月2
夜の空気が肌に寒い。
けれども、那月はなかなかその場を離れる気になれなかった。
彼らが月と呼んだものは、見慣れた月と大分違っている。
冷たい白銀色をした表面には、クレーターが見える。
表面の凹凸がはっきり見えるほど、その月は大きかった。
まるで遠く離れたところにあった月が、隕石の様にこちらにむかって落ちてくるみたいだ。
その錯覚のせいか、緊張で手足は冷たく力が入ってしまい、息も心なしか苦しい。
それでも目が離せない。
涙が頬を伝う。
慣れない恐怖で後ずさりたい意思が働いているのに、磁石のように惹きつけられる。
(なんてきれいなんだろう)
焦燥感に、那月は足をかかえて自分を地面に押しつけた。
空を見上げて動こうとしない那月に困惑しながらも、皆テントの中なり火の周りなりに移動してしまった。
アルなどは体が冷えるから、と一緒に連れて行こうとしてくれたが、尋常でない様子に諦めたようだった。
どれだけ時間が経った頃か、クンクン、と犬が鼻を鳴らす声が聞こえた。
割と近い場所からするその鳴き声は、誰かを探しているのか、迷子の子犬の様に不安げで微かだ。
夢から覚めたように突然視界が開けて、周りの音が耳に入ってくる。
(誰か犬を連れている人がいたかな)
周囲に人はいないから、誰もこの鳴き声に気付いた様子はない。
「しょうがない、私が連れ戻してやるか」
あわよくば、ふかふかした毛並みを撫でられるかもしれない。
訳の分からない連中に囲まれて、彼らの思惑に振り回されて緊張しっぱなしだった。
警戒する必要のない無垢な動物に無性に触れたかった。
ジーンズに付いた砂を払って、注意深く声の聞こえる方へ近づいてみる。
テントの間を縫って暗い森の迫るところまで行くと鳴き声が大きくなった。
「どこにいるの?こっちへおいで」
響かないように、小さな声で優しく呼び掛けると、キュンキュンと返事が返ってくる。
「ちょっと待っててね、すぐ行くよ」
相手を怖がらせないように姿勢を低くしてゆっくりと森の闇に近づくと大きな黒い塊が木の陰にたたずんでいる。
その大きさに、ぎくりと足がとまる。
(大きい・・・これは犬?野性の動物かもしれない、暗くて見えない)
刺激しない様にゆっくりと足を後ろにずらそうとしたら、突然動物が地面にぼすっと伏せて尻尾を大きく振りだした。
那月の怯えを察して、襲う気がないと意思表示したように見える、知性を感じる動きだ。
「油断させて襲う気じゃないでしょうね、あたしはおいしくないよ」
きゅーんと鼻をならす。
「わかった、いきなり立ち上がるんじゃないよ、ちょっと近づくだけだからね」
牽制しつつも、ちょっとずつ黒い動物に向かって近づく。
辛抱強く那月を待つのが分かって、あと一歩のところまで近づくと、木の合間から射した月光が目の前の動物を照らし出した。
光にあたって艶やかな銀色をした毛並みとぴんとした三角の耳、黒曜石の眼。
「あーっ、あんたはあの時の!」
やっと分かったか、とでも言うように得意げに尻尾を振りべろりと那月の手を分厚い舌で舐めた相手は、
ここで目覚めた時に隣で寝そべっていた巨大な犬だった。
「ばか!ばか!あんたのせいで!大変な目にあったんだからね!」
安心したのか腹立たしいのか、涙目になりながら那月はがつっと犬の胴体にタックルをかました。
犬はその勢いのままごろーんと仰向けになり腹をみせて嬉しそうにしている。
「おばか!遊んでるんじゃない、私は怒ってるんだよ!」
ばしっと叩こうとすると、じゃれるようにその手に纏わりつかれる。
もうどうしようもなく無邪気に遊んでいるようにしか見えない。
「懐くな!元の場所に戻してよ!」
温かい舌がべろべろっと那月の涙を舐める。
「あんたがここに連れてきたんでしょ、何とかしてよ・・・」
こんな動物に訴えてもしょうがないと分かっているけれど、小さく呟いた。
本当は、こいつが連れてきたのかどうかも分からない。
今では、分かっている。
一匹の獣が獲物を引きずってくる様な、そんな簡単は場所ではないだろうということは。
「どこなの、ここは」
じっと下から那月を見つめていた犬は、突然すくっと立ち上がり袖を咥えて軽く引っ張った。
「なによ、また変なとこに連れてこうっての」
きゅーんと耳横に倒して訴えるてくる。
「そんなしょんぼりして見せたって駄目だよ」
二人(一人と一匹?)の間で無言の攻防が行われた後、那月はしぶしぶ大きな犬についていくこととなった。
「毛皮はずるい。反則」
左手でそのふかふかした毛皮を撫でながら、導かれるままについていく。
それにしても、大きい犬だ。
那月の腰の当たりまである。
(そういえば、あの人たちは狼っていってたっけ)
毛並みが美しい銀色だということと、犬よりもかなり大きいことを覗けばそんなに大きな違いはないような気がする。
振り返ると、木々の間から明りの灯った空き地が見える。
「後で絶対にここに戻してよ、約束だからね」
相手が頷いたようだったので、ひとまず心配は少し減った。
夜明けまでに戻れば、置いていかれることはないだろう。
闇しか見えない森の中を、那月は傍らの温もりだけを支えにして歩きだした。
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