「聖女の微笑 ― 再会の兆し」
王宮の庭園は、夜の冷たい静寂に沈んでいた。
昼間の喧騒が嘘のように、白い花々が月光を受けて淡く輝き、風の音さえも神への祈りのように穏やかだった。
その中を、リカは一人、ゆっくりと歩いていた。
裾の擦れる音がやけに大きく響く。呼び出された理由はただ一つ――
「聖女殿下が、貴女と直接お話を望まれている」という、あまりにも名誉な言葉。
だが、リカの胸に浮かぶのは喜びではなかった。
リカ(心の声):「――呼ばれた。
あの“光”が、私を見つけた。」
昼間、あの奇跡の儀式で見た“焦げた光”。
それが再び、静かに自分へと伸びてくる気がした。
庭園の中央――
噴水の縁に、白い姿が立っていた。
月を背にしたその影は、神の像のように美しかった。
白銀の髪が風に揺れ、薄布の裾が月光を拾ってきらめく。
だが、その美しさの奥に、確かに“人の温度”がなかった。
聖女ミリア。
この国で最も神聖で、最も遠い存在。
彼女がゆっくりと振り向いた瞬間、
月光がリカの瞳を貫いた。
その視線は優しく、穏やかで――
同時に、氷のように冷たい。
まるで、運命そのものが形をとって現れたかのようだった。
月光の下、二人は向かい合っていた。
風が白い花々を揺らし、花弁が光の粒となって空に舞い上がる。
まるで神が見守る儀式のような静謐――けれどその中心には、確かに人の情が渦巻いていた。
ミリアが一歩、静かに近づく。
その微笑みは完璧な慈愛の形をしているのに、どこか“作られた温もり”があった。
ミリア:「貴女を見ていると、なぜか……心が疼くの。」
その声は穏やかだった。
だが、リカにはその裏にある微かな“ひび割れ”が聞こえた。
言葉の奥で、何かが揺らいでいる。
リカは静かに視線を返す。
彼女の瞳の奥には、迷いも恐れもない。
あるのは、確信だけ――この聖女の中に、自分の知る“罪”が眠っているという。
リカ:「それは、貴女の“罪の記憶”が疼いているから。」
その瞬間。
空気が変わった。
微風が止み、噴水の水面が一瞬、凍ったように静止する。
ミリアの笑みがわずかに硬直した。
“罪”という言葉が、彼女の心の奥に沈む何かを直撃したのだ。
ミリア(心の声):「罪……? 私は、神の代理者。
人の穢れを浄めるために、生まれたはず……。
――なのに、どうして胸が痛む?」
白い衣が微かに揺れ、ミリアは胸元を押さえる。
そこに残る痛みは、祈りでも使命でもない。
かつて“正義”の名で誰かを焼いたとき――博として感じた、あの一瞬の“人間の苦悶”。
彼女は知らない。
だが、その記憶の残響が、今、月光の下で再び脈を打ちはじめていた。
夜の王宮庭園。
風は止み、月光だけが二人を照らしていた。
花々の影が石畳の上に淡く揺れ、遠くの噴水の音さえ、まるで呼吸を合わせるように静まっていく。
ミリアとリカ――二つの魂が向かい合う。
形式上は、聖女とその候補。
だがこの瞬間、彼女たちの対話は、ただの言葉のやりとりではなかった。
魂と魂が、過去の残響を辿りながら触れ合う――危うい共鳴だった。
ミリアの金の瞳が、夜気の中で静かに輝く。
その光はあまりにも美しく、あまりにも冷たい。
ミリア:「貴女の目……何かを見透かしているようで、少し怖いわ。」
リカは目を逸らさない。
心臓が痛む。
ただの緊張ではない。胸の奥で、焼けつくような疼きが広がっていく。
リカ:「私も同じです。貴女の笑顔を見るたび、胸が焼けるように痛い。」
その言葉に、ミリアの瞳がわずかに揺れた。
一瞬――その奥に、“別の何か”が映る。
それは、聖女ミリアではない。
かつて“金沢博”と呼ばれた男の影。
理性と狂気の狭間で、正義を叫びながらすべてを焼いた、その瞳。
ミリアの唇が微かに震える。
何かを思い出しそうで、思い出せない。
けれど確かに、その瞬間、彼女の内に“人間”が戻っていた。
リカ(心の声):「――やっぱり。あの光の奥に、貴方がいる。」
リカの瞳に、淡い涙が宿る。
それは悲しみではなく、確信の証。
過去の炎の中で交わった二つの魂が、今――再び、同じ月光の下で呼び合っていた。
月光が、雲に飲まれて消えた。
庭園を包むのは、白い花々の淡い香りと、息づくような沈黙だけ。
ミリアは立ち尽くしていた。
慈愛をたたえたはずの微笑が、ふと緩む。
その瞳の奥に、説明のつかない“痛み”が滲んでいた。
胸の奥が、焼けるように熱い。
神の声も、使命の響きも、今だけは遠い。
代わりに――どこかで聞いた、悲鳴と崩れ落ちる音が蘇る。
ミリア(心の声):「なぜ……この少女を見ると、胸が痛む?
この記憶……誰のもの……?」
瞼の裏に、断片が閃く。
爆炎。
瓦礫。
崩れ落ちる少女の手――。
その幻が消えぬうちに、リカが静かに口を開いた。
声は震えていない。ただ、長い年月を越えて届く告白のようだった。
リカ:「……覚えていなくてもいい。
でも、私だけは覚えている。――貴女が私の命を奪った夜を。」
ミリアの瞳が、大きく見開かれる。
何かが、心の奥で音を立てて崩れた。
月が雲に隠れ、影が二人を包む。
沈黙の中で、ミリアの唇が微かに動いた。
言葉にならない声。
それは、聖女としての祈りでも、神への赦しでもなかった。
――ただ、ひとりの“人間”としての、痛みの息だった。
夜風が、花々の間を抜けていった。
白い花弁が静かに舞い、二人のあいだの沈黙を包み込む。
ミリアとリカ。
聖女と公爵令嬢。
二つの魂は、ただ真っ直ぐに互いを見つめていた。
声はない。
けれど、その沈黙こそが、最も深い“対話”だった。
空が微かに歪む。
世界の皮膜がめくれ上がり、夜空の奥に“転輪”の幻影が浮かぶ。
淡い光を放ちながら、ゆっくりと、しかし確かに回転を始める。
その中心から、ノイズ混じりの声が響いた。
声:「干渉、再接続――観測、継続中。」
ミリアが瞳を伏せる。
その横顔は、聖女の仮面を脱ぎかけた“人間”のものだった。
リカは拳を強く握りしめ、静かに息を吐く。
リカ(心の声):「神の物語を、私が終わらせる。」
ミリア(心の声):「――この痛みは……赦しではなく、罰。」
月が雲間から顔を出し、再び光が降り注ぐ。
その光の中で、二人の影が交わり、ゆっくりと反転した。
一瞬――どちらが“光”で、どちらが“闇”か、誰にも分からなくなる。
風が止み、夜が深まる。
散りゆく花弁が地に落ちるたび、世界の奥で転輪が音を立てた。
――そして、運命の歯車は再び噛み合い始める。
静かに、確実に。
二つの魂を、避けられぬ結末へと導くために。




