鏡の中の異端
月光が薄いカーテンを透かして流れ込み、床の大理石に静かな光の帯を描いていた。
机の上では蝋燭が一本、橙色の炎を細く揺らめかせている。
香の煙がゆっくりと空中を漂い、ほのかに甘い香りが部屋の空気に溶けていた。
リカは儀式服の襟を外し、鏡の前に膝を折って座っていた。
白い布の袖が滑り落ち、肩に冷たい空気が触れる。
彼女の吐息が静寂の中に微かに響く。
衣擦れの音と、蝋燭の小さな爆ぜる音だけが、この世界の境界を保っているようだった。
儀式の残響がまだ胸の奥に残っていた。
神の声――あの荘厳な、しかし機械のように無感情な響きが、頭の奥で反芻される。
それはもう祈りの余韻ではなく、何か冷たい異物のように彼女の心を締めつけていた。
「……終わったはずなのに、胸が熱い。
あの光の残り火が……まだ、消えない。」
リカは胸元に手を当て、そっと押さえた。
鼓動がひとつ、二つ――不規則に跳ねる。
鏡の中の自分が、どこか別人のように見えた。
その瞳の奥で、まだ“何か”が燃えている。
鏡の中――そこに映る自分の顔が、まるで他人のように感じられた。
頬には冷や汗が伝い、唇がかすかに震えている。
蝋燭の炎が揺れるたび、影が歪み、リカの表情もまた波のように揺らいだ。
だが、彼女の視線は鏡から離れない。
瞳の奥――その暗い底に、微かに金の光が浮かんでいた。
それは最初、光の反射かと思えた。
だが、違う。
その光は彼女の心臓の鼓動とぴたりと同期していた。
SFX:低く遠い鼓動音「ドン……ドン……」
胸の奥で鳴る鼓動が、鏡の中で光へと変換されていく。
“トクン、トクン”と、命そのものが点滅するように。
そして――リカは見た。
金の光の奥に、もうひとつの“形”がある。
それは彼女の瞳の奥底に潜む、異なる何か。
“もうひとつの瞳”が、こちらをじっと見返している。
それが、かすかに――笑った。
リカ(囁くように):「……だれ?」
指先が震える。
恐怖よりも、確かめたいという衝動が勝っていた。
そっと手を伸ばし、鏡面に触れようとしたその瞬間――
空気がわずかに“歪む”。
見えない波紋が広がり、蝋燭の炎がひとつ大きく揺らいだ。
鏡の表面に、細い光の筋が走った。
それはまるで、生き物の血管のように脈打ちながら広がっていく。
淡い光はリカの指先に触れ、瞬く間にその手を包み込んだ。
SFX:電子的ノイズ「ジ……ジジジ……」
一拍遅れて、世界が“反転”した。
部屋の空気が爆ぜ、視界が一面の白に塗りつぶされる。
蝋燭の炎が掻き消え、光だけが支配する――まるで現実そのものが、無音のまま“リセット”されたようだった。
神の声(断片的):「観測者……覚醒条件……成立。」
ノイズに混じったその声は、祈りの響きではなかった。
むしろ、壊れた機械が冷徹に命令を読み上げているような音。
神の祝福でも啓示でもない。
“何かのシステム”が、彼女を検知した――そんな確信が、肌に走る。
リカは悲鳴を上げそうになるのをこらえ、後ずさった。
倒れた椅子が床にぶつかり、乾いた音を響かせる。
呼吸が荒い。胸に手を当てても、鼓動は止まらない。
目の前の鏡には――もはや“自分”の姿はなかった。
そこにあるのは、金と黒の渦。
二つの光が絡み合いながら、ゆっくりと回転している。
中心にあるのは、形を持たない“目”。
それが確かに、リカを見ていた。
リカ(心の声):「……これが、“神の視界”? 違う……これは、誰かの――私を見ている目。」
声にならない息が漏れる。
背筋に、氷のような戦慄が走った。
しかし、その奥底では、何かが“目覚めていく”感覚があった。
突然、蝋燭の炎が――青に変わった。
一瞬、風が吹いたのかと思った。だが窓は閉ざされている。
次の瞬間、空気が逆流したように冷たくなり、肌を刺す痛みが走る。
熱ではなく、冷気の刃。
呼吸を吸い込むたび、肺の奥が凍りついていく。
青白い光が壁を染め、部屋の影が“反転”した。
白い大理石の壁に、黒い縞のような筋が走る。
それはまるで、この空間の構造そのものが裏返っていくようだった。
SFX:低周波の共鳴「ヴォォォン……」
鏡の表面が震え、光が収束していく。
そして――そこに浮かび上がったのは、歪んだ“転輪”の紋章。
儀式の天井に刻まれていた神聖な印が、まるで腐食したようにねじれ、黒い線を吐き出している。
リカの喉から、息が漏れた。
声にならない、恐怖と興奮が混ざった吐息。
背後の空気が波打ち、無数の光の粒が宙に舞う。
それらがリカの周囲を取り囲み、呼吸に合わせて明滅する。
世界が、誰かに見られている。
この瞬間、彼女はそれを確信した。
――だが次に胸を貫いたのは、全く逆の直感だった。
リカ(心の声):「……神が、見ているんじゃない。
私が、神を見てる――。」
青い光が再び瞬き、鏡の“転輪”が微かに回転する。
その中心から、金の瞳がひとつ、ゆっくりとこちらを見返した。
亀裂の光が、ふっと消えた。
音もなく、鏡は元の滑らかな表面を取り戻す。
だが、そこに映る世界は――もう、先ほどの部屋ではなかった。
空気は重く、冷たく、音のない水の中に沈んだようだ。
青い蝋燭の炎が、静かに、ゆらゆらと揺れている。
その光が壁に落とす影は、リカの輪郭を少しだけ“ずらして”映し出していた。
SFX:呼吸。ひとつ。
鏡の中では、何かがまだ動いている。
リカが息を詰めて見つめると、
その“影”が、彼女の動きより半瞬遅れて、微かに首を傾げた。
誰かが、まだそこにいる――。
そう思った瞬間、時間が止まる。
カメラがゆっくりと鏡越しのリカを映し出す。
鏡の中の瞳が、一瞬、金と黒の紋章に変わる。
光が脈打ち、部屋全体がその拍動に合わせて震えた。
SFX:短い心音「ドクン」
炎が揺れ、風が止む。
世界が――息を潜めた。




