生の残響
春の目黒川沿い。
桜の花びらがそよ風に舞い、水面に淡いピンクの模様を描いている。
俺は川沿いのカフェのテラス席に腰掛け、目の前のコーヒーを眺めていた。カップから立ち上る湯気と微かな苦い香り。850円。数年前なら600円で飲めたのに、今は何もかもが高騰してる。バイト代が雀の涙しかない俺には痛い出費だ。
それでも、たまには洒落た場所で頭を整理しようかと足を運んだ。原稿のネタが枯渇してる。締切が迫ってるのに、頭の中は真っ白だ。でも、隣の席から聞こえてくる会話に気を取られて、集中なんてできやしない。
「――もう私も老けてきたし、安楽死でもしようかしら」
さらっとそんな言葉が飛び出した。声の主は40代か50代くらいの女性二人。薄手のコートに身を包み、テーブルの上には季節限定の桜餅パフェが置かれている。スプーンでパフェをすくいながら、タブレットで何かを眺めてる。まるで旅行プランでも選ぶみたいに、「死」を気軽に語ってるんだ。
「まぁ、うちも子供が独立したし、今の夫といてもねぇ……」
「私の夫は否定的よ。昔気質だから仕方ないのかしらね」
「でも、記憶移植って夢みたいよね。健康な体に戻って、またバリバリ働ける。膝の痛みや肩こりから解放されて、もう一回人生やり直したいわ」
彼女たちはパフェを頬張りながら笑う。タブレットには「記憶移植サービス」の料金表が映し出されてる。基本プランで2,000万円、カスタムオプション――部分的な記憶の消去や追加――を入れるとさらに1.5倍以上かかるらしい。
記憶移植ってのは、自分の記憶を3歳までの子供に移すサービスだ。自分の子を使うこともできるけど、身寄りのない子や、富裕層向けに遺伝子操作で「デザインされた子供」に移植するのがトレンドなんだと。死がステータスになった今、高級な死に方として流行ってる。
「営業でバリバリやってた頃が懐かしいわ。あの勢いでもう一回生きたいよね」
「ほんと、この怠惰な体じゃ生きててもつまんないし」
俺には信じられない。3,500円のパフェを平然と頼んで、金に糸目をつけずに死に方を語るなんてさ。俺ならそんな金があったら、自費出版で箔押しの豪華な装丁の本を出したい。儲からなくてもいい。永遠に本棚に残して、俺のどうしようもない思想を金払って読む物好きがいたら、それだけで面白いじゃないか。30歳になっても小説で芽が出ない俺には、そんな夢しかない。職場を転々として、原稿にしがみついてる。才能はない。でも、他に道がないんだ。
「そういえば、友達がこの前安楽死してさ、豪華な式挙げてたのよ」
「えー、いいなぁ! どんな感じだった?」
「ホログラムで死ぬまでのストーリーを30分くらい流して、そのあと食事して、カプセルで綺麗に死ぬの。最後、予約半年待ちの高級チョコが手土産で出てきて、ほんと感動したわ」
「あー! テレビで見た! 口の中でスッと溶けるやつよね?」
「そうそう! あれは予約する価値あるわね」
まるで結婚式の打ち合わせだ。呆れて笑うしかない。ネタ整理に来たのに、これじゃ頭がまとまらない。
死がステータス? ふざけた世界だ。何のために生まれてきたんだよ。死ぬために生きてるのか?
冷めたコーヒーを一口飲む。苦さが舌に広がり、気分が重くなった。ノートを閉じて、会計を済ませて、店を出た。
武蔵小山の家に帰る途中、今後の予定を考えていた。直近の公募は3件。3万字以上で推敲込みで1作品2週間はかかる。締切は4月30日。どれか捨てないと間に合わない。でも、書くのは苦じゃない。それしかできないから生きてるようなもんだ。
歩きながら、川沿いの桜を見上げる。花びらが散って、アスファルトに落ちてる。少し寂しい気分になる。
家は築50年のボロアパート。風呂なし、トイレ共同。埃っぽい階段を上がると、部屋の空気が鼻につく。壁にはカビの染みが浮かんでて、窓の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。家賃5万円でなんとか暮らせてるけど、快適とは程遠い。
玄関の郵便受けに目をやると、サイケデリックな色使いの長封筒が刺さっていた。
初めて見る。税金の督促状か? 一応払ってるはずだ。
差出人は「品川区役所」。封筒に「※重要※必ず開封しお読みください」と赤字でデカデカと書いてある。心臓がドクンと鳴った。
部屋に上がって、埃っぽい床に座る。封筒を手に持つと、指先が微かに震えた。封を切ると、書類が5枚ほど出てきた。一番上の紙に目が釘付けになる。
「あなたは特定安楽死候補者に選ばれました」
黒い紙に赤い文字が不気味に浮かぶ。頭が真っ白になって、「は?」って声が漏れた。噂には聞いてた「特定安楽死候補者」。30歳超えると届く可能性があるって話だ。国が「社会に不要」と判断した人間を強制的に排除する制度だとうわさに聞いたことはある。
でも、まさか実在するとは。
なんで俺なんだ? 血の気が引いて、手が冷たくなった。読みたくないのに、目が次の行を追う。
「あなたは4月30日までに都営安楽死センターにて安楽死してください。国からの特別なオファーで、費用は無料です。書類手続きは既に完了しております。当日は身分証明書をご持参ください」
勝手に手続き済ませるな。死にたい奴なんていくらでもいるだろ。
怒りが湧いて紙を握り潰しそうになった。だが、下の注意書きに目が止まった。
「特定安楽死候補者に選ばれた場合、いかなる場合でも拒否はできません。4月30日までに処置を受けなかった場合、5月1日に強制執行いたします。強制執行の場合、苦痛を伴う可能性があります。選定の理由は非公開です」
拒否できない? 強制執行?
頭がクラクラして、膝がガクッと落ちそうになった。こんな理不尽があるか。死にたくない。やりたいことが山ほどある。
書類を床に叩きつけ座り込んだ。埃が舞って喉が乾いた。頭がぐちゃぐちゃで何も考えられない。目の前が暗くなり、手が震え続けた。
その夜、恐怖と絶望で眠れなかった。目を閉じると赤い文字が浮かぶ。ネットで調べても「特定安楽死候補者」は出てこない。検閲されてるのか、俺が最初なのか。分からないまま朝を迎えた。疲れすぎて眠れず、6時に起き上がった。死ぬまであと20日。どうすればいい?
15年前、両親が事故で死んだ。トラックとの正面衝突。助手席にいた母は即死、運転席の父は病院で息を引き取った。妹は当時10歳。俺は15歳だった。親戚が引き取る話もあったけど、結局施設に預けられた。それっきり会ってない。妹の名前は美咲。笑顔が可愛い子だった。最後に会った時、「お兄ちゃん、またね」って手を振ってた。あれから一度も連絡を取ってない。俺が情けないからだ。
友人も社会人になって疎遠だ。高校の文芸部の仲間とは、卒業後も何度か会った。でも、みんな就職して忙しくなって、自然と連絡が途絶えた。頼れるのは大家のじいさんくらい。空っぽな人生だ。
小説にしがみついてきた。高校の文芸部で賞を取ったのがきっかけだった。顧問の山田先生が「君には才能がある」と褒めてくれた。あの頃は「作家になれる」って信じてた。部室で仲間と笑いながら原稿を読み合った日々。地元の文芸誌に載った時は、みんなで喫茶店に行って祝ってくれた。コーヒーを奢ってくれた山田先生が、「これからも頑張れよ」って肩を叩いてくれた。
でも、大学を出てからは鳴かず飛ばず。30歳になっても一次選考止まり。才能がないのは分かってる。だが、他に何もできない。
公募に出しても、死んだら結果が見られない。小説を書く意味あるのか? でも、5万円あれば20日は生きられる。バイトは全部キャンセルだ。憂鬱で何もする気にならない。寝ていたいのに眠れない。
そんな時、インターホンが鳴った。おそらく大家のじいさんだ。億劫だけどドアを開ける。
「おはよう、恭ちゃん! おめでとう!」
「は? 何が?」
めでたくもないのに何だよ。じいさんがニヤニヤして続ける。
「区役所から聞いたよ! 特定安楽死候補者に選ばれたんだろ!」
目の前が暗くなり、崩れ落ちた。吐き気が止まらず、えずきながら床に手をつく。じいさんは驚いたみたいだけど、嬉しそうに言う。
「嬉しすぎて飲みすぎたか? 若いっていいねぇ。俺も死にたいけど、家内がいるし、アパートの管理もある。君にここ譲って心中しようかと思ってたのに、先越されちゃったな!」
殴りたい衝動を抑えて、涙が溢れた。世間じゃ「選ばれた優秀者」扱いらしいけど、俺には呪いだ。泣きわめいても、じいさんは「最後までやりたいことやっときなよ」と軽く言う。なんとか部屋に戻り、床に突っ伏して眠った。
喉の渇きで目覚めた。冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲む。死ぬかと思った――いや、死ぬ予定だから今死んでも変わらないか。パソコンを開き、公募一覧を眺める。埃っぽい部屋の中、モニターの光が目に刺さる。
「あなたにとって『自殺』とは何か」
締切は5月31日。3万字以内。俺の締切は4月30日だけど、今からなら書ける。それしかやることがない。最後に何か残したい。
深夜3時、電気もつけずにプロットを書き始めた。題材は決まってる。この理不尽な世界だ。安楽死が当たり前で、自殺が忘れられた時代。価値のない人間が自殺を選ぶまでの話。
タイトルは『存在の狭間』。死にたくない俺の叫びを込める。高校時代の記憶が蘇る。あの頃の仲間、山田先生の笑顔。それを原稿に刻む。妹の笑顔も浮かんだ。最後に会った時の「またね」が耳に残ってる。あの約束を守れなかった。
4月29日。書き終えた原稿を公募サイトに送信した。3万字ジャスト。推敲を重ねて、満足いく出来だ。主人公は俺に似た男。社会から見捨てられ、自殺を選ぶまでの葛藤を書いた。最後は川に飛び込むシーンで終わる。死ぬ前に残せた。それでいい。翌日、覚悟を決めて都営安楽死センターへ向かった。
葛飾区小菅。元拘置所跡地に建つ黒い建物。威圧感がすごい。入り口には警備員が立ち、金属探知機が設置されてる。まるで刑務所だ。受付でマイナンバーカードを渡す。係員が慌てて確認する。
「特定安楽死候補者の柳川恭介さんですね。最終日に来る方は珍しいです」
「死にたがりしかいないのかよ」
小声で呟いたら、苦笑いされた。黒いエレベーターで4階へ。豪華なフロアに呆れる。某有名デザイナーのソファ、絢爛な絵画。壁には金色の装飾が施され、シャンデリアが光ってる。税金の無駄遣いだ。
エレベーターの表示で3階までは緩和ケア病棟、5階以上は『体外発生技術研究課』と薄っすら見えた。デザインベイビーの製造所か。汚い商売だ。
『安楽死3』の部屋に案内される。小さな部屋だ。白い壁に囲まれ、中央に硬いベッド。窓はない。空気が冷たくて、消毒液の匂いが鼻をつく。医師がニヤっと笑ってる。50代くらいの男で、白衣のポケットにペンが刺さってる。表情が妙に冷たくて、鳥肌が立つ。
「名前をフルネームで」
「柳川恭介」
「ありがとう。こちらにどうぞ」
硬いベッドに寝る。医師が錠剤と水を手渡してきた。白い錠剤が手のひらでコロンと転がる。5分で感覚がなくなり、10分で意識が消えるらしい。怖くて手が震える。汗が滝のようだ。呼吸が乱れて、理性が飛んだ。
「嫌だ! 死にたくない!」
水をぶちまけて、錠剤を投げつける。医師の胸ぐらを掴もうとしたら、ドアが開いて屈強な男たちに押さえつけられた。3人だ。黒い制服で、顔に表情がない。抵抗しても無駄だ。
腕を広げられ、床に押し付けられる。左手に鋭い痛みが走り、麻酔が流し込まれる。視界がぼやけて、体が重くなる。
意識が薄れながら思う――俺は何を成したんだ?
最後に楽しかった記憶でもあれば――高校の文芸部で賞を取ったあの瞬間が蘇る。仲間と笑い合った部室。山田先生の「君ならやれるよ」という声。妹の「またね」が重なる。あの頃は生きてる実感があった。
あぁ、あっけない人生だったなぁ……。
*
葛飾区小菅、都営安楽死センター。デスクで死亡確認の判子を押す。
柳川恭介、30歳、無職に近い小説家。特定安楽死候補者だ。この制度は、貧困層や税金をろくに払えない無能を排除するためのもの。富を生まない奴は死ねってことさ。経歴を眺める。高校で文芸賞を取った記録がある。そこからずっと小説を書いてきたらしい。売れなかったようだが、執念だけは認めるよ。
俺の名前は佐藤健一。52歳。この仕事に就いて20年だ。医者だった頃は、患者を救うのが夢だった。大学病院で研修医をやってた時、夜通し手術して、患者の笑顔を見るのが生きがいだった。
でも、医療費削減のために安楽死制度が始まり俺はこっちに回された。
最初は抵抗したよ。医者が人を殺すなんてありえないって。でも、給料は倍になり、生活は安定した。妻と娘がいる。娘は今、大学3年だ。医学部を目指してる。俺が死にたくても死ねない理由さ。
「今日は3人だけか。昔は1日150人処理してたのに」
隣の事務員が笑いながら返す。「価値ある人間が増えたってことですね」
安楽死は最初、抽選になるほど人気だった。
俺も死にたかった時期があった。医者としてのストレスで潰れそうだったからだ。妻に相談したら、「あなたまで死なれたら私たちが困る」と泣かれた。それで思いとどまった。でも、区役所に申請した時も拒否された。理由は非公開だが、医者に死なれたら困るんだろう。皮肉なもんだ。柳川の叫びが耳に残る。「死にたくない」と泣き叫ぶ声。生を願うのは正しかったはずなのに、この世界じゃ異端だ。
数ヶ月後、お盆。人里離れた家でネットサーフィンをしてる。妻と娘は実家に帰省中だ。俺は仕事の疲れを言い訳に、一人で過ごしてる。論文を読むのも面倒で、ただ時間を潰してるだけ。
ふと、純文学賞の発表が目に入った。今年のテーマは「あなたにとって『自殺』とは何か」。大賞は『存在の狭間』。作者は柳川恭介。新人らしい。評価者のコメントが載ってる。
「死に至るまでの苦痛がよく描かれている。読んでいるだけで痛みが伝わってくる。価値のない人間が自殺を選ぶまでの葛藤が、鮮烈に描き出されている傑作」
柳川恭介? あの柳川か? まさかとは思うが、経歴を見ると確かにあの男だ。死ぬ前に応募したのか。皮肉だな。死にたくないと叫んでいた奴が、死後に認められた。
俺は医者として何百人も安楽死させてきた。柳川の叫びが耳に残ってる。あの原稿には、きっとその思いが詰まってるんだろう。
通販サイトを開く。『存在の狭間』を注文する。どうせ休暇中、暇だ。届いたら読んでみよう。何を思って書いたのか。あの叫びの裏に何があったのか。知りたい気がした。死にたくなかった男が、死んでなお残したもの。それがどんな痛みを俺に与えるのか――。柳川恭介。お前は俺に何を伝えようとしたんだ?
あの時の叫びが、耳の奥でこだましていた。