純白の選定の間
黎明の光が、王都の高塔を越えて教会の最奥に差し込む。
だがその光は、外界の温もりを欠いた冷たい白――まるで「神に許された光」だけがここを照らしているかのようだった。
王立教会の最深部、“選定の間”。
外のざわめきは完全に遮断され、響くのは遠くで途切れ途切れに聞こえる聖歌の旋律だけ。
空気は静まり返っているのに、何かが確かに「脈打って」いた。
白大理石の床は鏡のように滑らかで、天井から落ちる光柱を映し返している。
壁一面を覆う金の詠唱文字が、ゆっくりと鼓動するように光を放ち、まるでこの空間そのものがひとつの生命体のようだった。
天井に刻まれた巨大な“転輪”の紋章――無数の線が絡み合い、規則正しく回転している。
その中央に、淡い光の核。どこか「目」に似た構造が、時折かすかに瞬いた。
リカは列の中で膝をつき、静かに息を整えようとした。
しかし吸い込む空気が冷たく、肺の奥を刺すように痛い。
まるでこの部屋の空気そのものが“神の目”になって、彼女を監視しているように感じた。
「……息が、苦しい。空気さえ“神の目”みたい。」
彼女の周囲には、数十名の“聖女候補”たちが半円を描いて並んでいる。
全員が同じ純白の儀式衣をまとい、頭を垂れ、震える指で祈りの印を結ぶ。
その中央――白銀の台座の上に置かれた“選定の杯”。
淡く青白い聖水が満たされ、そこから細い光の筋が立ち上がっていた。
光はゆらめきながら天井の転輪へと吸い込まれ、また地上へと流れ戻る。
その往復運動が、この空間の「呼吸」を生んでいる。
ゴォン――。
低く、深い鐘の音が響いた。
まるで巨大な心臓の鼓動のように、一定の間隔で空間全体を震わせる。
光の柱がそのたびにわずかに脈動し、床の上を這う影が細かく揺れた。
候補者たちの間に、緊張と畏怖が混ざった呼吸の音が連なる。
リカは膝に置いた手を握りしめ、指先に力を込めた。
聖なる空間に満ちる“圧”が、まるで自分の存在を押し潰そうとしているようだった。
彼女は目を閉じる。
光の震えがまぶたを透け、心臓の鼓動と鐘の音が重なり合う。
その瞬間、確かに感じた――この部屋は生きている。
そして、誰かが“選ばれる”たびに、何かが“消える”のだと。
神官たちが円の外周に歩み出る。
その動きには一分の乱れもなく、白衣の裾が床の光を切り裂くように揺れた。
彼らが聖典を胸に掲げると、空気の温度がわずかに下がる。
やがて――、低い声が、ひとつ、またひとつ重なった。
詠唱。
その旋律は穏やかであるはずなのに、どこか不気味な震えを含んでいた。
言葉ではなく、音そのものが“祈りの構造”を形づくる。
はじめは単調な単音だったものが、徐々に重なり、揺らぎ、やがて不協和音へと変わる。
天井の“転輪”がそれに呼応するように回転を速めた。
光の中心が膨張し、無数の筋となって分かれ――まるで蛇のように、候補者たち一人ひとりへと伸びていく。
空気が軋み、白い衣の裾が光に揺らされる。
神官長:「選定は神によりて行われる。心せよ、己が魂の純を。」
その声が響いた瞬間、光は動いた。
触れられた者の肌に一瞬、温もりが宿る。
選ばれたと信じて微笑む者もいた。
だが次の瞬間、その光は静かに離れ――何も残さず、ただ空気だけが冷たく沈んだ。
光が去った者たちの肩が、次々に落ちていく。
祈りの声が小さく、震えるように漏れる。
順に光が消え、選定の間には、冷気と緊張の“間”だけが広がっていった。
まるで神が、人の価値をひとつずつ剥ぎ取っていく儀式のようだった。
リカは唇を噛み、うつむいた。
「……私なんて、選ばれるはずがない。」
祈りの姿勢を保ちながらも、心の奥では逃げ場を探していた。
そのとき、
――“ピン”。
耳の奥で何かが弾けるような音がした。
静寂を裂くその残響に、全身が硬直する。
光の一筋が、まっすぐに彼女の胸元を射抜いていた。
白い衣が淡く透け、胸の奥で何かが脈打つ。
光は鼓動に合わせて脈動し、まるで心臓そのものと共鳴しているかのようだった。
他の候補たちの前からは、すべての光が消えていた。
ただひとり、リカのもとだけに残る光。
選定の間は、呼吸を忘れたような静寂に包まれた。
そして次の瞬間――、天井の“転輪”がひときわ強く光を放ち、
その光がまっすぐにリカを包み込んだ。
空気が震え、白の中に黒い影が一瞬、走った。
神官長の唇が、かすかに震えた。
聖杯の中――澄んでいた聖水が、突然、泡立ち始める。
静寂を破るように、**「ボコッ」**という音が立ち、
白い蒸気がふわりと立ち上った。
その泡は次第に光を帯び、まるで液体そのものが燃え上がるように輝く。
光は一気に膨張し、天井まで届く柱となった。
視界が白に染まり、床までもが波紋のようにうねる。
リカの足元から、円形の紋章が浮かび上がった。
それはまるで“転輪”の模様を反転させたような形――
光の環が何重にも重なり、彼女の身体を中心に脈動していた。
神官長:「……神は告げられた。“聖女の器”は――レミリア家の令嬢、リカ・レミリア。」
その宣告が響いた瞬間、場内の空気が一変した。
息をのむ音、抑えきれぬざわめき。
候補者たち――貴族の令嬢たちは互いに顔を見合わせ、
その名を確かめるようにささやき合った。
「リカ・レミリア……?」
「まさか、あの……」
「神が、本当に……?」
ざわめきの向こうで、天井の“転輪”がゆっくりと回転を止めた。
そして、その中央がわずかに――黒く濁る。
一瞬の変化。
誰も気づかない。
ただ、リカだけがその“影”を見た。
モノローグ(リカ):「光の中……何かが、私を見てる。」
胸の奥が冷たい手で掴まれたように強張る。
光の柱が脈を打つたび、鼓動がずれていくような感覚。
世界の音が、少しずつ遠のく。
そして、
――音が、途切れた。
次の瞬間、耳の奥で“ノイズ”が走る。
神殿に似つかわしくない、
金属と電子が擦れるような、無機質な音。
神の声(断片的に):「干渉、再接続――観測を継続せよ。」
声は人間のものではなかった。
祈りとも慈悲とも無縁の、ただ“命令”だけを発する機構の声。
リカの瞳に、光が反射する。
その虹彩の奥で、淡い金光が走り、すぐに消えた。
そして――、すべてが静まった。
光も、音も、ざわめきさえも。
まるで今の出来事が幻であったかのように、
聖杯の光は穏やかに沈み、転輪は再び神々しい輝きを取り戻していた。
神官長(息をつき):「……神の御心のままに。」
だが、リカの中では違っていた。
冷たい光が、まだ胸の奥で脈打っていた。
神官たちの祈りの声が、ゆっくりと重なり合う。
祝福の言葉が幾重にも反響し、選定の間は歓喜の光に包まれた。
聖女の誕生――それは王立教会にとって、千年に一度の神聖な奇跡。
人々の顔が涙で濡れ、神官長は深く頭を垂れる。
だが、その中心に立つリカだけは、
その“光”の中で、ひとり震えていた。
――何かが、違う。
身体を包む温かさの奥に、
焦げた匂いが混じっていた。
微かに鼻をつく、炭のような、甘く苦い匂い。
彼女は視線を落とす。
足元の白大理石には、黒い“影”のような模様が広がっていた。
まるで、誰かがそこに焼きつけられた跡のように。
モノローグ(リカ):「……この光、知ってる。
あの夜、私を焼いた――“断罪の炎”と同じ。」
喉が乾く。
手のひらが汗ばみ、震えが止まらない。
それでも周囲の神官たちは、歓喜に満ちた笑顔で祈り続けていた。
彼らには何も見えていない。
何も、感じていない。
リカはそっと聖杯に目をやった。
その縁には、誰も気づかぬほどの**“黒いひび”**が走っている。
光を受けるたび、それはまるで生きているようにわずかに脈打った。
神官長:「神の祝福に感謝を――!」
再び、鐘の音が響く。
低く、重く、世界の底を震わせるように。
「ゴォン……」
その音が最後の一打を響かせると同時に、
光がゆっくりと広がり、すべてを白に染めていく。
リカはその光の中で、かすかに呟いた。
モノローグ(リカ):「……これは、祝福じゃない。
――罰の始まりだ。」
白光が視界を覆い尽くし、
音も、祈りも、息づかいさえも――完全に消えた。
静寂。
ただ、微かに焦げた匂いだけが残っていた。




