告白 ― 聖女の中の黒炎
リカは机の端を掴んだまま、かすかに震えていた。
蝋燭の青い炎が、彼女の頬に淡い影を落とす。
その光は、まるで涙の粒が溶け出して光に変わっていくかのように、儚く、冷たい。
彼女は唇を噛みしめた。喉の奥で言葉が形を成すまで、いくつもの呼吸が必要だった。
「……儀式のとき、見えたの。ミリア様の身体の中に、“黒い炎”が。」
その声は、囁きというにはあまりに重く、告白というにはあまりに痛切だった。
瞬間――部屋の空気が変わった。
どこからともなく冷気が忍び込み、蝋燭の炎がふっと震えた。
風はない。それでも光が揺れ、壁に映る影が生き物のように這い回る。
セドリックの指が、古書の上でぴたりと止まった。
その顔から血の気が引き、僅かに揺れた瞳がリカを捉える。
「それを……見たというのか……!」
その声には、驚愕だけではなく、恐怖が混じっていた。
まるで、その言葉そのものが“触れてはならない領域”に触れたかのように。
リカはただ黙って彼を見返す。
青い光の中、彼女の瞳だけが、微かに揺れる金の火を映していた。
セドリックは、まるで何かを振り払うように立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、硬い音が静寂に裂ける。
彼の手は震え、書物の表紙を掴んだまま、荒々しくページをめくり始めた。
ぱらり、ぱらりと羊皮紙が擦れる音。
空気の中で、その音だけが現実のもののように響く。
「黒炎……」
彼の声がかすれた。
その指先が、ある一枚のページの上で止まる。
そこには、漆黒の渦のような紋様が描かれていた。
中心から外へ、焦げ跡のように広がる線。
その下には、古代語で刻まれた一節――“神の観測が自己を蝕むとき、黒炎は発生する”。
「黒炎……それは、“神の腐蝕因子”だ。」
セドリックは低く告げる。
その言葉は、まるで自らを罰する祈りのように震えていた。
「神が世界を再構築しようとするたび、その観測網の深部に“歪み”が生まれる。
そしてその歪みが、聖女の魂に――侵食する。」
リカは息を呑んだ。
胸の奥に、冷たい刃がゆっくりと沈んでいくような感覚。
“黒炎”――それは神聖な力などではなかった。
あの夜、ミリアの身体の奥に見た黒い光は、祝福ではなく崩壊の兆候。
リカ(心の声):「……あれは、神の中に生まれた“病”。
ミリア様は……神に喰われていた……。」
蝋燭の炎がふっと揺れ、黒い影がふたりの間を切り裂く。
書物の上の“黒炎の紋様”が、まるで呼吸するように微かに動いた。
セドリックの声は、もはや言葉というより、崩れかけた祈りの残響だった。
彼の指が書物の端を掴み、白くなるほどに力がこもる。
「黒炎が……実際に顕現したのなら……」
彼は唇を噛み、青ざめた顔でリカを見た。
瞳の奥に浮かぶのは、恐怖でも怒りでもなく――“理解してはならないこと”を理解してしまった人間の色。
「神の観測そのものが、壊れかけているということだ。
そんなはずは……ありえない……!」
その声は震え、途切れ、蝋燭の揺らめきに呑まれる。
セドリックの右手が無意識に宙をなぞり、聖印を描く。
だが、その動きは祈りというより、崩れゆく信仰の残骸を掴もうとするようだった。
「――神よ……」
小さな呟きが空気の中に溶けて消える。
その瞬間、青い炎がふっと強く燃え上がった。
リカの頬を照らす光は、どこか冷たく、まるで“真実”そのもののように痛い。
リカは静かにセドリックを見つめた。
その瞳にはもう、恐れも戸惑いもなかった。
代わりに、どこか覚悟めいた静けさが宿っていた。
「……“神が壊れている”のなら――」
彼女はかすかに微笑み、しかしその笑みは涙に濡れていた。
「私たちの信じていた世界も……もう、正しくないのね。」
沈黙。
蝋燭の炎が、再び小さく揺れる。
その一瞬の青白い光の中で、二人の影が重なり、壁に滲んだ。
まるで――崩壊する神の心臓の鼓動に合わせるように。
SFX:低く鈍い共鳴音「ドゥゥン……」
そして、外の風が止まる。
青い炎がひときわ強く明滅し、光の残滓がリカの瞳の奥で金と黒に揺れた。
その光こそ、**“神の壊死”**を映す観測の証だった。
沈黙が落ちた。
まるで、世界そのものが呼吸を止めたかのようだった。
次の瞬間――蝋燭の炎が激しく燃え上がり、金色の火花を散らす。
その光は壁を這い、天井の文様を照らし出した。
まるで“何者か”がこの会話を監視しているように、部屋全体が微かに震える。
セドリックは身を硬くし、その異常な光を睨みつけた。
額に冷たい汗が滲み、声を絞り出す。
「……聞かれています。」
その一言に、空気がさらに重く沈む。
青い炎が音もなく脈動し、リカの影が壁に二重に映る。
「この話を“上”に知られれば――」
彼は一度言葉を切り、唇を噛みしめる。
その表情は恐怖ではなく、覚悟に近かった。
「貴女も、私も……削除される。」
その言葉は“死”よりも冷たかった。
存在そのものが観測から消える――“記録されなかったもの”になるという意味。
リカは静かに目を閉じた。
その顔を照らす青い光が、頬の輪郭を柔らかく浮かび上がらせる。
呼吸は浅く、それでもその胸の内には、確かな熱があった。
(リカ・心の声)
「……でも、もう……知らなかった頃には戻れない。」
彼女はゆっくりと瞼を開ける。
その瞳の奥で、金と黒の光が淡く揺れる――まるで“神の観測”を拒むように。
炎が最後にひときわ強く燃え上がり、ぱち、と小さな音を立てて消えた。
闇の中に、まだ残る余熱のような静寂。
セドリックは深く息を吐き、顔を伏せる。
リカは一歩、前に進む。
――崩れたのは、信仰ではなかった。
神の絶対性という“枠”そのものだった。
そして、その亀裂の中から、新しい意志が生まれようとしていた。
青い炎が、突如として動きを止めた。
まるで時間そのものが止まったかのように、炎は凍りつき、
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
蝋燭の光が揺れない。
風も音も消えた世界の中で――リカだけが、静かに呼吸をしている。
彼女の瞳に、黒い光が走った。
それは“影”ではなく、確かに燃えている――黒炎。
金と黒が混ざり合い、まるで世界の奥底で何かが再起動するように、脈打っていた。
セドリックがその光を見て、息を飲む。
喉が詰まり、声が出ない。
彼の目の前で、リカの瞳が神の“観測網”そのものへと変わっていく。
SFX:低い共鳴音「ヴォォォン……」
空気が震え、壁の文様が淡く光る。
まるでこの密室そのものが、神の装置の一部であるかのように――。
神の声(断片的):「観測中……異常値検出……再構築準備。」
その声は、祈りのようでもあり、機械の報告のようでもあった。
人間の言葉ではない、世界の“裏側”から響く音。
リカの瞳に宿る黒炎が、ゆっくりと消えていく。
その余韻の中で、青い炎が再びわずかに揺れ――光が一閃。
視界が白く焼け、全てが反転する。
そして――闇。
音も光もない“観測の狭間”に、微かな声だけが残る。
神の声(遠く、重なるように):「観測継続――異常因子、隔離。」




