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第19話 胸の中の火花


 立ち上がり、窓際まで歩いて行って空を見る。

 月はほとんど中天に届いている。

 静かな夜だ。


 ローディルダム公爵家はちょっとした高台に位置しているから、その二階からは領内の街並みがよく見えた。深夜ではあるが、いまだ灯が点っている窓も少なくない。月の明るい夜で、星々は隠れていたから、そうした灯が地上に落ちた星にも思えた。

 ニアナは自分が雲の上に、星々と同じ目線に立っているように感じている。目の前の情景がぼんやりと物思いをする彼女にそう思わせたのもあるし、先ほどからふわふわと落ち着かない足元の感覚に基づいたということでもある。


 王宮から戻って自室に入り、侍女たちに世話を焼かれているうちに、ズーシアス侯爵に対峙したことで震え続けていた身体の芯もようやく落ち着いた。茶を飲み、長椅子でぼんやりと昨日から今日にかけてのことを思い返し、冷や汗をかいたり体温を上げ下げしていると、そのうち彼女の覚悟も固まった。

 やっちゃったものは仕方ない。なるようになれだ。


 そしてそうなると、思い出されるのがローディルダム公ウィリオン、彼女の夫が馬車で呟いた言葉だ。


 待っていてくれ。

 月が高くなったころにゆく。


 先ほどからずっとその言葉を反芻している。何度も、何度も。

 むろん、とうに気持ちは定まっている。昨夜もやはり緊張はしたし、そのために悲劇的な大失敗を繰り広げはしたが、といって本当に拒絶をするようなつもりもない。当然だ。ニアナは縁談に応じたのである。妻として、この家に入ったのである。なすべきことはわきまえている。


 が、彼女の心のかたちが、昨夜までと大きく違うのだ。

 親殺しの冷血公爵、気味の悪い変人。どんな酷い仕打ちをされるか、いくど打擲されるかわからない。生きて部屋を出ることすらできないかもしれない。彼女はそういう男に対峙するつもりで邸にやってきたのであり、当主の部屋に入ったのである。

 彼女の妻としての覚悟は、自らを矢じりとして鉄の怪物の心臓を貫くという覚悟と同質なのだった。


 だが、いま、冷血公爵はウィリオンという人間の形をとった。

 真っ黒に塗りつぶされていた怪物の姿は、ニアナと一緒に笑い、一緒に失敗をし、その言葉に苛立ちを見せ、そして、彼女を侮蔑から守ろうとするひとりの男の姿に変貌した。

 彼が王の前で足を踏み出したとき、ニアナのなかでなにかがぱちんと音を立てた。身体が動いた。ウィリオンの横を通るときに微かに手を触れ合い、そのとき、音の正体が自分のなかの火花であることを知った。

 その火花がまだ、消えていない。


 王室で婚儀の言上をすることで二人は正式の夫婦となったという。

 昨日までは、いや、今朝までは、あなたたちは夫婦であると誰かにいわれたなら、ああそうですか、と納得してみせることができた。書類に記名をし、あるいは婚姻の裁可が下りれば、夫婦となると理解できた。夫婦とは、夫と妻という役割の分担だとなんの衒いもなく答えることができた。

 が、いまは違う。


 怖くなったのだ。

 なにかが心の中に入ってくる。心の色に、心の温度に、触れようとする。

 変えられてしまう。変わってしまう。自分が。

 もう、逃げることができない。


 ニアナは娼館で育った。

 娼館は、恋で埋め尽くされている。少なくとも女たちはそう振舞っていた。夜ごとの恋、いっときの恋。男たちもそれを求め、互いにそれで良しとした。ニアナが見て育ち、聴いて育ったのはそういう概念であり、学んだのはいかに上手にそのことを飲み込んでいくかという処方なのである。


 いま、その処方が通用しない。

 おかしくなってしまったのだとニアナは感じている。

 たくさんのことが昨日から続いたから、普段の自分ではないのだと思っている。

 生きることが下手になってしまっているのだと考えている。


 陽が落ちて夕食の時刻となった頃、侍女たちが迎えに来たが、当主ウィリオンはあいにく所用で外に出た、今夜はひとりで食事となる、と、侍女は嬉しそうに告げた。ニアナが喜ぶと期待したためで、実際に彼女はほっとするような表情を見せた。

 どんな顔で向き合っていいかわからない。少し、時間を置きたかったのである。

 が、侍女は別の意味の安堵と捉えたようで、今夜は気兼ねなくどんどん召し上がってください、と鼻息を荒くした。


 夕食が済んで自室に戻ると、また沐浴に案内され、夜の身支度をさせられた。そういう日課になっているらしい。

 それも済んで、後は夜を迎えるだけとなり、彼女はそれからずっと、長椅子と窓の間を往復し続けているのである。


 「……帰ってきてる、の、かなあ」


 夜の街に目を落としながら小さく呟く。

 最後に着替えを手伝った侍女に尋ねたが、まだお戻りでない、とのことだった。もう夜も半分を過ぎてしまう。約束はふいになったのだろうか。それとも明け方まで待った方がよいのだろうか。

 眠くはなかったが、こんな風に檻の中の動物のようにうろうろしているとおかしくなってしまいそうだ、と彼女は嘆息した。


 「やっぱり、寝よう。うん。来たらわかるよね。扉、叩かれるだろうし」


 そう決めて、窓際にあった燭台の火を吹き消した。窓と反対側の壁に据えられたベッドに移動し、肩掛けを外して、持ち上げた掛け布にもぞもぞと潜りこむ。

 枕に頭を乗せ、乳白色の天井を見上げて、再びふうと嘆息した。誰に言うともなく、おやすみなさい、と呟く。ころりと横向きになり、目線が窓を向く。


 ニアナは声を出さずに絶叫した。


 窓の外に影があった。

 影は、人間の形をしていた。男だろう。こちらをじっと見ている。

 手をあげるような動作をして、むむ、と、なにか聞き取れない音を出した。

 

 ニアナはベッドの表面を蹴った。だん、と背後の壁に背をつける。掛け布をつかみ、身体の前で丸めて抱きしめる。防御壁の形成である。

 思考など働いていない。いないが、脳裏には昼間に見たズーシアス侯爵の歪んだ笑み、そして後から部屋に入ってきた不気味な若い男のじっとりした視線が浮かんでいる。拐われる、と考えた。

 扉はベッドと窓と、どちらからも等距離である。走れば辿り着けるが、相手も同じだろう。ニアナは、決断した。丸めた掛け布のなかでゆっくり姿勢を変える。少しずつ、膝立ちになる。襲われれば壁を蹴って飛び、相手の鼻に頭突きを見舞う。呼吸を整え、その機会を待った。


 影は窓枠に手をかけ、ゆっくりと室内に這入ってきた。迷わずまっすぐ、ニアナのほうに近寄ってくる。

 息を止める。数を数える。飛び出すまでの間を計っている。

 相手がベッドの脇に立ち、手を伸ばした。

 いまだ!


 飛び出したニアナを、だが相手は受け止めた。がっしりと捕まえ、抱きしめる。ニアナはそんな時でも声を出さない。出せば相手を刺激することになると、花街の夜で学んでいたのだ。

 相手の手が見えた。自分の肩を掴んでいる。顔を振り向け、がり、と噛んだ。


 「痛ってえ!」


 くぐもった声。怯んだ隙にニアナは身体を捻って男の横に降り立ち、膝を相手の腹にめりこませた。ぐふ、と息を漏らす相手。が、その拍子に転倒してしまう。

 尻餅をつき、相手を見上げながら、暗闇でニアナは祈った。この世に残す家族、娼館のみなの顔を思い浮かべた。捕らえられたなら、尊厳を汚されることがあるなら、舌を噛もう。そう決めたのだ。


 と、相手が手を伸ばしてきた。掴みはしない。ふいと横を向くと、その手はがりがりと自分の首の後ろあたりを掻いたようだった。

 そして、降ってきた声。


 「そんなに怒ること、ねえじゃねえか。ちょっと遅れたくれえでよ。悪かったって……ああ、痛え。また手の傷、増えちまった」


 間近で聞くその声は、布越しに苦笑いをしているようだった。

 声の主、真っ黒な装束で全身を覆い、同じく黒の頭巾と口当てで顔を覆っているウィリオンは、ぐいとその口当てに指をかけて下ろしながら、ふはあと息を吐いて、人懐こい笑顔を作ってみせた。


 「待たせちまったな。じゃあ、行こうか」



 

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