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第29話 やっと会えたね


 炎が広がってゆく。


 いまや娼館が並ぶ街区を越え、隣接する建物をも飲み込んでいる。折からの風に煽られた火の粉が離れた場所にも舞い降り、被害を拡大する。

 ついに娼館街の近くにあった教会にも延焼した。尖塔から黒煙が昇る。


 銀の魔女亭の女たちは、そのほとんどが石畳に座り込んだまま動けずにいたが、ニアナが励まし背を叩いたことで瞳に色を取り戻しはじめていた。

 身体が動く若手に声をかけ、近隣でやけどを負って倒れている負傷者を運び始める。ひとりが共用井戸に張り付き、水を汲み上げ続ける。数人がそれを運ぶ。煙の来ない場所まで移動させた怪我人の服を脱がせ、あるいは状態のひどい者には服の上から水をかける。


 ニアナは、だが、数拍にいちどは銀の魔女亭を振り仰いだ。アムゼンが出てこないのだ。彼が救いに向かった女主人おかみも。


 ちらと見たところでは、正面の左、厨房の横手のあたりから濡れた服を被って入っていったように思えた。が、いま、そのあたりはすでに構造材が焼け落ちて人が通れる状態ではなくなっている。

 お願い。お願い、どうか、どうか、どうか。


 「ねえ、ニアナ、ゼンさん……」


 近くで怪我人の面倒を見ていた女も気が付いていたらしい。顔を煤だらけにして、いまにも泣き出しそうな顔をニアナに向けている。


 「……大丈夫。きっと」

 「だって、だって、崩れちまってるじゃないか、入り口……」


 ニアナは微笑を返そうとしたが、できなかった。口を引き結んで俯く。

 と。


 「ニアナ!」


 遠くから声がかかった。振り返る。

 銀の魔女亭は街路の隅にあり、三方に路地を持つ。その側面の路地の奥、先ほどアムゼンが火に飛び込んだ先のあたりで、女が二人、手を振っていた。


 「ゼンさんが……!」


 言葉が終わるのも待たずにニアナは地面を蹴っている。胸が痛む。鼓動が大きすぎる。全身の脈がうるさいほどに響く。

 建物の向こうに廻る。裏にも向かいの建物にも火が回っている。が、かろうじて熱の来ない空間も残っており、そこにアムゼンが寝かされていた。


 「アムゼンさん!」


 本名を叫び、駆け寄る。女たちも呼び名など気にしていない。ニアナに手を振って呼んだ女がしゃくりあげながら声を出す。


 「誰かいないかなって裏に廻ったら、戸口がさ、ばんってなってさ、ゼンさん、女主人おかみに濡れた服をかけて抱えるみたいに、転げ出て来てさ……」


 見れば少し離れたところで女主人が座り込んでいる。身を起こして差し出された水を口にしている。火傷も、熱を吸ったということもなさそうだった。

 が、アムゼンは酷かった。髪も衣服も焦げている。おそらく女主人を庇って火の薄いところを抜けてきたのだろう。息はあるようだが、目を瞑っている。

 ニアナは後から追いついた女から水の入った桶を受け取り、服の上からかけた。そうしているうちに、うう、と声を漏らし、アムゼンは薄く目を開けたのだ。


 「……アム……ゼン、さん!」

 「……ニアナ様」


 場にそぐわぬ、のんびりとした声。目だけで回りを見回し、女たちの姿を確認し、目元を緩めて微笑む。


 「……やあ、お嬢さんがた。皆さん、ご無事ですか。お怪我などなさっていませんか。皆さんの美しい顔に傷でもつこうものなら、わたしは生きてはゆかれませんからね……はは」

 「もう、ばか、ゼンさん!」

 「心配させないでよお!」

 「お、おか、女主人を、助けてくれて、ありがとう、ありがとう……!」


 泣きながらすがる女たち。取りつかれ、いたたと顔を歪める。

 助けを呼んでくる、と女の一人が走り去った。角を曲がる。

 が、女はすぐに後ずさって戻ってきた。怯えた表情を浮かべている。

 向けているのは、二人組の男だった。


 「よお。さっきこの辺りで、ニアナ、って呼ぶ声、聴こえたんだがよ」


 舌を巻き込むような奇妙な喋り方で身体を揺らしながら近づいてくる大柄な男。もう一人、頬に刺青を入れた小柄な男は懐に手を入れる。何かを引き出した。それはニアナには短刀の柄に見えた。


 「いるんだろ、ニアナって女。ほれ、誰だ。言えよ」

 「やっぱり旦那の言うことには間違いがねえな。いくらなんでも火をつけて廻ったって見つかりゃしねえと思ってたが、ちゃあんとあぶり出されてきやがった」

 「ああ、さすがだぜ。そして俺たちはついてる……ほらよ、早く名乗れ」


 女たちが後ずさる。アムゼンと女主人を囲むように立ち、それでもなす術もない。ニアナの方を見ようとした女もいたが、顔を振り向ける前に気づき、止めた。

 ニアナも男たちを見つめたまま動けない。考えている。ひとりならなんとでもした。が、いま怪我人もいる。全員を逃がすことはできない。体格の良い男二人を正面から相手にすることも難しい。

 ニアナはそう判断し、覚悟を決めた。

 名乗ろうとして息を吸い込んだ、その時。


 「……イアラ? ああ、そうだよ、あたしがそのイアラだよ」


 年長の女が前に出た。イアラなどという名ではない。ニアナは目を見開きそちらを見る。と、他の女もすうと息を吸い込んだ。同じように前に出る。


 「ピアナだろ? そりゃあたしの昔の源氏名だ。なんだい、こんなときにお誘いかい。取り込んでんだ、またにしてくんな」

 「そんな名前の女はここにはいないよ。あ、隣の店のニーアならさっき、あっちで見かけたかな」

 「フィアラだっけ? うちの子だけど、なんか用かい。いまここにいないから、ちょっと探してきてやろうか」


 女たちが次々とニアナの前に出る。背中しか見えない。が、聴こえている。

 隙を見て、逃げな。あとはあたしたちがなんとかしてやるから。


 「……あんだあ?」

 「おい、名前、ニアナでいいんだよな。探してる女」

 「あ、ああ。旦那はたしか、そう言ってたぜ」

 「書きつけてねえのかよ」

 「俺は字が書けねえ。てめえだってしてねえじゃねえか」


 男たちは顔を見合わせて困惑している。しばらくなにやら相談していたが、彼らの知性は長時間の会話に耐えるようにはできていない。やがて苛立ちはじめ、大柄の方が、ち、と舌打ちをした。


 「めんどくせえ。全員、連れてこうぜ。人違いなら始末しちまえばいいんだ」

 「ああ、そうだな。そのほうが早い」


 こちらに向かって振り返り、踏み出す。女たちが一歩さがる。ニアナは息を吸い込み、彼女らと入れ違うように前に出ようとする。その裾をそっと摘み、女たちが止めようとする。


 その時、男たちの上に影が降りた。

 跳躍したアムゼンは大柄の男の背に廻り、首を固めた。捻り、引き倒す。同時に右にいた小柄な男の腹に足刀を叩きこむ。吹き飛ばされ、転がる男。


 「走れ!」


 アムゼンは胸を押えながら背を丸めて立った。顔を歪め、汗を流している。炎の熱によるものではない。ごぼり、と血を口元から零す。火災の中、落下した建材を背で受けたから、何本かの骨が折れていたのだ。


 「ゼンさん……!」


 女たちが叫ぶ。アムゼンは目元で笑ったように見えた。が、その表情もすぐに消える。起き上がった男が足をかけて彼を転ばせたのだ。仰向けになった彼の腹を、小柄な男がつま先で蹴り上げた。


 「ぐ……がっ」

 「おい、じじい。てめえ何もんだ。ニアナってのを知ってんのか」

 「……」

 「言いたくなきゃ、いいけどよ。じゃあな」


 大柄な男が脚を上げ、アムゼンの顔面を踏みつぶそうとする。本気であることは誰の目にも見て取れた。アムゼンは瞬時、ニアナの方に目を向ける。

 旦那様を、よろしくお願いします。

 あなたなら大丈夫。


 「ニアナ・ローディルダム!」


 絶叫に近い声が響いた。男たちが動きを止める。顔を振り向ける。

 業火を背負いながら、熱を帯びた風に髪を煽られながら、ニアナは両足を踏み張っていた。男たちをまっすぐに見据えている。


 「ローディルダム公爵ウィリオンの妻、ナビリア子爵の娘、娼館育ちのニアナ! 用があるのはわたしでしょう! その人たちに手を出すな!」

 「……おめえ、か」

 「は、なんだよ、どっかの身分のある女じゃねえかって言われてたけどよ、公爵さんの嫁御だったのかよ……娼館で暮らしてんのか、こいつぁおもしれえ」


 男たちはゆっくりとニアナに近づく。舌なめずりをするような表情。ニアナは、それでももう退かない。顔を上げ、背を反らして立っている。

 アムゼンが荒い呼吸のなか、なにかを口にしたように、小さく首を振っているように見えた。今度はニアナが目で返す。

 ごめんなさい。ウィリオンに、謝っておいて。


 男がニアナの肩を乱暴に掴む。抱きかかえようとし、身を捩って逃れた彼女に腹を立てたのだろう、打ち据えようと手を上げた。

 が、その身体はどうという音を立てて横倒しに倒れた。目を剥き、動かない。

 その背には炎に煌めく短刀が突き立っていた。


 「……駄目じゃないか。手を出していい、なんて言ってないよ。怪我でもしたらどうするの」


 脚を引きずるような歩き方。

 十人ばかりのごろつきたちを引き連れながら、濃紫の頭巾を目深に被った男がゆっくりとニアナに近寄ってきた。

 隣で相棒を斃されて尻もちをついている小柄な男の横顔を蹴り飛ばす。


 「怖かったかい。ごめんね、見つけるのが遅くなって……やっと会えたね」


 男が手を伸ばすと同時に、ニアナは横合いから口元を覆われた。つんとする匂い。もがき、口を引き結んだが、吸ってしまった。途端にがくりと膝が折れる。崩れるように倒れる。


 ウィリオン……。


 胸に浮いた言葉を口にする前に、ニアナの意識は薄闇の中に溶けていった。


 

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