崩壊 ― 現代日本・東京
「街の喧騒と孤独」
冬の夜の東京、新宿駅前。
ネオンが空を切り裂くように瞬き、街は年末の喧噪に溢れていた。巨大なビジョンでは「未来を変えよう」と、希望めいた言葉が繰り返されている。
恋人たちは互いの肩を寄せ、買い物袋を抱えた人々が笑い、路上のミュージシャンがかすれた声で恋の歌を奏でていた。
――その中に、一人だけ“動かない男”がいた。
金沢博。
年齢三十五。無精髭に覆われた頬は痩せ、長時間の無睡眠を物語っている。
厚手のコートのポケットに手を突っ込み、視線はまっすぐ前を見据えていた。彼の眼差しだけが、周囲の色を拒むように澄んでいる。
手にした鞄の中には、黒い金属片が複雑に組み合わされた装置。
軽く指先で触れると、小さなクリック音が返った。
博はその感触に、静かに息を吐く。
人波の中を、光と音が通り抜けていく。
笑い声、電子音、クリスマスの残り香。
それらが遠ざかるたびに、彼の世界は静寂を増していった。
――人間は、愚かだ。
博の胸中に、冷たい言葉が浮かぶ。
彼の脳裏に、かつての職場、崩れた夢、腐った組織の記憶が一瞬よぎる。
誰もが口では「平和」を語りながら、裏では他人を踏みつけて笑っていた。
そんな社会を、彼は何年も見続けてきた。
「笑っている……誰も彼も、自分が滅びることを知らないで……」
心の奥で、呟きが波紋のように広がる。
「人間は救われたがっているくせに、何も変わろうとしない。
ならば、俺が“始まり”を作るしかない。」
唇が微かに動く。
笑いではない、祈りのような表情。
それは狂気と紙一重の、静かな決意だった。
風が吹く。街路樹のイルミネーションが揺れ、白い息が夜に滲む。
博の指先がコートのポケットの中で、そっとスイッチを撫でた。
彼の目には、もはや恐れも躊躇もない。
その瞳は、まるでこの世界のすべてを見透かす“神”のように澄みきっていた。
「少女の日常」
カフェの窓越しに、無数のイルミネーションが反射していた。
湯気を立てるマグカップの向こう、ガラスの外には、行き交う人々の流れ――。
その群れの中に、一人、奇妙なほど“静止して見える”背中があった。
彼が誰なのかを、赤沢里香は知らない。
ただ、その背中に視線を止めた瞬間、心の奥に、薄い氷のようなざわめきが走った。
――なぜ、あの人の姿だけ、音がしないんだろう。
友人の声が、その思考を遮る。
「ねぇ、ニュース見た? また爆破予告出てたって」
里香はカップを傾け、笑みを浮かべた。
カフェの柔らかな照明が、彼女の黒髪を淡く照らす。
「ああいうの、どうせ悪戯でしょ。
本当にそんなことする人、いるわけないよ。」
軽く言いながらも、指先が無意識にマフラーの端をつまむ。
その仕草に、小さな不安が滲んでいた。
彼女は、少し皮肉屋で、けれど正義感が強い少女だった。
将来は教師になりたい――それが、彼女の夢。
「誰かを救いたい」などと、口に出すのは照れくさい。
けれど心のどこかで、そう願っていた。
窓の外では、さっきの男がゆっくりと歩き出す。
人波に溶け込みながらも、なぜか彼だけは異質だった。
まるで、別の世界の人間がこの街に紛れ込んでいるかのように。
里香(心の声):
「……今の人、どこか……寂しい目をしてた。」
友人がスマホを見せながら笑う。
「もうすぐ年越しだし! 来年はさ、受験頑張ろうね!」
「うん。……絶対、合格して、みんなで笑おう。」
笑い声が混じる。
温かなカフェの空気の中、外の冬風がガラスを叩いた。
それはほんの一瞬、光の届かない冷気が入り込んだようだった。
彼女はその違和感を言葉にできず、ただ、手の中のカップを握りしめた。
――気づかぬうちに、運命の糸はもう、絡まり始めていた。
「緊張の静寂」
駅前広場には、冬の夜気が満ちていた。
カウントダウンイベントの準備が進み、舞台ではリハーサルの音楽が流れている。
巨大なスクリーンには、笑顔のタレントが「もうすぐ新しい年!」と叫び、観客が拍手を返す。
子供が風船を抱えてはしゃぎ、露店のポップコーンの香りが風に乗る。
光と音と笑い――街は幸福の幻で満たされていた。
その中心に、ひとりの男が立っていた。
金沢博。
噴水広場の中央、イルミネーションの円環の中。
彼は静かに手袋を外し、冷たい空気に指先をさらす。
――雪が舞っていた。
一片の白が、夜の闇に溶けるように手のひらへと落ちる。
博はそれを見つめ、薄く笑った。
「……白い。
これが、最後の雪か。」
その声は、誰にも届かない。
周囲の喧噪が、次第に遠ざかっていく。
音楽も歓声も、世界から切り取られたように薄れていく。
代わりに聞こえるのは、自分の呼吸の音。
胸の奥で響く、一定の鼓動。
――ドクン。
――ドクン。
彼は目を閉じる。
あらゆるものが静止した。
ただ心臓だけが、まだ“生きている”と訴えている。
ポケットの中。
冷たい金属のスイッチが、わずかに指先に触れる。
人差し指が震える。
その震えは、恐れではなく――解放の予感。
博はゆっくりと目を開けた。
視線の先。
雑踏の中に、ふと見覚えのない少女の横顔があった。
カフェの前を通りかかったばかりの高校生。
赤沢里香。
彼女の笑顔が、ネオンの光に照らされていた。
一瞬、胸の奥が微かに痛んだ。
博(心の声):
「この世界の……汚れた子供たちにも、光を。」
そう呟いたとき、雪がもう一片、彼の肩に落ちた。
街の明かりが滲む。
時間が、ひときわ長く伸びる。
博の指が、スイッチの上に置かれる。
呼吸を止めたその瞬間――世界は息を潜めた。
「爆発 ― 世界の終焉」
親指が、わずかに沈んだ。
――カチリ。
一瞬、世界が静止した。
風も、音も、呼吸も、止まった。
ただ、雪だけが落ちていた。
その白は、夜の闇をゆっくりと包み込み、
まるで時そのものが息を潜めたようだった。
そして次の瞬間――
光。
轟音が生まれるより早く、白がすべてを飲み込んだ。
街が溶ける。
人々の影が伸び、そして消えた。
ガラスが砕け、破片が光の粒となって宙に舞う。
看板が崩れ、鉄骨が歪み、火の粉が雪のように降り注いだ。
その中で、世界はまだ“音”を知らなかった。
爆発の衝撃が、あまりにも速すぎた。
音が追いつく前に、すべてが光の中に溶けていた。
――カフェの中。
里香は友人の笑い声に顔を向けようとして、ふと窓の外を見た。
そこに、ひときわ眩い閃光があった。
まるで太陽が夜に落ちてきたように。
「え……?」
その言葉が空気に溶けきる前に、光が彼女を包んだ。
熱も痛みもない。
ただ、意識が白に呑まれていく。
時間が伸び、世界が反転する。
音のない衝撃。
すべてが無へと還る。
破壊ではなく――終わりの祈り。
そして、静寂。
白い光はやがて闇に溶け、
新宿という名の街が、ひとつの息を引き取った。
「余韻 ― 二人の最期」
炎が、街を呑み込んでいた。
赤い光が夜空を焦がし、倒れたビルの影が揺れる。
人々の叫び、遠くで響く警報。
それでも――金沢博は静かに立っていた。
コートの裾が焼け、肌が焦げる。
痛みはもう、感覚として存在しない。
彼はただ、空を見上げて微笑んだ。
「これで、世界は……救われる。」
唇の端に、安堵のような笑みが浮かぶ。
その瞳には、燃え盛る炎ではなく、白い雪が映っていた。
舞い降りる雪が、焼けた地面に触れ、音もなく溶けていく。
――そのすぐ近く。
瓦礫の下、倒れた少女がいた。
赤沢里香。
制服の袖が裂け、頬に血が滲む。
動かない身体で、彼女はただ、空を見上げていた。
視界の端で、雪が落ちる。
煙の向こうに、見知らぬ男の背中が見えた気がした。
それが誰なのか、もう確かめる力もない。
「どうして……私が……」
震える唇から、かすれた声が漏れた。
世界が遠のく。
意識が薄れ、光が滲む。
彼女の「なぜ」と、彼の「救い」が、
同じ空に溶けていく。
――正義と罪。
――赦しと理不尽。
二つの言葉が重なり、やがてひとつの無音に変わった。
瓦礫と炎の街を離れ、灰色の煙の向こう、静かな空へ。
雪が降り続ける。
まるで、世界の終わりを弔う祈りのように。
人々の悲鳴が、遠ざかる。
音のない空の中、白い光が再び満ちていく。
そして――すべてが、静寂に還った。




