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第3話 旅立ち


 教会の鐘が鳴っている。

 

 単に正午を告げるものであり、いつもと音が変わるわけでもない。

 が、その音色はニアナの、あるいは彼女を見守る全員の心に染み込んで、目の淵に温かいものを滲ませることとなった。


「……ありがとう」


 馬車の横に立ち、ずっと俯いていたニアナは、ようやくそれだけを口にした。

 その声に、堪えていた皆が口を押さえ、顔を覆った。


 ナビリア子爵家からの使いは数日後に再び現れ、ニアナに公爵家への嫁入りの承諾を迫った。さすがに腕をとって強引に連れてゆくわけにもゆかず、一応の熟考の時間を置いたという体だが、さりとて拒否は許さないという声音と表情であった。

 

 が、強く迫られる前に、ニアナが先に頷いた。

 拍子抜けをした使者が、いいのか、と間の抜けたことを問うと、ニアナは俯いて、ひとつだけお願いがあります、と言った。

 支度金は、わたしが出発した後、このお店の女主人(おかみ)に届けてください。皆に配るように、と言葉を添えて。

 なにか言おうとした使者に、ニアナは強い目を向けて、お願いします、と重ねた。使者は言葉を飲んで、頷いた。金が届けられない心配をしないのか、と聞こうとしたのだが、さすがに憚られた。


 三日後に改めて迎えに来ると言い残し、使者は去った。

 応接室から戻ったニアナは再び女たちに囲まれ、穏やかな表情で、申し入れを受け入れることに決めたと告げた。

 その場で泣き出す女も、怒り出す女もいた。

 が、やがて全員が代わるがわるに、ニアナを抱きしめた。

 娘とも、妹とも思うニアナの決心を、皆が受け入れた。


 そうして今日が、旅立ちの日。


 小さな馬車の横に立つニアナは、黄灰色の長衣に、白い薄手の外衣。荷物といえば抱えられる程度の革鞄がひとつだけだ。小旅行でもしようというような体裁であり、とてもこれから婚家に向かう花嫁とは思われなかった。

 女たちはドレスを贈ると言ったが、ニアナは首を振ったのだ。そんな布地と余裕があるなら皆さんの新しいのを作って、お客さん、喜ばせてあげてください、と、軽口で答えた。


「……ほんとに、行っちまうのかい」


 一人が声を絞り出す。

 ニアナが頷くと、皆がわらわらと走り寄ってきた。


「ニアナあ」

「ここにいればいいじゃないかよ、寂しいよ」

「ばか、引き留めてどうすんだい、笑顔で送り出してやりなよ」

「何言ってんだ、あんたが一番泣いてんじゃん」


 いつものように好き勝手に言い合う皆の声を、ニアナは胸に刻みつけた。

 全員を抱きしめて、頬に口付けし、ニアナはひとりひとりの顔を見渡して、ゆっくりと頭を下げる。


「……行ってきます」

「身体に気をつけてね」

「お許しが出たら、たまには戻っておいで」


 戻ることは、おそらく叶わない。

 ニアナも、皆も、そう確信している。

 

 冷血公爵、ウィリオン・ローディルダムのもとでどんな過酷な生活が待っているのか。無事で、日々を送ることができるのか。そんなことすら、少しも見通しが立たなかった。

 祝福の言葉がひとつも聞かれない、奇妙な門出の情景だった。


 馬車に乗り込み、ニアナは窓から顔を出した。

 皆の顔が見えなくなるまで手を振り続けた。

 御者は遠慮もなく乱暴に馬を歩かせたから、彼女はあちこちに身体をぶつけることとなった。それでも慣れ親しんだ風景が途切れるまで、彼女は去ってきた方角をずっと見つめ続けた。


 そう時間はかからず、子爵邸に到着した。

 ここでいったん支度を整え、公爵家からの迎えの馬車に乗り換えることとなっているのだ。

 馬車を降り、あたりを見回す。

 ニアナにはこの邸で暮らした記憶は薄かったが、それでも母屋や庭のあちこちに微かな懐かしさを感じた。ただ、建物も庭も、ほとんど手入れがされていない。荒れ放題だ。まだ人が住んでいるように思えず、首を傾げた。

 

 と、邸の扉が軋んだ音を立てて開けられ、中から初老の男が姿を見せた。

 不健康そうに浮腫んだ顔を目にした瞬間、ニアナは胃の中から酸いものが上がってくるのを感じた。

 顔は覚えていない。が、心の底に焼きついた暗い影が、彼女の胃の腑をつかんだのだ。


「ニアナか」


 酒で焼けたような掠れ声。にちゃりと口角を持ち上げたその男、ナビリア子爵に、それでもニアナは短い裾で、できる限り優雅なカーテシーを作ってみせた。そういう仕草を自分ができることにも、またそれをこの男の前で披露できることにも、驚いた。


「久しいな。いくつになった」

「……はたち、で、ございます」

「ふむ。妙齢だな。母親に似て肉付きも悪くない」


 顎を撫でながら下卑た声を出すその男の好色そうな視線は、十数年ぶりに再会した娘に向けるべきものではなかった。

 ニアナは顔をあげずにいる。

 表情を歪めているのを見て取られたくなかったためだ。


「……恐れ入ります」

「聞けば娼館で暮らしていたとか。勝手に家を出ていってそんな商売に身を染めるとは、お前の母もなかなか肝が据わっておるよ。ふふ、お前もさぞかし、たくさんの客を悦ばせてきたのだろうな、その身体で」


 ニアナの瞳に炎が宿った。くっと顔を上げる。

 子爵の濁った目が正面から見返してきた。



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