった。
公爵は私に歩み寄り、私の前で膝を折った。
薄汚れた処刑台の上で。
罪人として罵られた私の前に。
「立てるか?」
低く、静かな声だった。
けれど、処刑台で浴びたどんな言葉よりも、私を傷つけなかった。
私は答えようとした。
けれど足に力が入らない。
公爵は何も責めず、私の返事を待っていた。
冷え切った体に、その優しさが染みていく。
公爵の黒い瞳が、ためらうようにわずかに揺れる。
「……少し触れる」
短い言葉。
宣言ではなく、許可を求めているようだった。
私は小さく頷いた。
頷けていたのかも、わからない。
けれど公爵は、それ以上急がなかった。
外套を私の肩へかけ、冷えた体を包む。
それから、そっと私の背と膝裏へ腕を回した。
ふわりと体が浮く。
観衆の声が荒れた。
「罪人を抱いたぞ!」
「あの悪女を!」
けれど、その声は遠い。
公爵の腕は強かった。
でも、乱暴ではなかった。
落ちないように支えるだけの力。
黒衣越しに落ち着いた鼓動が聞こえる。
冷えた頬に彼の外套が触れる。
それだけで震えが少しずつほどけていく。
「私は……罪人です」
震える声で呟く。
公爵の眉が、ほんの少し動いた。
「違う」
たった一言。
でも、その一言で視界が滲む。
誰も言ってくれなかった。
ずっと、聞きたかった一言。
涙が落ちそうで、俯いた。
「よく耐えた」
胸の奥が熱くなり、痛くなる。
「なぜ……助けてくれるのですか」
涙で濡れた声。
公爵は私を抱いたまま、処刑台を降りる。
足取りは迷いなく、けれど私を支える腕だけはひどく慎重だった。
「助けたわけではない」
「まだ、裁けないと思っただけだ」
冷たい言葉。
なのに、不思議と突き放された気はしなかった。
裁けない。
その言葉だけが、胸の奥に残る。
誰もが私を悪女だと決めつけた中で、この人だけは、まだ私を終わらせていない。
馬車が広場の端に停まっていた。
公爵は私を座席に下ろす前に言った。
「座らせる。痛むなら言ってくれ」
私は返事もできなかった。
それでも彼は、私が崩れないよう背を支えながら、静かに座らせた。
まだ生きている。
自分の呼吸だけが、やけに大きい。
「私は……これから、どうなるのでしょう」
問いかけたつもりはなかった。
誰かに答えてもらえるとも、思っていなかった。
けれど、公爵は静かに答えた。
「私の屋敷へ連れて行く」
「君が裁かれるべき人間かどうかを確認する」
信じてもらえたわけではない。
許されたわけでもない。
それでも、私はまだ生きている。
馬車が動き出す。
車輪の音。
遠ざかる処刑台。
終わるはずだった私の人生。
その結末を連れ去ったのは
王国で最も恐れられる死刑執行人だった。
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