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第17話 ニアナの矜持


 ウィリオンが踏み出した。

 拳を握り、腕を引いている。


 彼が次にとるであろう行動はその場の誰でも理解できた。それはいま、彼の正面で歪んだ笑みを浮かべるズーシアス侯セドナも同様である。

 殴ってみろ。王の御前で。

 蔑むように細められた目がそう語っている。


 ウィリオンの視野には何も映っていない。王も王子も、セドナ侯爵の姿すらも掻き消えている。ただ、ただ、無数の火花が目の前を真っ白に埋めている。思考が働かない。己に課した規律、冷血の誓いが機能しない。

 やめろ。止まれ。手を出すな。出せばすべてが終わる。

 踏み出す足を止めようとする理性の声を、ウィリオンが知らない自身の声が上書きするのだ。彼の心が理解できない怒りをもって、塗りこめるのだ。


 潰す。


 隣に立つ女、一夜をあんなに笑って過ごした女。逃げれば良いものを、帰れば良いものを、あなたの地獄を教えろと言い切った女。

 怯え、土下座し、泣いて怒って、自分を投げ飛ばして。

 燭台の小さな灯火が照らした横顔、飲めない酒を飲んで、わけもわからない歌を揺れながら歌って、目を合わせて、笑って、笑って。

 

 潰す。

 ニアナに汚い意思を向けたやつは、潰す。

 俺が、この手で。


 もう一歩踏み出すと消えていた情景が戻った。

 侯爵の脂ぎった顔面は、あと二歩ほど踏み出して右手を振り上げ、振り下ろすことにより捉えることができる距離だった。

 ウィリオンは躊躇いなくそれを実施しようとした。


 その、とき。


 「ああら、よくご存じでいらっしゃいますわね」


 ウィリオンの前にぐっと踏み出た背中がある。

 淡く輝く真珠色のドレス、ゆるく波打った栗色の肩下までの髪。


 ニアナはそのとき、ほんのわずかにウィリオンに触れたのだ。

 彼の横を通るとき、右の手のひらを彼の左の手の甲に当て、指先でさらりとなぞり、それがすっと離れるときに彼の胸にはニアナの言葉が落ちた。

 待っていて。ね。大丈夫。


 ニアナは胸を張り、小さく踊るような足取りでセドナ侯爵の前に進み出る。かつん、と足を打ちそろえ、大仰な仕草でカーテシーをつくった。


 「ナビリア子爵令嬢、ニアナと申します。ふふ、わたくしのこと、ご存じでいらっしゃいましたの? お店でお会いしたこと、あったかしら」

 「……店?」


 セドナ侯爵は片眉を持ち上げ、鼻白んだように返した。ニアナは目を弓型にして、やや下を見るような視線を相手に向け、それから花が咲いたような大きな笑顔を浮かべて、あはあっ、と、艶のある息を吐いてみせた。


 「ええ、お店。あら、てっきりご存じなのかと。わたくし、事情がございましてね。北の花街の娼館で暮らしておりましたのよ。だからもしかしたら、お目にかかったこと、あったのではなかったかしらって」


 娼館という言葉に、王と王子は声にならない息を漏らした。ウィリオンの目が見開く。彼が再び踏み出ようとしたことをニアナは察知し、わずかにそちらに目を向けることで制した。

 セドナ侯爵に一歩近寄り、耳打ちするように口元に手を寄せる。


 「だけどずいぶん、苦労いたしましたわ。ちょいと訳ありでお知り合いになったこちらの公爵様、逃がすわけにはまいりませんもの。そう、あなたさまのおっしゃるとおり……手練れ手管で、ね」


 囁くような声でそう言って微笑を零したニアナに、侯爵は好色そうに目元を歪めた。その視線は相手を意思のある人間とみるものではない。同じものを、ニアナは花街でも、あるいは父親からも、向けられてきている。


 「……ふ。やはり形だけの婚儀ということか。どうだ、ローディルダムの次男どのに飽き足らねば、わたしのところに来てみるか」


 その言葉に、ニアナは眉をあげ、わずかに首を傾けてみせた。微笑を浮かべたまま、とん、とさらに一歩を踏み出す。ニアナの胸が相手のそれに触れる距離となる。目を薄く閉じ、背を伸ばし、あたまひとつぶん高い相手の顔に鼻先を近づける。

 口づけを求める仕草だ。

 ウィリオンは大声をあげかけ、王子も腰を浮かせた。侯爵は驚きながらも、避けない。迎え入れるように手を上げようとした。


 と。


 「……あら」


 寸前で顔を止めたニアナは、すん、と鼻を鳴らし、閉じかけた瞼の奥から冷たい視線を侯爵へ向けてみせた。ごく小さく、囁く。


 「あなた、人間の匂いがしないわ。けだものは、無理。おあいにくさま」


 短く言葉を置いて一歩さがり、再び裾を摘まみ、くるりを踵を返した。たんたんと小気味よく歩いてウィリオンの隣に戻り、澄ましてその腕に自分の腕を絡め、上目遣いにセドナ侯爵を見る。


 ウィリオンには伝わっている。

 自分の腕を掴むニアナの手の温度が失せていることが。その脚が、がくがくと震え続けていることが。

 持ち上げている口角の、薄く貼り付けている微笑の、その向こうの彼女の意識がすでに半ば失せかけていることが。


 左の肘に置かれたニアナの手が外れかけた。力が入っていない。とうに限度を超えている彼女の心を支えるように、ウィリオンはその手を握り、ぐいと引き寄せた。どうすれば手のひらを介して自分の温度を彼女に移すことができるのか迷っている。なぜいま、自分の背に羽根がないのか、ニアナを包み込む柔らかな翼がないのかと、信じたこともない神を恨んでいる。


 ぽかんと口を開いたままだったセドナ侯爵の頬に徐々に赤みが差す。ニアナの方に踏み出ようとしたが、ウィリオンの視線に制止された。

 くそっ、というような言葉を吐いて、侯爵は王と第一王子のほうへ振り向いた。


 「よ、よろしいのですか……!」

 「何がでしょう」


 王子が答え、侯爵はニアナの方を指さしかけたが、引き込めた。王は認めた、と先ほど聞いているのだ。公爵家の妻としてのニアナの出自と資質を云々することはそれに異を唱えることとなり、併せて自己の度量の狭さ、女性の軽口を冗談と受け止めることのできない情けなさを浮き彫りにすることとなると考えた。

 ひとつ深呼吸をして、侯爵は首を振り、ぎこちなく口角を持ち上げた。


 「……いえ、失礼いたしました」

 「ときに、侯爵。本日の用向きはなにか」


 王が口を挟むと、ああ、と侯爵は声を出し、扉のほうに振り向いた。


 「カイン王子は過日、十八歳、ご成人となられましたので、ならいにより直轄領をお治めになります。ついては我が領の一部を、と考えまして。王子もなかなかご多忙で、やっと本日、ご帯同いただくことが叶いました。すぐに戻らねばなりませんので、ご裁可を。別室にてお待ちいただいております」


 ぱん、と侯爵が手を叩くと、ただちに扉が開いた。先ほどの執事が困惑顔で顔を出し、ついで別の人物が音もなく入ってきた。別室で待っていると侯爵は言ったが、扉の外で中の話を聞いていたらしい。壁に耳をつけていたのかもしれない。


 肩と胸まで流れた、つやのない紺色の髪、同じ色の瞳。侯爵と同様の鳶色の装束を身に着けているが、その痩せぎすの小柄な身体にあっていない。無理にひと寸法、大きいものを着させられている印象だった。

 足を引きずるような独特な歩き方で部屋のなかほどまで入ってきて、挨拶をするでもなく、じっとりと上目で王とアルノルド王子を見る。ついでウィリオンに視線を移し、そしてそのまま、横のニアナを見つめている。

 彼女はいたたまれなくなり、目で会釈をし、俯いた。


 「カイン王子、久しぶりの父王でいらっしゃいますぞ。ご挨拶を」


 セドナ侯爵に声をかけられて、それでもなお、彼……カイン第二王子は、ニアナから視線を外そうとしない。身動きもせず、肩をだらりと落として、亡霊のようにたたずんでいる。


 「王子」


 たまらず、セドナ侯爵がじかに手を伸ばしてその背を押し、王の前に導いた。いつまでもニアナの方を向いていた首も、ようやく王に向き直る。が、その直前に、色の薄いその唇がなにかの言葉を作ったように、ニアナは感じたのである。


 欲しい。


 そう、読み取れた。



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