リカの覚醒 ― 異端の眼
白い光の儀式が終わったあと、王都の広場にはゆっくりと静寂が戻りつつあった。
歓声を上げていた民は次第に散り、祈りの言葉も遠くへ薄れていく。
祭壇の周りには、焦げたような黒い点がぽつり、ぽつりと石畳に残っていた。
神官たちは聖典を閉じ、聖職者たちは金の皿や布を手際よく片づけていく。
その所作には、一片の疑いも迷いもなかった。
奇跡は果たされ、神は満たされた――
彼らの目には、そう映っているのだろう。
だが、ただ一人。
リカだけが、その場に取り残されていた。
広場の中心、白い石の輝きが徐々に夕光に溶けていく。
風が吹き抜ける。
焦げた花弁がふわりと舞い、リカの頬をかすめた。
彼女は動かない。
顔を上げ、空を見上げたまま、呼吸を忘れたように立ち尽くしている。
――ゴォォン……。
鐘の音が、遠くの塔から低く響いた。
それは儀式の終わりを告げる音のはずだった。
けれど、リカの耳には、まだ続いて聞こえていた。
終わらない。
いつまでも、頭の奥にこびりついて離れない。
それは神の声にも、警鐘にも思えた。
祈りと断罪の境目で鳴り響く、何かの“報せ”のように。
リカ(心の声):「……終わってない。何も。」
風が止む。
焦げた香の匂いが、まだ消えずに漂っていた。
白い広場の上で、彼女の影だけが長く伸び、震えていた。
リカは震える手を口元に当て、必死に呼吸を整えようとした。
だが喉が詰まり、空気が入らない。
胸の奥で、何かが押し潰されるように軋む。
息ができない。
視界が揺れる。
気づけば、両手で顔を覆っていた。
手のひらの内側が熱い。
涙が止まらない。
頬を伝い落ちた滴が、白い石畳を打つ。
そのたびに、足元の焦げた花弁が黒く滲み、静かに広がっていく。
まるで涙そのものが、何かを焼いているかのようだった。
リカ(心の声):「神の光に焼かれて……また、誰かが死ぬ。
あの人は――救いじゃない。あれは、“裁き”だ。」
唇が震え、声にならない嗚咽が喉の奥でこぼれる。
背後では、人々の声がまだ響いていた。
奇跡の余韻を語る者たち。
「癒された」「救われた」「聖女様に感謝を」と。
笑い声、祈り、安堵。
それらはどれも、優しい音のはずだった。
けれど、リカの耳には――狂気の旋律にしか聞こえなかった。
彼女は顔を上げられない。
その場に立ち尽くし、ただ震える。
人々の信仰が歓喜に変わるたび、彼女の中で何かが崩れていく。
“救い”という言葉が、もう痛みにしか感じられなかった。
リカは、濡れた頬を手の甲で拭い、ゆっくりと顔を上げた。
涙の膜越しに、朝の光が滲んで見える。
広場の向こう。
まだ人々が群がる祭壇の前に――ミリアがいた。
白銀の衣をまとい、神官たちに囲まれながらも、その中心で静かに立つ。
祈りの残光がまだ彼女の周囲に漂い、髪に光の粒が揺れていた。
まるで、神そのものが地上に降り立ったかのような光景。
だが、その光の向こう――
ミリアの視線が、確かにリカを捉えた。
ほんの一瞬。
けれど、あまりにも明確に。
空気が震えた。
風が止み、群衆のざわめきさえ遠のく。
ミリアの瞳は穏やかに微笑んでいるようで、底が見えなかった。
その奥にあるものを、リカだけが――見てしまった。
リカの胸が脈打つ。
熱と寒気が同時に駆け抜ける。
視界の中心で、ミリアの姿が淡い光に包まれ、世界がゆらりと反転する。
その瞬間、リカの瞳の奥で“何か”が開いた。
虹彩が淡く輝き、中心に黒い紋が浮かび上がる。
螺旋を描くように、光と闇が瞳の奥で渦を巻く。
リカは息を呑み、震える唇で囁いた。
「……私だけが……この“神の嘘”を見ている。」
その言葉は風にも届かず、ただ空気の中に溶けて消えた。
けれど――確かに、運命の歯車はその瞬間、音を立てて回り始めた。
広場は、もう人の気配を失っていた。
歓声と祈りの熱が去ったあとに残るのは、静けさと、焦げた匂いだけ。
白い石畳の上に、花弁の残骸が散らばっている。
それらはどれも黒ずみ、触れれば崩れてしまうほど脆い。
まるで“祝福”の余韻そのものが、焼け落ちて灰になったかのようだった。
祭壇の上では、儀式に使われた銀皿がひび割れていた。
中の聖水はすでに蒸発し、そこから立ち上る白い蒸気が、陽光を浴びて金色に輝く。
だがそれは美しくも、不気味だった――祝福の残光ではなく、焼却の名残。
リカは、ただその光景を見つめていた。
誰もいない広場の中央で、息を潜めるように立ち尽くしている。
静寂の中、風が吹き抜け、黒い灰が空へ舞い上がる。
それらはゆっくりと、まるで祈りの煙のように消えていった。
ふと――空の彼方に“何か”が揺らめく。
金色の光が形を取り、円環を描き、ゆっくりと回転を始める。
それは“転輪”。
神の意志を象徴する、空の歯車。
ほんの一瞬の幻影だった。
けれど、その輝きがリカの瞳に映り込み、瞳孔の中で静かに回り続ける。
声(神のような囁き):「観測、安定。対象、接続済。」
リカの肩が震える。
その声は、風でも、幻でもない――確かに、どこかで“誰か”が彼女を見ている。
最後の鐘の音が、低く空に響いた。
一打、二打、そして三打。
その余韻が消えるころ、光はゆっくりと色を失い、世界が暗転していく。
リカ(心の声):
「この瞬間、私は知った。
――この世界の“光”は、誰かの魂を焼くことで輝いている。」
蒸気が消え、焦げた匂いだけが残る。
その静寂の中で、運命の歯車が、確かに回り始めていた。




