上層の観察者 ― ミリアの動揺
上層回廊は、白と金だけで構成された静謐な世界だった。
選定の間を見下ろすその場所は、聖域の中のさらに奥。
“前聖女”だけが立ち入ることを許された、純粋なる観測の座。
足音ひとつ響けば、空気が震えるほどに静まり返っている。
床一面に刻まれた転輪の文様が、淡い金光を脈打たせ、
それがまるで呼吸のように、空間の律動を作り出していた。
ミリアは欄干の前に立ち、白衣の袖を静かに重ね合わせる。
下方――選定の間の中央に集う候補者たちを見下ろすその瞳は、
穏やかに見えて、どこか揺らぎを孕んでいた。
ミリア(心の声):「……また“光”が誰かを選ぶ。
けれど――なぜだろう、この胸のざわめきは。」
光はまだ穏やかだった。
しかし、回廊の天井を伝う反射が次第に強まり、
白い輝きが彼女の頬を撫でるように差し込んでくる。
それは祝福の光のはずなのに、
ミリアにはまるで“審判”の視線のように感じられた。
肌を這う光は温かい。だが、その温もりの裏には冷たい圧力がある。
まるで誰かが彼女自身をも、試し、測り、観察しているかのように――。
ミリアは無意識に胸の前で手を組み、息を吸った。
けれど、肺の奥にまで届いたその空気は、氷のように冷たかった。
ミリア(心の声):「……あの“光”は、何を見ているの?」
儀式の詠唱が下層から響く。
重なり合う声が空間を満たし、回廊全体が微かに震えた。
その震動が、まるで彼女の心臓の鼓動と同期するように。
ミリアは静かに瞼を伏せ――その奥で、
何か“懐かしい痛み”が目を覚まそうとしていた。
「――神は告げられた。“聖女の器”は、レミリア家の令嬢――リカ・レミリア。」
その声が選定の間に響いた瞬間、
上層の空気が、ひときわ強く震えた。
ミリアの肩が、わずかにぴくりと跳ねる。
光に包まれた回廊の空気が凍りついたように止まり、
聖なる静寂が、まるで“呼吸を忘れた”かのように張り詰める。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に映る光景は純白のはずだった。
けれど――胸の奥に走ったのは、得体の知れない熱。
ミリア(心の声):「リカ……? その名を……私は、知っている。」
唇がわずかに震える。
思考よりも先に、記憶の奥がざわめいた。
聞き覚えがある。いや、もっと深い。
魂そのものに刻まれた“既視感”のような痛み。
その瞬間、ミリアの瞳の奥に――
黒い炎の残滓が、ほんの一瞬だけ、揺らめいた。
見開かれた視界の端で、
時間が歪む。
白い回廊が、赤く焦げた瓦礫に変わる。
祈りの声が、悲鳴に。
清らかな鐘の音が、爆炎の轟きに。
――崩れ落ちる都市。
――空を焦がす光。
――伸ばした誰かの手。
「ミリア、逃げて!」
誰かの声が響いた。
けれどその顔は、炎の中に溶けて見えない。
ミリアは息を呑んで、瞬きをする。
視界が元に戻る――回廊は再び白く、静かで、神聖だった。
だが、その胸の内ではなお、焦げるような痛みが残っている。
ミリア(心の声):「……今のは、記憶? それとも……“警告”?」
光はまだ彼女の頬を撫でていた。
だがその温もりは、もはや安らぎではない。
“選ばれた名”と共に、何かが確かに再び動き出していた。
ミリアは無意識のうちに、欄干を握りしめていた。
白い手袋の下で指先の血の気が失せ、冷たい金属の感触が掌に沈み込む。
下方では、選定の間が再び光に包まれている。
リカの立つ位置を中心に、光が渦を巻き――やがて一本の柱となって天井へ突き抜けた。
その輝きは聖なる祝福のようでありながら、どこか“異質”な圧を孕んでいた。
ミリアの呼吸が、かすかに詰まる。
その瞬間――耳の奥で、
人の声ではない“何か”がささやいた。
神の声(電子的・断片的):「干渉、継続……対象A、再接続を確認。」
音ではなかった。
それは、脳の奥に直接響く“信号”だった。
冷たく、機械的で、にもかかわらず――どこか懐かしい。
ミリアの表情が凍りつく。
まるで心臓が一瞬止まったように、全身が硬直する。
ミリア(心の声):「……いまの声、誰……? “干渉”? “再接続”……?」
言葉の意味は理解できない。
けれど、その響きに宿る感触だけは知っていた。
何かが、自分と――“あの少女”を繋ごうとしている。
冷たい痛みが、胸の奥を走る。
それは、記憶の残滓ではなく、
もっと深い場所――“魂の層”からの反応のように思えた。
ミリアはそっと視線を落とす。
下の光の中心で、リカがただ一人、白い輝きに包まれている。
その姿があまりにも脆く、美しく、そして――危うい。
ミリア(心の声):「“再接続”……まるで、私と――」
そこまで思った瞬間、光が爆ぜた。
白い輝きが彼女の頬を照らし、
その一瞬、ミリアの瞳に“黒い炎”が再び揺らいだ。
光の嵐がようやく静まり、
聖域の空間に再び静寂が戻る――はずだった。
だが、ミリアの瞳だけはまだ“黒の揺らめき”を残していた。
光を映すその虹彩の奥で、影が微かに蠢き、燃え残る煤のように滲む。
胸の奥が、脈を打つたびに痛んだ。
息が乱れ、肩がかすかに震える。
白衣の下で、心臓が暴れ出すように鳴っている。
ミリア(心の声):「……胸が、痛い。
この痛み、私は――知っている……。
あの子……リカ。
なぜ、私の中で、その名前が燃えるの……?」
額に汗が滲む。だが、周囲の誰も気づかない。
上層の聖域はあまりにも静かで、彼女の震えさえ飲み込んでしまう。
無意識のうちに、ミリアの視線は下方へ――リカへと吸い寄せられていた。
光がまだ残る祭壇の中央、リカは膝をつき、ぼんやりと天を見上げている。
その顔を見た瞬間、
ミリアの心臓がひときわ強く跳ねた。
SFX:鼓動音(低く、鈍い音)――「ドンッ……」
空気が震えた。
一瞬、周囲の光が歪み、
回廊の空間そのものが波打つように揺らめいた。
リカが顔を上げる。
その瞳――淡い金の虹彩が、正確にミリアの方を見据えた。
二人の視線が交わる。
そこに意図はない。けれど、抗えない“必然”があった。
見た瞬間、ミリアの視界に微かな光の残像が走る。
光ではない――魂の層が擦れ合うような、冷たい閃き。
ミリア(心の声):「……いま、何が――?」
誰にも見えぬまま、
二人の間で“魂視の干渉”が、静かに、確かに発生していた。
祈りの声が、再び静かに選定の間へ満ちていった。
神官たちが頭を垂れ、祝詞を唱える。
荘厳な旋律が空気を満たす中で、ミリアはただ、静かに目を伏せた。
白衣の裾が揺れる。
儀式を見守る者としての威厳――
だが、その頬には、消しきれぬ蒼白が残っていた。
心臓は、まだ微かに痛む。
冷たい指先が、欄干をそっと掴む。
その指の震えだけが、彼女の動揺を物語っていた。
ミリア(心の声):「……この選定。
神は――何を、繋ごうとしているの……?」
回廊の光がゆっくりと薄れていく。
代わりに、見えないはずの“影”が床を這い始めた。
それは煙のように形を変え、転輪の文様を一瞬だけ歪ませる。
聖なる空間に、不吉な脈動が一度だけ走る。
遠くで、鐘の音が鳴り止んだ。
その最後の余韻が、まるで“心拍”のように、静かに消えていく。
ミリアは息を吸い、目を閉じた。
その指先から、かすかな光の粒が零れ落ちる。
淡く揺れながら、粒子は空中で消えていった。
まるで――誰かの記憶の欠片が、形を保てず散っていくように。
静寂。
回廊は、元の完璧な静謐を取り戻す。
けれど、ミリアの胸の奥では、
まだ“何か”がざわめき続けていた。




