父戀し
〈酒場には蛇出る穴の無數あり 涙次〉
【ⅰ】
天神一享博士は、バイオ・テクノロジーの分野で多大な功績があり、文化勲章まで貰つた大人物である。だが、家族・身内には惠まれず、勢ひ世間からも爪彈きにされると云ふ憂き目に會ひつゝ、生きてゐた。
その點、世山は、姫宮眞人を「たばかつて」ゐたのだ。世山は、身代金なら幾ら積んでも惜しくない、と云ふ係累の者がゐるから、誘拐するのにこんな「適材」はゐまい、さう姫宮に吹き込んだ-
さうなると、もう姫宮は魔界に片足を突つ込んだも同然、なんとなれば、世山は「魔界への誘惑者」であつたからだ。彼は天神博士の身柄より、姫宮の魂を實は慾してゐた。
姫宮には一子あり、その名を由香梨と云つた。
【ⅱ】
だが、何ゆゑこの靑年:杵塚が、由香梨を連れてゐるかは、「縁は異なもの」とでも云ふしかない。スクーター、ホンダ・スペイシー100(レアカラーのコカコーラ・レッド、メットケースは付いてゐない)に、いつもタンデムしてゐる二人連れ、とカンテラが記憶してゐる他は、氣にかける者はゐなかつた。
杵塚とは酒場で口論になりかけた事があり、カンテラは強く印象づけられてゐた。口論の内容は、ナム・ジュン・パイクとシャーロット・モーマンのコラボレイション作品について、であり、「俺も莫迦げた事を云つたもんだけど...」こんなハイブラウな論争が出來る靑年を「今どき珍しい」、と頼もしいやうな氣さへカンテラにはしたものだ。
杵塚は杵塚で、いつも綺麗な女性を連れてゐる、この「侍」の異装の男に、恐れに似た感情を抱いてゐた。悦美とカンテラ、である。
【ⅲ】
杵塚は、悦美に、横戀慕寸前の氣持ちを持つてゐたが、その「侍」のガールフレンドだと云ふ理由で、戀の鞘当ては差し控へた。
たまたまさう云ふ「周期」にあつたのかも知れない、「野性の勘」による決断。この「侍」、危険な人物だぞ、その勘は云つてゐた。
そして、世山と姫宮の、天神博士誘拐が破局を迎へたその時から、由香梨の「父ちやん戀し」の日々は、始まつたのだつた。姫宮はそれ以來、魔界の住人となつてしまつたからである。
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〈賤が女の目の云ふ通り春の宵 涙次〉
【ⅳ】
杵塚は、またもばつたりと(さうなるやうに計算してゐたのだ)酒場でカンテラに遭遇した。
「あんた、有名な【魔】退治の」云ひ差す杵塚に、カンテラ「皆迄云ふな。俺の八卦で当てゝやる」彼は筮竹をぢやらぢやら鳴らし、占つた。易の答へは「父戀し」であつた。
「その娘(と、カンテラ、由香梨を顎で指して)の父親、何処行つたんだ?」「マカイつて、父ちやん云つてたよ」屈託ない由香梨だつたが、この言葉は、杵塚にも初耳であつた。
「をぢさんはね、實は惡い人なんだ。カネづくで、お前さんの父ちやんみたいな人を救ふ稼業の人間? なんだよ」その言葉が通じたのかは分からない。しかし由香梨が「はい、これ。あんたにあげる」と、首に提げた巨大なサファイア付きのネックレスを、カンテラに差し出したのも、事實、なのである。
「よしよし、偉いぞ」とカンテラは由香梨の頭を撫で、「ま、この件、俺らに任せ給へ」と杵塚に云ひ、去つて行つた。
【ⅴ】
カンテラは、テオのPC(魔界への拔け道ソフトを取り込んでゐる)から、呼びかけた。「姫宮眞人、ゐるなら聞いてくれ。お宅のお嬢さんは俺が預かつてゐる。一目見たいとは思はないか?」姫宮は思はず浮足立つたが、世山にその動きを封じられた。
「よせよせ、だうせ罠に決まつてる」さう、これはカンテラ一世一代の「罠」だつた。カンテラは、由香梨に嘘をついてゐた。彼は、「姫宮を斬るのは、俺だ。せめて、冥途へ向かふ際の功徳に」と、心に決めていたのだ。
【魔】の世界に、一度足を踏み入れた人間を、生かしておく譯には、いかなかつた。
【ⅵ】
と、ざつとそんな處が、作者の記せる範囲である。
カンテラは、本当に姫宮を斬つたのか、ならば世山はだうなつたのか、教へる者とて、ゐない。全く世の中だうかしてゐるよ。作者の嘆きを以て、この一卷の終はりとさせて頂く。
因みに、由香梨には、母なる者は、ハナからゐない。本当に、世の中だうかしてゐる。
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〈世は闇と音に聞いたか目に見たかサヨナラだけを人生として 平手みき〉