約束の岸辺:指揮官の最期の通信
その日、関門海峡は「絶望の境界線」となった。
対岸の門司は、もはや知っている街ではない。空を埋め尽くす銀色の巨大構造体は、それ自体が直接攻撃を仕掛けてくることはない。ただ無機質に、黒い雨のように「それ」を地上へ投下し続けている。
落とされているのは、自律型の地上兵器群。
下関側の海岸線に陣を敷く、機動部隊の中隊長――彼は、握りしめた受話器から流れる音に沈黙して耐えていた。
「……標的のセンサー走査が切り替わる瞬間、コンマ二秒の隙ができる。そこなら通常兵器の砲弾も通る。関節の同軸駆動部だ。……書き留めたか? これが、我々が全滅して手に入れた唯一の『答え』だ」
通信の主は、九州側の現場最高指揮官、高橋一等陸佐。
受話器の向こう、高橋一佐の背後では部下の絶叫に近いカウントが響いている。
『敵弾来ます! 着弾まで、三、二、一……!』
凄まじい爆発音が通信を裂く。だが、高橋一佐の声は乱れない。
『橋から四〇〇メートル先、新しいタイプの陸上兵器来ます! 全高六メートル、多脚……っ、速い! 奴ら、橋を渡る気だ!』
高橋一佐は即座に判断を下した。その声に迷いはない。
「……門司側、これより関門橋を爆破する。中隊長、起爆後の破片に備えろ。奴らを一匹も海峡へは通さん」
「高橋一佐、お待ちください! まだ避難民が橋に――!」
「これが最終収容ラインだ。後れを取った者は、我々が責任を持って連れていく。……いいか。燃料切れの軽自動車一台で、民間人が三家族、角を曲がる時間が稼げる。……効率的な戦術だと思わないか?」
高橋一佐が、ふっと皮肉げに言った。
小銃弾など豆鉄砲に等しい敵に対し、彼らは戦車砲や対戦車兵器の最後の一発を「関節の隙間」に叩き込むためだけに、死地に踏みとどまっている。
「……一佐!」
「貴官の任務は救出ではない、下関を死守することだ。……いいか。奴らは空からは撃ってこない。海にも入ってこない。だが、あのアホみたいに巨大なのが俺の真上に来た。……これだけの質量を落とされりゃ、流石の俺も一巻の終わりだ」
モニターの熱源反応が、真っ赤に染まった。
巨大構造体から、新たな「絶望」が高橋一佐の頭上――門司港の岸壁へと切り離される。
「……悪いな。お前たちなら、必ずここを取り返せると信じているよ」
通信機の向こうで、高橋一佐が少しだけ嬉しそうに、誇らしげに笑う気配がした。教え子が自分を超えていく未来を、その目に見たかのように。
直後、轟音が響き渡った。
それは上空からの落着音ではない。門司側の橋脚が、高橋一佐の手によって爆砕された音だ。
美しかった関門橋が、断末魔のような軋みを上げて崩落し、関門海峡へと沈んでいく。
通信断絶。
「最後の通信」が終わり、約束だけが残された。
中隊長は震える手で受話器を置き、真っ赤に燃える海と、断絶された橋の残骸を見つめた。
涙を流す時間は、もう先人が使い切ってくれた。
ハンガーに並ぶのは、自分たちが一から組み上げ、幾度もの徹夜を経て調整を重ねてきた数少ない人型兵器だ。機体にマウントされた試作レールガンと、鈍い光を放つ試作のブレード。本来、これらは技術実証のための「試験機」に過ぎなかった。幾度もの徹夜を経て心血を注いできたこの「試験機」は、もはや性能を測るための器などではなく、国を守るために研ぎ澄まされた冷徹な牙――不落の絶対座標へと、今この瞬間に変貌を遂げたのだ。
燃え盛る対岸、門司の空を一度だけ見つめると、彼は誰よりも真っ直ぐに、敬礼を捧げた。
それを見た部下たちも、吸い込まれるように背筋を伸ばし、一斉に敬礼を捧げる。その傍らでは、九州から命からがら逃げ延びてきた高橋一佐の部下たちが、傷つき、泥にまみれた姿でその光景を呆然と見守っていた。
中隊長はゆっくりと手を下ろすと、向き直り、感情を押し殺した低い声で告げた。
「総員、共有された戦闘データをリンクしろ。橋は落ちたがやつらは来る。」
「了解」
鋼が打たれるような短い唱和が響く。
直後、彼らは一斉に各自の持ち場へと散った。試作機に搭乗する者、点検する者、本部への通信を繋ぐ者、観測機を飛ばして対岸の敵を監視する者、そして長期戦を見据えた野営の準備に取り掛かる者。
自分たちの手で産み出した牙を、師の遺した「答え」で研ぎ澄ます。
感傷に浸る暇もなく、ただ牙を研ぐこと。
それが、この部隊にできる唯一の弔いだった。
後に『境界線のアグレッサー』と呼ばれる部隊が、最初の一歩を刻んだ瞬間だった。




