「聖女候補の召喚」
王立教会――聖女選定の間。
純白の壁が静寂を吸い込み、天井から降る光が、まるで世界の呼吸を止めているかのようだった。
音はない。ただ、光だけがすべてを測っている。
白大理石の床には、銀糸で描かれた神聖紋が幾重にも重なり、見る者の心を無理やり「信仰」へと向けさせる。
この部屋そのものが、神の審判の具現だった。
列をなして立つ貴族の娘たちは、皆が同じ姿勢で頭を垂れる。
胸に手を当て、震える声で祈りを捧げていた。
誰もが「神の寵愛を得たい」と願いながら、隣よりも清らかに、隣よりも強く信じていると誇示する。
――それは祈りというより、選ばれるための競技のようだった。
その列の中に、ひときわ静かな少女がいた。
レミリア公爵令嬢リカ、十歳。
淡い金髪に青い瞳。血筋も才覚も申し分ないと評される完璧な子女。
だがその瞳だけは、他の娘たちと決定的に違っていた。
彼女は祈らない。
手を組むこともなく、ただ周囲の動きを静かに見つめていた。
他者の祈りの言葉、震える唇、偽りの涙――すべてを観察するように。
リカ(心の声):「祈りの言葉……形だけ。
本当に神が答えたことなど、一度もない。」
彼女の目には、ここに満ちる“信仰の熱”が、どこか作られたものに見えた。
そして、自分の中にその熱が欠けていることを、誰よりもよく知っていた。
通路の奥で、教会高官たちが小声で囁き合う。
「公爵家の娘――才覚も血筋も申し分ない」
「形式的な候補だ。選定には影響しない」
そう言いながらも、その声の端にはわずかな興奮が混じる。
――彼女がここにいること、それ自体が特別な“兆し”であることを、
誰もが直感的に悟っていた。
儀式は進む。
純白の空間の中で、金の香炉が揺れ、光が細波のように壁を走る。
リカは目を細めた。
胸の奥で、何かが微かにざわめく。
この感覚は初めてではない――
遠い夢の中、焼けた空の下で感じた“熱”に、よく似ていた。
彼女は息を吸い込み、まぶたを閉じる。
神など信じていない。
だが、今この瞬間、確かに何かが動き始めている。
それは運命の歯車の再始動――
神の名を借りた、別の意志の覚醒。
リカの瞳が、ゆっくりと開く。
光が彼女の瞳に宿る。
冷たい理性と、説明できぬ予感が交錯する。
この選定は、ただの儀式ではない。
――運命が、再び動き出す合図なのだ。
上層の回廊――白い柱と金の装飾が連なる静謐な空間。
聖女ミリアはその中心に立ち、王とともに下界の儀式を見下ろしていた。
彼女の横顔には、慈悲と威厳が同居している。
淡い金の瞳は柔らかく輝き、その微笑は民衆の信仰を支える“象徴”そのものだった。
彼女の姿をひと目見るために、人々は国中から集まり、今日もまた「聖女の奇跡」を信じて祈る。
しかし、壇上で神官が一人ずつ候補の名を読み上げていく中――
最後の名が響いた瞬間、ミリアの瞳がわずかに揺れた。
神官:「最後の候補――レミリア公爵家令嬢、リカ・フォン・レミリア。」
その名を耳にした途端、胸の奥で何かが弾ける。
まるで、閉ざされた記憶の扉がひとつだけ開いたかのように。
ミリア(心の声):「……リカ? どこかで……聞いたことがある……」
呼吸が浅くなる。
光に満たされた聖堂が、一瞬だけ薄暗く見えた。
心臓の鼓動が速まる。
“記憶”ではない――それはもっと原始的な、魂の疼き。
そのとき、頭の奥で、あの無機質な声が響いた。
人の言葉ではない。機械が冷たく命令を告げるような音。
声:「干渉、再接続……観測を継続せよ。」
ミリアは思わず眉を寄せた。
この声は“神の啓示”――そう教えられてきた。
だが、その響きの中には確かに、“命令”の冷たさがある。
ミリア(心の声):「私は……神の器。迷いは、罪。」
彼女はそっと目を伏せ、胸の前で手を組む。
震える指を隠すように。
“リカ”という名が、耳の奥で何度も反響していた。
意味も理由もわからない。
ただ、その名が彼女の心の奥に“痛み”を残していく。
――それは、前世の断罪の残響。
だがミリアはまだ、その意味を知らない。
深呼吸を一つ。
再び顔を上げた彼女の微笑は、完璧な聖女のそれに戻っていた。
王が満足げに頷く。
だがその下で、ミリアの金の瞳の奥に、わずかな“揺らぎ”が灯っていた。
それはまだ、誰にも気づかれていない――
神の声さえも、沈黙するほど微細な“違和”だった。
選定の間――
白銀の扉が、静かに開いた。
澄んだ鐘の音が鳴り、光が流れ込む。
その光を受けながら、レミリア公爵家令嬢――リカ・フォン・レミリアが歩み出る。
年齢に似合わぬ静謐な足取り。
白の礼服に銀糸の縫い取り。
その一歩ごとに、周囲の娘たちが息を潜めた。
広間の中央、祭壇。
そこに立つのは――聖女ミリア。
純白のヴェールが肩を覆い、金の光がその背を縁取っている。
人々の祈りがその姿を“神話”のように見せ、空間そのものが彼女の存在を讃えていた。
リカは立ち止まり、静かにその姿を見つめる。
彼女の瞳は、まるで映像を再生するかのように、過去の記録をなぞる。
リカ(心の声):「……この気配。知っている。
でも、どこで……?」
時間が歪む。
音が消え、空気が薄くなる。
――そして、世界が反転した。
リカの瞳の奥に、異界の層が開く。
色彩が抜け落ち、現実の下に隠された“魂の世界”が現れた。
彼女はそれを“見てしまう”。
ミリアの背後――
そこに燃え盛る、黒い炎。
それは神聖さとは正反対の、破壊と焦熱の象徴。
あの夜、街を飲み込んだ青白い爆炎と、まったく同じ“熱”を帯びていた。
リカ(震える声):「……この光……あの爆炎と同じ……」
視界が揺れ、心臓が痛む。
一瞬で記憶の断片が蘇る――
瓦礫、光、そして――あの男の笑顔。
周囲の神官たちは異変に気づかない。
祝福の詠唱が続き、空気は穏やかなままだ。
だが、ミリアだけが、その“視線”に気づいた。
リカの目に宿る熱――それはただの畏敬ではない。
もっと深く、もっと鋭い何か。
ミリアは微かに首を傾げ、慈悲の笑みを浮かべる。
ミリア:「どうしました? 私の顔に、何か?」
その声は柔らかく、けれど音のない刃のように澄んでいた。
リカはわずかに息を呑み、表情を整える。
微笑を浮かべ、礼を取る。
リカ:「……いいえ。ただ――
貴女の“光”が、あまりに眩しくて。」
周囲の神官たちが安堵の息を漏らす。
だがその間にも、ミリアとリカの間には見えない“熱”が流れていた。
ミリアの笑みが、ほんの一瞬だけ凍りつく。
その瞳の奥に映るのは――探るような興味と、名のつかぬ違和。
ミリア:「嬉しいことを言ってくれるのですね。」
優しい声。
だが、その奥には人間らしい温度がない。
それはまるで、完璧に造られた“偶像”の声。
リカ(心の声):「――違う。あれは、光じゃない。
“焼き尽くす炎”だ。」
沈黙の中、二人の瞳が交差する。
その瞬間、聖堂の上空――誰にも見えぬ場所で、転輪が微かに震えた。
運命は、再び回り始めた。
儀式が終わり、
聖堂に満ちていた祈りの声が、静かに余韻を残して消えていく。
祝詞を唱えていた神官たちは退き、信徒たちは神妙に頭を垂れたまま列をなして退出していく。
残されたのは、まだ温もりの残る祭壇と――
互いを見つめ合う、二つの影。
聖女ミリアと、公爵令嬢リカ。
白い光の中、ふたりは形式的な礼を交わした。
しかし、言葉の奥に潜むものは、決して儀礼では終わらなかった。
ミリア:「また、お会いできると嬉しいわ。
貴女の目……とても澄んでいるのね。」
ミリアの声は穏やかだった。
けれど、あまりに完璧すぎる。
まるで“人の温度”を計算して再現しているような、均整の取れた笑み。
リカは目を細め、微かに口角を上げる。
リカ:「ええ。――貴女の目も、何かを“見透かしている”ようです。」
一瞬の沈黙。
空気が張りつめ、聖堂の蝋燭が小さく揺れた。
その炎が二人の間に映り込み、揺らぎながら交錯する。
その刹那――
どこからともなく、微かなノイズが走った。
音ではない。
空間そのものが“軋む”ような感覚。
声(神の声):「……干渉、進行中。因果、再構築を開始――」
リカの心臓がひとつ跳ね、ミリアの瞳がわずかに細まる。
ふたりの間に流れる空気が一瞬だけ歪んだ。
誰も気づかない。
だが確かに、“何か”が接続された。
聖堂の奥――ステンドグラスの光が割れるように揺らめき、
わずかな影が床を走る。
その中で、ふたりの魂は“記憶の残滓”を触れ合うように感じ取っていた。
懐かしさとも、恐怖ともつかぬ感覚。
――知っている。
この痛みも、この光も。
けれど、思い出せない。
ミリアは微笑を崩さぬまま、静かに頭を下げた。
リカもそれに倣う。
光の中、二人の影がわずかに重なり、そして離れた。
その瞬間、運命の再構築が静かに始まっていた。
白の回廊を、ミリアの足音が静かに遠ざかっていった。
衣擦れの音だけが響き、光を反射する純白の床が、彼女の姿を映している。
その背中には一片の揺らぎもなく――まるで“神の彫像”が歩いているかのようだった。
リカはその姿を黙って見送る。
胸の奥で、何かがざらりと音を立てる。
心臓の奥に沈んでいた黒い記憶が、じわりと滲み始めていた。
指先が震える。
やがてそれは、ゆっくりと――確かな意志として、握りしめられる。
リカ(心の声):「神の選定? ……違う。
これは、“再審”だ。」
拳の中で爪が食い込み、血の一滴が白い床に落ちる。
その赤は光に反射し、床の上に映る影と混ざり合う。
ミリアの影とリカの影――
二つの影が、床の光の中で一瞬だけ交わり、そして反転した。
その瞬間、
誰の目にも見えない天上の奥――“転輪”が静かに回転を始める。
それは、運命の歯車か、あるいは神々の観測装置か。
微かにきらめく光が天井を走り、
その残響だけが、聖堂の静寂に溶けていった。
――試練、再開。
そして、幕が落ちる。




