魂視の発動 ― “黒い炎”
空気が、突然、重たくなった。
歓声が遠のく。まるで分厚い水の膜の向こうに閉じ込められたように、音が鈍く、遠くでくぐもって響く。
リカは思わず息を呑んだ。
目の前の光景が、揺らいでいる。
輪郭が溶け、色が反転し、世界そのものが“裏返る”ような感覚。
石畳の白が墨のように滲み、空の金色が深い群青へと変わっていく。
光は粒子となり、空間を漂っていた。
人々の祈りの声が波紋のように広がり、視界の奥で崩れて消えていく。
リカの瞳が、淡く輝いた。
瞳孔の奥に、螺旋を描く紋が浮かび上がる――まるで、目の奥にもう一つの“目”が開いたようだった。
リカ(心の声):「……何、これ……世界が……割れてる?」
世界の“表面”が、ゆっくりと剥がれていく。
まるで薄い膜が裂けるように、もう一つの層が現れる。
その層の中で、人々の身体が淡い光や影の輪郭を纏っていた。
光の形は不規則で、呼吸と共に脈動している――まるで魂そのものが露わになったかのように。
けれど、ひとりだけ、異質な輝きを放つ者がいた。
聖女ミリア。
彼女の輪郭は、他の誰よりも強く、眩しく、そして――不安定だった。
白光の中に、かすかな“影”が混じっている。
それは、リカの目にしか見えない、もうひとつの真実だった。
ミリアの姿が、光の帳の向こうで静かに揺れていた。
その祈りの姿の奥――リカの“新しい視界”が捉えたのは、人ではなく、魂の形だった。
それは透明な輝きではなかった。
青白い光の中に、黒い炎が螺旋を描くように絡みついている。
まるで冷たい光と灼熱の影が、互いを喰らいながらひとつに溶けていく。
ミリアの胸の奥――そこに“黒の核”があった。
小さな焔が呼吸のたびに膨らみ、静かに、しかし確かに燃えている。
その火は、外へと漏れ出し、彼女の輪郭を焼きながら形を保っていた。
燃やし、再生し、また燃やす。――永遠の清めの循環。
リカ(呟き):「……光じゃない。燃えてる……。」
声に出した瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
視界の中で、ミリアの光がさらに強くなり、群衆の祈る姿が“影絵”のように沈み込んでいく。
歓声も、鐘の音も、すべてが遠のく。
ただ、あの光だけが――世界の中心のように揺らめいていた。
ミリアの周囲に広がる炎は、祝福の輝きに見えながらも、確かに何かを焼いていた。
空気が震え、リカの頬を撫でる熱が痛みに変わる。
その痛みの中で、彼女は確信する。
リカ(心の声):「それは救いの光じゃない。
――燃やして、消して、清める炎。」
その瞬間、ミリアの祈る唇が微かに動いた。
誰にも聞こえぬほど小さな声で、彼女は言った。
ミリア(囁き):「……神よ、穢れを、焼き給え。」
そして、黒い炎が――微笑みの奥で、確かに瞬いた。
群衆がひざまずく音が、大地の鼓動のように響いた。
広場の空気は熱を帯び、光の粒が雪のように舞い落ちる。
誰もが祈り、涙し、神を讃える声が重なっていく。
群衆:「聖女様……どうか、この地を照らし続けてください!」
誰一人、焦げた匂いに気づく者はいなかった。
祭壇の端で花弁が黒く縮れ、煙を立てても――
それは人々の目には“神の香煙”にしか見えない。
彼らの瞳に映るのは、ただ神聖な光。
熱狂と信仰の境界が、溶けて消えていく。
だが、ただ一人。
リカだけが、違う世界を見ていた。
足元に散った花弁が灰へと崩れ、風に乗って舞い上がる。
その一枚一枚が、光と影の狭間で淡く揺れて消えていく。
彼女の瞳の中で、金の紋様が脈動し、視界の層が反転した。
現実がひとつ、音を立てて剥がれ落ちる。
――“魂視”が、完全に覚醒した瞬間だった。
リカの目に映る世界は二重構造を成していた。
人々は同じ場所にいながら、異なる次元の存在のように見える。
祈る群衆は“白い影”となり、
その中心で、ミリアの魂だけが黒炎を纏って輝いていた。
リカ(心の声):「この国は……焼かれているのに、誰も気づかない……。」
胸の奥で何かが軋む。
恐怖と、そして確信。
それは“真実”を見てしまった者の痛み。
次の瞬間――ミリアの中の“黒い炎”が、わずかに揺らめいた。
まるで意思を持つかのように、リカの視線に応える。
リカ(震える息で):「見てる……? ――まさか、私を……?」
その瞬間、二人の視線が“層”を越えて交わった。
時間が止まり、空気が凍りつく。
世界の構造そのものが、わずかに軋んで音を立てた。
音が――消えた。
歓声も、祈りの声も、風のざわめきさえも。
まるで世界そのものが、息を止めたかのように静まり返る。
その静寂の中心で、リカだけが立ち尽くしていた。
胸の奥で鼓動がひとつ、硬く鳴る。
次の瞬間――低く、鈍い鐘の音が空を震わせた。
ゴォォォン……。
その音は祝福ではなかった。
まるで何かが終わりを告げるような、重く冷たい響き。
空を見上げたリカの瞳に、“それ”が映る。
雲の裂け目の奥――
ゆっくりと回転する巨大な転輪の幻影が、空に浮かんでいた。
光と影の輪が幾重にも重なり、軋むように回転している。
その回転が、リカの瞳の中で反射し、螺旋の紋と重なった。
リカ(心の声):「この瞬間、私は“真実”を知った。」
声にならぬ声が、胸の奥で形を取る。
リカ(心の声):「――この世界の光は、誰かの魂を焼くことで輝いている。」
風が再び動き出す。
祈りの声が戻り、群衆の歓声が波のように押し寄せる。
だがリカの世界だけは、もう“元には戻らなかった”。
その目に映る光は、祝福ではない。
――燃え続ける罪と犠牲の炎だった。




