覚醒の裏側 ― ミリアと王の会話
晩餐の間には、音がなかった。
長大な白い卓の両端に、ミリアと王アルトリウスが向かい合って座る。
燭台に灯された炎が、ゆるやかに揺れ、銀の皿に光を返す。
だがそのきらめきは、祝福よりも――冷えた祈りの残滓のようだった。
ミリアの前には、手つかずの葡萄酒が満たされたままの杯。
深い紅が、蝋燭の光を吸い込み、沈黙の中で暗く脈動している。
ふと、その香りが鼻をかすめた瞬間、胸の奥がかすかに痛んだ。
鉄の匂い――血と、火と、焼け落ちる街の幻。
それは記憶のはずなのに、どこにも存在しない過去。
彼女は思わず杯を遠ざける。
卓上の果実が、夜の静けさを際立たせるように鮮やかに映える。
王は何も言わず、ゆっくりとナイフを置いた。
金の刃が光を切り裂く音だけが、部屋を横切る。
ミリアはその音に身をこわばらせ、胸の奥でそっと呟いた。
「祝宴のはずなのに……この部屋の空気は、まるで祈りの後みたいに冷たい。」
燭台の炎がわずかに揺らぎ、天井の影が形を変える。
その揺らぎの中で、彼女の心だけが――静かに凍っていった。
王は、銀のフォークを静かに皿の上へと置いた。
わずかな金属音が、広間の静寂を裂き、重たく沈んでいく。
そして彼は、ゆるやかな笑みを浮かべた。
その笑みは慈愛にも見え、支配にも見えた。
「今日も奇跡は民を救った。
だが、救いとは“継続”してこそ意味を持つ。
――ゆえに、聖女ミリア。君の力を、国の未来のために貸してほしい。」
声は穏やかで、威圧の欠片もない。
まるで父が幼い娘を諭すような、柔らかな響き。
だがその奥底には、冷たい刃のような確信が潜んでいた。
ミリアは姿勢を正し、視線を落とす。
白い指が、膝の上でかすかに震えた。
「……“聖核爆”の件、ですね。」
王の微笑が、ゆるやかに深まる。
その口元から漏れる言葉は、祝福のようでいて――命令だった。
「そう。神の御力を正しく使えば、戦も飢えも終わる。
君の奇跡は、我が国の盾であり、そして矛だ。」
炎が、王の顔を照らし、瞳の奥に金の光を宿す。
その光は“信仰”の輝きではなく、征服者の光だった。
ミリアは静かに目を伏せ、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
ミリアの瞳が、わずかに震えた。
蝋燭の炎が彼女の頬を照らし、その光が水面のように揺らぐ。
まるで、心の奥に眠る何かが呼び覚まされるのを拒んでいるかのように。
そのとき――
耳の奥で、誰かの声が囁いた。
甘く、冷たい。祈りにも似た、機械的な響き。
『進め。再構築を完遂せよ。因果を浄化せよ。』
ミリアは瞬きを繰り返し、こめかみを押さえた。
世界が、わずかに歪む。
音が遠のき、視界の端が白く焼けていく。
――炎。
――崩れる塔。
――焦げ落ちる手。
断片的な映像が、頭蓋の内側を駆け抜けた。
彼女は息を呑み、心臓の鼓動を感じる。
それは“奇跡”の鼓動ではなかった。
もっと、黒く、痛みを伴う――罪の鼓動。
「これは……わたしの“奇跡”?
それとも――罪……?」
唇が、微かに震える。
しかしその吐息を、王は聞かない。
彼はただ穏やかに、杯を掲げた。
金の液体が、炎の光を受けてゆらめく。
「恐れることはない。
神は、選ばれた者にしか“火”を与えないのだから。」
その声には信仰の熱が宿っていた。
だが、ミリアには――それが“狂気”の温度に思えた。
彼女は杯を見つめ、震える手を胸に置く。
その奥で、神の声が再び響く。
『進め――光を放て。すべてを、浄化せよ。』
そして、ミリアの瞳からひとすじの涙がこぼれた。
それは祈りの涙ではなく、ひとりの人間としての痛みだった。
宰相が控えの間から一歩進み出て、胸の前で手を組む。
その声音は礼を保ちながらも、どこか陶酔した響きを帯びていた。
「陛下、民は聖女の奇跡に歓喜しております。
新たな祝祭日を“聖核の日”とする案も出ております。」
王アルトリウスはその言葉に満足げな笑みを浮かべ、
ゆるやかに杯を回した。金の液面が、炎の光を映して揺れる。
「人は奇跡に酔う。
その酔いが続く限り、我が国は永遠だ。」
その声音は、まるで神託を告げる預言者のように静かで――そして恐ろしく確信に満ちていた。
ミリアはその光景を見つめながら、胸の奥に冷たい痛みを感じた。
唇がわずかに震える。
彼女の声は細く、かすかに揺れていた。
「……陛下。救いとは、人を支配することなのでしょうか。」
王は驚いたように眉を上げ、だがすぐに優しげな笑みを取り戻す。
その微笑みは、王というより父のものに似ていた――だが、そこには逃げ場のない圧があった。
「支配ではない。導きだよ。
神の光のもとにすべてを整えること――それが救いだ。」
ミリアはゆっくりと息を吸う。
胸の奥が、ひどく締めつけられる。
王の言葉は正しい。民は救われ、国は栄える。
だが――その“光”の下で、誰かが焼かれる音が聞こえた気がした。
蝋燭の炎が揺れ、ミリアの影が壁に伸びる。
光に包まれているはずのその影は、どこか黒く濃く、呼吸をしているように脈打っていた。
「光が強くなるほど、影は深く沈む。
その夜、王国の宴は続き――ひとりの聖女の心に、初めて“闇”が芽吹いた。」
王アルトリウスはゆるやかに椅子を押し引き、立ち上がった。
蝋燭の光が、その金糸の衣を淡く照らし出す。
背を向けたまま、穏やかな声が静まり返った晩餐室に響いた。
「君がいれば、我が国は救われる。
そして……君自身もまた、救われるのだ。」
その言葉には、慈悲の響きと同じだけの支配の匂いがあった。
王の足音が長い石床を渡り、扉の向こうに消える。
広大な部屋には、ミリアひとり。
食卓の上の皿には、冷えた葡萄酒が残っていた。
蝋燭の炎が揺らめくたび、赤い液面が微かに光を返し――それが血のように見えた。
彼女はその光を見つめながら、指先で杯の縁を撫でる。
小さな息が漏れる。
ミリア(心の声):
「――わたしは、本当に救われたいの……?」
沈黙。
外の空で、遠く雷鳴が鳴る。
窓辺のカーテンがわずかに揺れ、白い花瓶の影が長く伸びる。
その瞬間、蝋燭の火がふっと揺らいだ。
光と影が交錯し、ミリアの頬に一筋の涙が落ちる。
ナイフの金属音が小さく響き、やがて音も消える。
残されたのは――沈黙だけ。
そして次の瞬間、
空を裂くような雷の閃光が、窓の外の王都を白く照らした。
「その夜、聖女はひとり問うた。
救いとは、誰のためにあるのか――神か、人か、自分か。」




