三十五、日記で布教するなってば!
両者の大剣が幾度となく激突するたび、火花と衝撃波が大広間の中で絶えず炸裂した。
当初、天地を揺るがしたその剣撃は、まるで戦鼓のように鳴り響き、尽きることのない殺意と威圧をもたらしていた。
しかし、時が経つにつれ、トールの剣筋は少しずつ変わっていく。
もはや狂気じみた猛攻ではない。
それは単純で、真っ直ぐで、まるで初めて女神を信仰した頃の宣教師のようだった。
善意を一撃へと変え、純潔を剣に宿しながら振るっていた。
アレスの剣は次第に重くなっていく。
振るう速度は衰えていない。
それでも、剣を交えるたびに、彼の胸の奥にある戦意は少しずつ削られていった。
それは力が足りないからではない。
トールの剣が、自分が遠い昔に置き去りにしたものを思い出させたからだった。
温もり。
善意。
そして見返りを求めない守護。
アレスの剣撃はなお雷鳴の戦鼓のごとく轟いていた。
だがトールの斬撃は、まるで賛美歌のように響く。
神術の投影の中では、本来なら沸き立つはずだった狂信、復讐、暴力、聖戦の力さえも、この決闘の余波によって少しずつ浄化されていった。
フレイヤの身に宿る領域もまた、混じり合っていた闇の影響が一つずつ消えていく。
彼女は驚きながら気づいた。
その浄化の力は自分から生まれているのではない。
トールの心から伝わってきているのだ。
あの不器用で純粋だった宣教師が、戻ってきたのだと。
アレスは重い一撃を受け止めた瞬間、一瞬だけ、自分がトールになったような感覚を覚えた。
聖典を抱え、人々の中へ飛び込み、ただ光を届けたいと願っていた無鉄砲な若者。
その純潔と善意が、彼の心の最も深い場所を打ち抜いた。
大剣が震える。
目の前のトールを見つめながら、彼は初めて相手を挑戦者や敵ではなく、一枚の鏡として見ていた。
そこに映っていたのは、自分もかつて抱いていた「守りたい」という初心だった。
それは無数の戦争と殺戮の中に埋もれ、自ら「必要な犠牲」と名付けたことで、いつしか忘れてしまったものだった。
「これが……純潔か……」
「これが……守護なのか……」
彼は重い息を吐く。
大剣を掲げながらも、どうしても振り下ろせない。
なぜなら、その一撃一撃が、まるで自分自身への問いかけになっていたからだ。
自らが目を背け続けてきた真実を、突きつけてくる問いに。
アレスの胸は激しく上下する。
血炎の大剣が手の中で微かに震えた。
彼はかつて戦士たちの灯台だった。
無数の人類が生き延びるための支柱だった。
種族を滅ぼさないために、彼は自分の弱さをすべて押し殺し、「戦争」を唯一の答えへと変えてきた。
だが剣を振るうたびに。
血の川が流れるたびに。
彼の心は強くなるどころか、ひび割れを深めていった。
その喪失感を隠すため、彼は自らを燃やした。
痛みを薪に変え。
戦意を炎へ変え。
心を覆い隠してきた。
しかし今。
純粋でありながら揺るがぬ眼差しを向けるトールの前で、彼は初めて隠れる必要がなかった。
初めて出会ったのだ。
自分と対等で。
自分によく似ていて。
それでいて別の道を歩んだ相手に。
「……そうか」
「俺の心は……ずっと前から、こんなにも壊れていたのか」
兜の奥から漏れた声は震えていた。
彼は思い出す。
戦士たちの笑顔を。
戦後の泣き声を。
何度も倒れながら、埋葬されることもなかった死者たちを。
その重責は、彼を押し潰していた。
もしかすると。
自分が守っていたのは人類だけではなかった。
認めたくなかった孤独そのものだったのかもしれない。
長きにわたる戦いは彼を疲弊させていた。
それでも強い責任感が、神としての使命と民を捨てることを許さなかった。
そして後継者は、決して自分より弱くあってはならない。
彼の視線は再びトールへ向けられる。
聖典を振り回し、ただ純粋に布教していた青年。
今ではすべての領域の重みを背負いながら、それでも笑顔を失っていない。
怪物も。
戦火も。
神々の試練でさえも。
きっと彼は真っ直ぐに立ち向かうのだろう。
「……たぶん」
「今がその時なんだろうな」
「お前が背負え……」
「肉体だけじゃない」
「人の心までも」
アレスの心を縛っていた最後の鎖が、静かに砕け散った。
その表情には、どこか解放にも似た安堵が浮かんでいた。
*
フレイヤはアレスの決意を見抜いた。
無数の思考が一瞬で脳裏を駆け巡り、共存へ至るもう一つの道筋を織り上げる。
しかし同時に、トールがすっかり元の大男へ戻っていることも理解していた。
純粋で。
愚直で。
そして、自分の考える共存の道など到底理解できないほど単純な男に。
トールは今まさに大剣を振り上げていた。
最後の一撃。
運命を決する一撃を。
もしその剣が振り下ろされれば、アレスは消滅する。
それは旧神の終焉であるだけではない。
戦争という秩序そのものの崩壊でもあった。
その時フレイヤは気づく。
これまで送り続けてきた神力が、すでにトールの大剣へ深く染み込んでいることに。
あの「聖典から変化した大剣」は、今やトールの武器であると同時に、自分と彼を繋ぐ絆でもあった。
――まだ制御できる。
フレイヤは深く息を吸い込む。
そして両手を強く合わせた。
次の瞬間。
トールの大剣が空中で震え、絶望にも似た低い唸り声を上げた。
刃は輝きを失い、溶けるように垂れ下がる。
そして幾重にも絡み合いながら、重厚な黒鉄の枷へと姿を変えた。
枷はトールの両腕へ落ちる。
ガチャン。
重々しい音が響く。
それは単なる拘束ではない。
フレイヤ自身の信念を押し付けたものだった。
縛ろうとしたのはトールではない。
この「避けられない殺戮」そのものだった。
「トール……!」
フレイヤはほとんど悲鳴のように叫んだ。
懇願。
悲しみ。
そして覚悟。
たとえトールに憎まれても、この一撃だけは止めたかった。
しかし。
トールは枷を見下ろし――
にかっと笑った。
「おおっ!」
「なるほど! 完全に理解した!」
その瞳はどこまでも無邪気だった。
次の瞬間。
枷に縛られた両腕を思い切り前へ押し出す。
枷はもはや拘束ではない。
螺旋のように力を集束させる補助具へと変わっていた。
轟音。
猛牛のような怪力が炸裂する。
トールの一撃が叩き込まれた。
アレスの鎧が。
肉体が。
魂が。
次々と亀裂を走らせる。
亀裂が広がるたびに、無数の古戦場の幻影が浮かび上がった。
荒野に築かれた血と炎の防衛線。
大河のほとりに積み上がる屍の壁。
彼は孤独と喪失を戦意で覆い隠しながら、ただ人類を存続させるために戦い続けていた。
「……これからは」
「お前の時代だ」
兜の奥の声は低く響く。
解放と未練を同時に滲ませながら。
そして次の瞬間。
アレスの身体は無数の光片となって砕け散った。
まるで戦鼓が鳴り終わった後に残る最後の余韻のように。
光は大地へ降り注ぎ、すべての戦士たちの瞳に映る。
最後の巡察であり。
最後の祝福でもあった。
同時に。
長らくフレイヤを蝕んでいた闇の領域――狂信、暴力、復讐――もまた、アレスの崩壊と共に一つずつ剥がれ落ちていった。
純白の光となって消えていく。
フレイヤはその場に膝をつく。
涙が静かに頬を伝った。
これはアレスの死だけではない。
領域そのものの浄化だった。
周囲に歓声はない。
熱狂もない。
あるのは悲しみに満ちた沈黙と。
戦士たちの瞳に浮かぶ無言の涙だけだった。
しかし。
光がまだ消えきらぬうちに。
大広間へ重く激しい足音が響いた。
ガイルだった。
砕け散ったアレスを見つめるその双眼は真っ赤に染まり、胸は獣のように激しく上下している。
「……主神よ……」
「どうして……どうして逝ってしまわれたのですか!」
咆哮。
彼は宙へ弾き飛ばされていた大剣を掴み取る。
まるで意志を受け継ぐかのように。
血炎が再び燃え上がった。
涙と怒りに濡れた顔を照らしながら。
「トール!」
その叫びは空気を引き裂いた。
「そこから――降りろォォォッ!!」
ガイルは暴風のように突撃する。
トールを主神の座から引きずり下ろすために。
トールも迎え撃とうとした。
しかし心はまだアレスの最期に囚われていた。
さらにフレイヤの神力による拘束の影響も残っている。
動きがわずかに遅れる。
その隙を突かれ。
トールは台座から叩き落とされた。
神術の光幕は冷酷だった。
世界中の人々へ最後の光景を映し出す。
そこに立っていたのはガイル。
涙を流し。
咆哮を上げ。
大剣を掲げる戦士。
炎と信仰の光が彼へ集まり――
まるで天命そのものを背負ったかのようだった。
フレイヤは呆然と見つめる。
本来ならトールへ流れ込むはずだった膨大な信仰が、すべてガイルの中へ注がれていく。
「そんな……」
「こんなはずじゃ……」
震える声。
しかし心の奥では別の声が囁いていた。
――もしかすると。
――この結末の方が良かったのかもしれない。
トールは神の座にも。
権威にも。
威厳にも向いていない。
あの大男が本当に似合うのは。
温もりと純潔なのだから。
だから運命は、別の担い手を選んだ。
「戦争によって民を守る!」
「純潔によって心を守る!」
ガイルが叫んだ瞬間。
天地が震えた。
新たな神が誕生したのである。
*
神となった後、ガイルの胸にあった憎しみはすでに消えていた。
人として抱えていた因縁も、すべて手放していた。
その姿は徐々に薄れていき、新たな神としての務めを果たすため去っていく。
トールはゆっくりと立ち上がる。
鎧はボロボロで、枷もすでに消えていた。
彼は空になった玉座を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「ガイルはどこに行ったんだ?」
フレイヤは苦笑する。
信徒も領域も、その大半はガイルと共に去った。
それでも彼女には、まだわずかな神力が残っていた。
目の前にいるのは見慣れた大男。
あの愚直で不器用な猛牛のような男だ。
その姿を見ていると、争いも。
策略も。
勝利さえも。
どうでもよく思えてくる。
フレイヤはトールへ歩み寄った。
今度こそ本物の『純潔』の聖典を創り、二人で布教しようと思ったのだ。
だが。
トールはどこからともなく一冊の日記帳を取り出し、満面の笑みで言った。
「よかったー! 保存用がもう一冊残ってた!」
「じゃあ、この日記で布教しよう!」
フレイヤは顔を真っ赤にして叫んだ。
「だから日記で布教するなってばぁぁぁぁっ!!」




